#5388/5495 長編
★タイトル (GSC ) 01/01/05 22:54 (198)
ベルタ おいで (盲導犬と共に) / 竹木 貝石
★内容
ベルタ おいで (盲導犬と共に) NO.7 柏木 保行 (竹木 貝石)
第三部 名古屋編
22 ふるさとの街
名古屋盲学校に勤めるようになってからしばらくの間は、ベルタを家で留守
番させていましたが、先輩や同僚の勧めで職員室に置くことが叶い、それから
は天気の良い日なら毎日ベルタと通勤するようになりました。全国的にみても、
学校へ盲導犬を連れてくる人はそんなに多くないと思いますが、職場の人達も
よく理解してくれていて、例えば、私の席は優先的に、職員室の一番奥の壁際
に移してもらいました。
今度の借家は、その昔私が苦学しながら通った道と同じ方角で、見覚えのあ
る町並とはいえ、すっかり様子が変わってしまって、一人で歩くのには骨が折
れます。名古屋では盲導犬の市電・市バス添乗が認められていなかったため、
徒歩で片道40分、ベルタと通うことになりました。
朝、家を出てから国道19号線を進み、歩道橋を渡って、名鉄瀬戸線を踏み
切り、中央線のガードをくぐって、市電の線路沿いを停留所四つほど歩きます。
角角でぴたりと停まり、歩道橋や信号を上手に誘導していくベルタを見て、女
学生や子ども連れのお母さんが感心して通ります。名古屋なまりののどかに響
く街中を、青春時代の思い出に浸りながら歩いていると、なんだか夢の中にい
るような気分になるのでした。
6月にはかねて申し込んでおいた県営住宅に転居しました。ここは前の住ま
いよりさらに市バスで五つほど北東へ行かねばならず、徒歩の通勤は無理です
が、幸い国電がありました。わが家から新守山駅まで徒歩15分、中央線で大
曽根駅まで1区間乗って、そこから学校まで約25分歩きます。面倒なようで
も、犬を連れずに市バスを乗り継いで通勤するよりは時間的にも早いし、神経
の疲れ具合が違います。毎日往復1時間半も歩くというとみんなは驚きますが、
私にはちょうど良い運動です。
困るのは雨の日で、犬と歩くと泥水が跳ね上がってひどく汚れるため、今雨
降りにはベルタ無しで通っています。雨降りこそ勘が働きにくく、盲導犬が役
立つ筈なのですが、泥で汚れた衣服を取り替えたり、ベルタを綺麗に拭き取っ
たりする手間と時間を考えると、つい家に置いてきてしまいます。もっと乗り
物の便利が良くなれば、雨の中を歩く距離が短くなって汚れも少なく、乗客の
方々への迷惑も最小限に出来ると思います。
県営住宅は庭と風呂場が有るので、ベルタには好都合です。ときどき庭を走
らせて運動不足を補い、月に2〜3回はベルタを湯殿でシャンプーします。ベ
ルタは見違えるほど綺麗になり、犬くさい匂いも取れました。
今やベルタは名実共に名古屋の住民になりました。
23 相次ぐ病
しかし、ここに最悪の事態が起こりました。ベルタは7月頃から激しい下痢
と血便を来し、夜中に二度も三度も呼び起こしたり、学校でも、授業中私がそ
ばに居ない間に、一度ならず用便を訴えて、他の職員にグランドへ連れ出して
もらったりしました。いつも水のような血便です。いくらしつけの良い犬でも、
うっかりすると屋内で漏らしてしまわないとも限りません。何か悪い寄生虫が
居るのか、悪性の疾患にとりつかれたか、それとも、度々の環境変化で心身に
ストレスが貯まったためかなどと、あれこれ考え合わせると、ベルタが可哀想
でなりません。
獣医の田代昇一、中原喧次、和田修身の3先生には、その都度検査や診察を
していただき、十二指腸虫の駆除を4クール、フィラリア症の予防と治療、消
化剤・栄養剤・抗生物質を与えて、やっと少し安定しました。
翌年の春から夏にかけて再び調子を崩し、体重も20キロに減って、ベルタ
はやせっぽちで哀れに見えます。シェパードは体質的に胃腸が弱く、特にベル
タは小食で太らない質とはいえ、このままではやがて死んでしまうのではない
かと悲しくなります。主食はドッグフードを減らして味付けご飯に切り替え、
卵やチーズを与えて根気よく運動させました。
その後胃腸の具合はぐんと良くなりましたが、今度は後ろ足に振顫が出るよ
うになりました。ほんの2〜3分間立っているだけで、足がけいれんのように
ガタガタと震えます。長く立っているのがつらいらしく、すぐにうずくまって
しまい、誰かが遊びに来てくれても、以前のように立ち上がらなくなりました。
こうなる前は、あんまりベルタが人なつこ過ぎるので、多少厳しい目で見てい
た私も、犬というのはやはり明るく元気なのに越したことはないと思うように
なりました。
歩行速度もずっと遅くなって、私のペースにはちょうど良い場合もあります
が、なんといっても、健康な犬と早足で歩く爽快さは忘れられません。本当に
この先どうなってしまうのでしょうか?
24 真の愛情を
さて、ここで私から、社会の皆様方に是非とも守っていただきたいお願いが
あります。
その一つは、飼い犬を放し飼いにしないでほしいということです。私の通勤
途上にも、決まって2軒の家から犬が飛び出してきて、吠えたりうなったりし
ながら、ベルタの周りをグルグル回って着いてきます。いくら吠えてもベルタ
が相手にしないとみると、今度は飛びかかってくるのです。私は腹立ち紛れに
拳を振り上げて追い払おうとするのですが、執念深くてなかなか退散しません。
それを飼い主が見ていて、犬の名前を優しく呼びながら、
「いけません。駄目ですよ」
などと言っているのはまだしも、知らぬ顔の人が居るのはいったいどういう
神経でしょう?
私はベルタが可哀想でなりません。自分よりずっと小さな犬に挑戦されても、
追い払わずにむしろ逃げなければならないのです。
もし事故でもあったら取り返しがつかないし、何より心配なのは、病気を移さ
れはしないかという点です。普通の犬は病を持っていても案外平気ですが、盲
導犬は避妊手術などの処置によって体調が狂いがちなものです。よその犬がす
っ飛んでくる度に、私は寿命の縮む思いをしています。本当は飼い主の方に直
接お話すればよいのでしょうが、なかなか言いにくいものです。どうかその辺
の事情をお酌みとりの上、極力お宅の犬を手元につなぎ留めておいてくださる
ようお願いします。
これと似たようなことですが、犬を散歩に出したついでに、道ばたで排便さ
せてそのままにしている人が居ます。これは不潔でもあり、消化器感染の恐れ
もありますので、私どもはいつもビニール袋を携帯していて、いついかなる所
でも、綺麗に取って持って帰ります。私はベルタの便を汚らしいと感じないか
ら不思議です。
プラットホームで電車を待っているときなど、赤ちゃんにベルタを触らせる
お母さんが居ます。だんだん慣れてくると、耳を引っ張ったり眼を突っついた
りして、ベルタが悲鳴を上げるほど痛いことさえあり、いかにも哀れです。決
してあり得ないことですが、もし仮に、気の強い盲導犬が居て、悪戯をする子
どもにかみついたとしたらどうでしょう!
「盲導犬もやっぱり畜生だった。これだから乗り物に乗せるのは反対なんだ」
ということにならないとは、誰が保証してくれるでしょうか。
盲導犬に対する理解が低い人の中にも二通りのタイプがあるようです。
「盲導犬といえども万一事故を起こさないとはいえないから、なるべく人中へ
連れ出さないでほしい」
という見解と、もう一つは、
「おとなしくて賢い犬だから、みんなで可愛がってやろう」
という考え方です。
前者については、過去の実績からみて杞憂という他なく、このような偏見の
ゆえに、盲導犬の活用が制限されているのです。
後者の見解は、いわば表面的な愛情であって、盲導犬と見ればすぐ呼んだり
なでたりしてくださる、そのお心持ちはありがたいのですが、特にハーネスワ
ークやウェイティングの最中には、声を掛けていただいては困ります。
盲導犬の正しいあり方、本当の使命をご理解の上、そっと見守っていてくだ
さるならば、それが真の愛情と申すものでしょう。
25 念願叶って
現在、わが国には6箇所に訓練所(盲導犬協会)がありますが、その運営は
おおむね寄付金によって支えられているのが現状です。寄付集めに奔走するご
苦労もさることながら、私どもの第二の目ともいうべき盲導犬の育成は、国の
力で行われるのが理想ではないでしょうか(注9)。
また、各訓練所の経営理念や活動方針にも多少の相違があり、目的は同じで
も手段において幾分の食い違いがみられます。訓練の独自性を生かすのは結構
ですが、根本的には、私ども視覚障害者の立場を優先していただかねばなりま
せん。その意味で、盲導犬協会間で話し合いの場が持たれるようになったのは
喜ばしいことです。今後とも一層連絡を密にし、共に手を携えて、盲導犬事業
の推進に努力していただければ幸いと存じます。
近年とみに盲導犬に対する認識が深まってきたのは嬉しい限りで、その第1
は、国鉄の全線フリー乗車が認められたことです。昨年(1973年)には、
日本全国何処でも自由に乗れるようになり、いちいち書類を出さなくてもよく
なりました。名鉄や名古屋の地下鉄にはそれ以前から乗せてもらっていました
が、さらに市電・市バスの盲導犬添乗も認められました。私にとって一番あり
がたいのは、名古屋市交通局が、通勤者についてはラッシュアワーでも乗車を
許可してくださったことです。おそらく全国でも初の画期的なはからいといえ
ましょう。とかく責任問題や苦情を理由に、私達障害者の声が入れられにくい
中で、交通局や乗客の皆様方が、福祉対策に大きく一歩踏み切ってくださった
ことは、喜びに堪えません。
名古屋に来て既に2年余、ベルタをもらって「北海道第一号」と騒がれたあ
の頃からもう4年近くになります。盲導犬は寿命が短いといわれますが、ベル
タは今5歳半、健康状態もめっきり良くなり、ますます円熟してきて、ほとん
ど叱る必要は無くなりました。
愛知県内には先に紹介した吉野さんと青山さんの犬の他、中部盲導犬協会出
身の4頭が活躍し、ほどなく名古屋盲学校にも仲間が来る予定です。もっとユ
ーザーが増えて、盲導犬が珍しくなくなるような、そんな世の中が1日も早く
訪れることを願って止みません。
(注9:最近は、盲導犬事業に対する補助金が、国や地方自治体からもある
程度支出されるようになったかと思います。)
26 田舎道を行く
私の通勤には色々な経路があります。
第一のコース(雨上がりで道路がぬかるんでいるとき):徒歩8分→市バス1
5分→市バス15分→徒歩15分、+乗り換え待ち合わせ時間5〜10分=計約
1時間。但し、このコースは交通渋滞のためじれったいほどバスが進まず、著し
く遅れる場合があります。
第二のコース(日曜祝日などでバスが混雑しないとき):徒歩15分→国電5
分→市バス15分→徒歩5分、+乗り換え待ち合わせ時間5〜10分=計約50
分。これは歩く距離が短いので、雨降りにベルタ無しで出勤するときにも使いま
すが、一人で歩く時間はベルタと歩く時間の2〜3倍を要します。
第三のコース(第一と第二をつなぎ合わせた方法):徒歩8分→市バス20分
→市バス15分→徒歩5分、+乗り換え待ち合わせ時間10〜15分=計約1時
間。交通渋滞や満員バスを覚悟しなければなりません。
第四のコース(好天だがベルタや私のコンディションが悪い、夏の暑い盛り、
重たい荷物を持つ等のとき):徒歩15分→国電5分→市バス7分→徒歩15分、
+乗り換え待ち合わせ時間5〜10分=計約1時間。途中2箇所、信号機の無い
危険な道路を横断しなければなりません。
第五のコース(人も犬も空模様も全て申し分無いとき):徒歩15分→国電5
分→徒歩25分、+乗り換え待ち合わせ時間5分=計約50分。これが一番普通
のコースで、私の大好きな経路でもあります。
途中、歩道橋を渡ってから新守山駅までの僅か5〜6分の距離ですが、実に
静かな道があります。国鉄の線路沿いなのでときどき列車は通りますが、自動
車の騒音は遠いし、人家や人通りも少なく、のんびりした気分で歩いていると、
田圃の畦で草刈りをする人や、虫取り網を持った子どもに行き会います。
春先には雲雀のさえずり、5、6月には蛙の合唱を聴きながら、ベルタとゆ
ったり歩きます。
夏の午後はうだるような草いきれの中、ベルタが「ハッハッハッハッ」と息
づかい荒く進むので、まるで蒸気機関車に引っ張られているみたい、時折足下
からキチキチバッタが飛び跳ねます。
秋は降るような虫時雨、私は閻魔こおろぎの声が大好きなので、しばし立ち
止まって耳を傾けます。
冬の朝は、顔にピリピリ冷気を感じながらスピードを上げて行くと、駅に着
く頃には体がほのぼのと暖まります。
この静かな田舎道、いったいいつまで保存されることでしょうか? でも、
私のベルタは命在る限り、この道を歩き続けます。