#5217/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/10/31 0: 8 (199)
そばにいるだけで 53−3 寺嶋公香
★内容 18/06/13 02:25 修正 第3版
鷲宇がお詫びに家まで送ってあげると言うから、遠慮なくお言葉に甘えるこ
とにした。その車中、薄明かりの下、後部座席の純子はアルバムを見ようと考
えたが、実行に移す寸前で、結城からの頼まれ事を思い出した。レッスンのあ
と切り出すつもりが、話が妙な方向に行ったため、すっかり忘れていたのだ。
「鷲宇さん、今、よろしいですか」
「どうぞ」
曲作りの端緒を掴んだときの鷲宇を邪魔するのは避けたい。純子は確認を取
った。
「蓮田秋人さんについてなんですが、あの方にまた会えます?」
「どうしたの? 別れたあとで、好きだと気付いたとか?」
「へ、変なこと言わないでください! 友達からサインを頼まれたんです。一
家そろって蓮田さんの大ファンだって言うから」
「珍しいね、君がそんなこと引き受けるなんて。初めてじゃないですか?」
「今までもありました」
「僕は一度しか頼まれた記憶がない」
芝居がかって、ハンドルにもたれる風にしてうなだれる鷲宇。ちょうど、赤
信号で停止したところだ。
「人気ないんだ……」
「違いますよーっ。だって、みんな、私が鷲宇さんと知り合いだとは思っても
いないだから、頼んでくるはずが」
「じゃあ、何故、蓮田さんには? あの人と知り合いだと、君は友達に宣伝し
て回ったのかい?」
運転席の鷲宇が、恨みがましく肩越しに振り返った。純子は嘆息して、天井
を仰いだ。
「そんなこと、するわけないじゃないですか。もう、意地悪はよしてください」
「難しい話なんだよ、実際のところ」
真顔に戻り、青信号に一瞬遅れて、車をスタートさせる鷲宇。
「蓮田さんはねえ、スケジュールさえ空いていたら、たいていは快く会ってく
ださる。しかし、その空きスケジュールがなかなかない。あれば、すぐに埋ま
ってしまう」
「……でしょうね」
蓮田の活動ぶりを思い浮かべながら、納得する純子。鷲宇は片手を離し、人
差し指を立てた。
「それに加えてもう一つ。あの人は人懐っこいくせして、躁鬱の波が激しいん
だよ。バイオリズムというかテンションが低いときに会うと、凄く無愛想な応
対をされる。嫌われてるわけじゃないんだけど、こちらとしては堪えるんだ。
重苦しくて」
「恐い感じになるんですか」
さもありなん、と素直に思えてしまう。
「恐い……そうだね。テンションが低ければ、無理をして人と会わなくてもい
いのに。あの人の立場は、それができる立場なんだから。でも、義理堅くて、
約束したことは、身近の者に不幸がない限り、必ず守るのが信条だそうだよ」
「人付き合いを、とても大切になさってるんですね。テレビとはイメージが違
う。ちょっと意外な感じ」
「昔――ま、これはいいか。サインのことに話を戻すと、蓮田さんは、その場
にいない人に対してサインを書くのは、嫌いらしいよ」
「ええ? それを早く言ってくださいっ」
思わず叫び、頭を抱えたくなった。
「それだと、サイン、絶対に無理じゃないですか〜」
「嫌いだけれど、絶対にしないという意味ではないよ。たださ、サインほしけ
れば、俺の真ん前まで来い、って人なんだよね」
「わ、分からなくはないですが、だけど、蓮田さんてガードが堅くて有名でし
ょう? 会場や現場に出入りするときだって、ボディガードが周囲を固めて、
ファンは近付けないと聞きました」
「うん、それは当たっているけれど」
ルームミラーの中の鷲宇が、手の甲を口元に当て、苦笑する。
「ご本人は、あの通り、サインマニアなんです、不思議なことに」
「それで片づけていいのかしら……」
「いいんです。とにかく、その友達を連れてきたらどうです? 蓮田さんにそ
の子が直接頼めば、問題なくサインをもらえると思う」
「そんな。私が久住淳だとばれてしまうじゃないですか」
純子が非難を込めて否定すると、鷲宇はすかさず、「あ、そうだね」とつぶ
やいた。本当に気付いていなかったのか、純子を試すつもりだったのか、定か
でない。ただ、直後に、
「他にうまい方法を考えよう。きっとある」
しゃあしゃあと言って、にこにこ笑っているさまを見ると、どうやら後者で
ある可能性が高そうだ。
「……じゃあ、もう一度、私を蓮田さんに紹介していただけます?」
無理だろうなと思いつつ、言ってみた。
「言うまでもなく、今度は久住淳の格好をせずに、です。そうしたら、私を通
してマコを紹介できるんですけど」
「ふむ、友達の名前は、マコというんだね」
「名前のことは、今は関係ないんじゃあ……」
「そうだね。さてさて、一介のファッションモデルに、向こうがどれほど関心
を持ってくれるか、それが問題だ。蓮田さんは、ファッション方面には興味が
薄いようだからねえ」
難しそうな顔付きになり、首を捻った鷲宇。純子の自宅が、真っ直ぐに延び
る道の先に、かすかに見えてきた。
「とにかく、頼んでみてください。お願いします」
唐沢からの写真をじっくり見ることができたのは、その日の夜、就寝する直
前になってしまった。
風呂でさっぱりし、寝巻きに着替え、両親におやすみなさいの挨拶をしたあ
と、自室に入り、扉を閉じたあと、机の上に出しておいたアルバムを手に取る。
最初、見るのはベッドに潜り込んでから、と思っていたが、やめた。いくら
疲れているからといって、それでは写真を撮ってくれた唐沢に悪いという意識
が働く。机までの短い距離を引き返し、椅子を引いて腰掛けると、深呼吸を一
つ挟んで、表紙をめくってみた。
と、ひんやりした空気を感じて、手が止まる。モデルをやり出してからこっ
ち、身体に殊更気を遣うようになった。湯冷めしないようにと、立ち上がって
衣装棚から桃色をした肩掛けを取ってきて、羽織った。
そして今度こそ、写真を見始める。
「……」
いきなり一枚目から、無口にさせられた。
当然ながら、アルバムの写真は撮影した順になっていた。あの日、唐沢がシ
ャッターを最初に切ったのは、相羽と富井、井口のスリーショットだった。三
人の楽しげな笑顔が原因で、純子の眉が下がる。
(……くよくよしても、仕方ないわ。こうなることを望んだのは、私自身なん
だから)
噛みしめていた唇を解き、無理にでも笑おうとする。ちょっと淋しげなもの
になったのに、本人は気付いていなかった。
アルバムは一ページに二枚ずつ、挿入できる体裁になっている。三人揃って
の写真の下は、相羽と井口が並んでいた。
(郁江も久仁香も、とっても嬉しそう)
弾けるような笑顔とは、これを言うのだろう。富井や井口の話し声が、聞こ
えてきそうな感じだ。事実、純子の心中では、あのときの台詞の断片が蘇って
きていた。
純子は頭を振り、ページをめくった。次は、相羽と富井のツーショットが出
て来る。
(あぁ……二人の内のどちらかと、相羽君が付き合い始めたら、あきらめがつ
くかもしれないのに)
もしそうなったら、今度は郁江と久仁香の仲が悪くなるのかしら。それも困
る――そんなことを思いながら、また次の写真に目を移す。
唐沢と並んでいるところの写真が出て来た。相羽が撮ってくれた写真。
(こうして改めてじっくり見ると、唐沢君がもてるのが、よく分かる気がする。
派手で華のある感じよね。人目を引く容姿。同じ二枚目でも、相羽君は落ち着
いた感じの――いけない)
ぶるぶると首を振る純子。油断すると、すぐさま想いが顔を出す。気を引き
締めて、写真選びに専念しようとする。
(一応、自分が写っている分は、全部もらおう……あれ?)
最後のページに来て、再び手が止まった。そこにあった一葉に、目を見張ら
されてしまう。
「唐沢君てば、いつの間に、こんな」
自然とつぶやいていた。
そこには、並んで歩く後ろ姿の純子と相羽が、お互いに向き合い、楽しそう
に喋る場面が切り取ってあった。まるで、恋人のように。
(あの日は相羽君とほとんど話さなかったのに……ほんのちょっぴり言葉を交わしたと
き、私ったらこんな顔をしてたんだ)
自らの笑みに気を取られ、相羽の笑顔について深く考える余裕は今の純子にはなかっ
た。
(……ほんとにこうなったら、嬉しいのにね)
深い吐息。うつむきがちになって、解いていた髪が純子の顔を隠した。よし、
と掛け声を入れ、髪を手でかき上げると同時に、面を起こす。気を取り直して、
ほしい写真のメモ用紙に、鉛筆で印を入れた。丸印が、他と比べて少し濃くな
ったようだ。
(知らない内に撮られたものだけれど、一番嬉しい、ほしかった写真)
そう思うと、憂鬱さもどこかに行ってしまって、頬が緩む。
全部見終わって、純子はアルバムを閉じた。次の休みに、町田達と会って、
わいわい言いながら、また見ることになるだろう。楽しみであり、ちょっとだ
け、不安でもあるけれど。
アルバムを机の隅に片付けてから、両腕を上げて伸びをした純子。あくびを
手のひらで覆い隠しながら、部屋の明かりを落とす。豆球だけが灯る中、ベッ
ドに向かい、そして布団を被るその間際に、わずかに首を傾げた。
(隠し撮りするなんて。唐沢君、言ってくれればよかったのに。どうして黙っ
てたのかしら?)
疑問は一瞬のことで、布団を顎先に届くまで被った純子は、三分と経たない
内に、寝息を立て始めた。
いくら忙しくても、掃除当番は回ってくる。さぼったり、人に代わってもら
ったりすることをよしとしない純子は、クラスメイトと一緒に、教室の掃除に
いそしんでいた。
「乾拭きっていうのは、どうも手応えがないわね」
結城がモップを持って教室内を端から順に、往復しながら、同じ台詞を繰り
返している。
「汚れが落ちてるんだか、落ちてないんだか、分かりにくい」
と言いつつ、床をこするモップに力を込める結城。こういうときは、腕がや
けにたくましく見えた。男子も一人、モップをやっているのだが、それよりず
っと手つきがいい。
「小学校のときは、よく雑巾でやったよね」
純子の方は、ほうきを手にしている。モップより先に、床の塵を掃き集めて
いく。
「そうそう。バケツいっぱいに水を汲んできて、固く絞ってね。あれこそ掃除
をしているという実感があったわ」
「うん。でも、冬がつらい!」
「冷たいもんねえ。私も嫌だった。でも、今の私なら、平気だけど」
水仕事に慣れた結城は、自信満々に胸を張る。一瞬、手が止まったが、思い
出したようにまたモップを動かし始めた。
「私は、今、寒いですわ」
校庭に面した窓から、淡島の震え気味の声が聞こえた。開け放した窓ガラス
を雑巾で乾拭きしている。風が強く、彼女の髪が流され、黒い幕を作っていた。
「そう? ちょうどよくて、気持ちいいと思うけどな」
結城の言葉に、淡島は自分で自分を抱きしめ、首を振った。
「それでは、代わってほしいです」
「いいよと言いたいところだけど……あんたって、ちょっとばかり非力だから、
モップはだめ」
遠慮しいしい、それでもきっぱり断って、モップの柄を強く握る結城。
淡島の視線が、ほうきを持つ二人に向く。一人は男子で、もう一人はもちろ
ん、純子。
「すぐに終わっちゃうぜ」
男子の方が答えると、淡島は案外、あっさりとあきらめ、「仕方ありません」
と納得した風にうなずいた。
「これも運命と思って、受け入れましょう」
「んな、大げさな」
笑いが起こったのとほぼ同時に、ほうきの役目は終わっていた。ちりとりを
持ち上げ、ごみを屑篭に流し入れる。それから、純子は男子とジャンケンをし
た。負けたので、外にある集積所まで捨てに行くことに。
「行ってくるね」
結城と淡島に小さく手を振ってから、屑篭を持って教室を出た。
ごみ捨ては、案外、面倒だ。一階まで降りて、生徒昇降口に向かい、靴を履
き替えてから外に出て、右に大きく回って、中庭を抜けて行かなければならな
い。安全面を考え、普段、生徒が近付かないような場所にこしらえたのだから
仕方がない。
小走りで駆けてきて、集積所の前まで来ると、純子は屑篭を両手で抱え直し
た。ぱっと、景気よくひっくり返し、中身を放る。念のため、ごみが残ってい
ないか屑篭の内側を確かめてから、方向転換。
歩き出して数歩、校舎の角を曲がろうとした刹那、風向きのせいか、壁によ
る反響か、ひそひそ声が不意に聞こえてきた。
――つづく