#5214/5495 長編
★タイトル (EJM ) 00/10/30 8:32 (117)
お題>行列のできる店(下) 青木無常
★内容
いた。年齢に似合わぬかわいらしい水玉模様のパジャマは、夫人の見立てだから
だろう。消えた男は、ゆるやかにうねる丘の中腹あたりで、ほかの者たちと同様に
ひざに顔をうずめた胎児の姿勢でどんよりとひとりの世界に沈みこんでいる。
かけ寄り、ゆり動かしてみた。ながいあいだの無反応、ついで睡眠をむりやり妨
げられたようないやいやの身ぶりを経て、男はようやく顔をあげた。
うだつのあがらない中年顔は、たしかに妻に見せられた写真と合致する。ごてい
ねいなことに、想像どおりの無気力ぶりまでそのままだ。
「おいあんた。こんなところで何やってんだ」
口にしてから、そのセリフのあまりの間抜けぶりにみずから赤面した。夢とも知
れぬ異世界で発するには、不適切きわまるいいぐさだ。ここでなら、動きまわって
いるおれのほうが異常行動という言葉にふさわしかろう。
それでも中年男は、どんよりと曇らせた目の焦点を一生懸命おれにあわせようと
しながら、もぐもぐと口の内部でなにごとかしゃべった。
「あ? 何だって?」
おれはあわてて男の口もとに耳をよせる。最初は何をいっているのかわからなか
ったが、どうやらおれになにごとかを勧めているらしい。なにを? 眠ることを。
ひとりの世界に、回帰することを。
夢見心地にもごもごと発されるだけの、いってみればうわごとに近いセリフばか
りだったので意味を把握するのに時間がかかったが、要するにこの荒野は“ひとり
の世界”――文字通りの、自分だけの安息境へと至るための、ゆりかごのようなも
のなのだという。ここで胎児の姿勢をとって眠りにつけば、永遠にたゆたう波風の
ない夢幻のなかに回帰することができるのだそうだ。そこにはあらゆる感情を廃し
た、羊水の内部のごとき安らぎがみちみちており、もうろうとした幸福感に支配さ
れたままいつまでも平安に過ごすことができるのだと。
あんたもそこへともに行こう、と男は何度も口にした。けだるげな、眠りを誘う
ような重い、それでいて安らぎにみちた口調で。
いつのまにそうしていたのかはわからない。気がつくと、おれも周囲の人間たち
と同じように、ひざを抱えた姿勢で目を閉じていた。もうろうとした意識の底には、
確かに羊水内部を思わせるような、混沌とした薄闇がひろがり、その内部をただよ
っているだけで底知れぬ平安がみちみちている。
そのままそこで安らぎを甘受するのもいいかもしれない。芽生えた想いは、覚醒
した世界で生きていくことの重さやつらさやわずらわしさ、希望が見えないことへ
のやる背なさなどに後押しされて、もう現実になど帰りたくないという強い願望へ
と変貌し――やがてすべてがもうろうとした安堵感の渦におし流される。
目覚めなければ、もしかしたら幸福に死ぬことができたのかもしれない、と今で
もときどき思うことがある。
残念ながら、というべきかどうか。
ゆらめく安寧のどぶ泥のなかで、おれはふと、ひとつの顔を思いうかべた。
あの裏通りの店で、去りぎわに垣間見た占い師の、福々しい営業スマイルを。
最初から、あの顔を見せられていたら、たぶんころりとだまされていたにちがい
ない。
あいにく、客としてではなく訪れたおれに、あの占い師は素顔を見せていた。皮
肉にみちた、いやみな微笑を。
ひっかかってたまるか。
芽生えた反抗心が、怠惰な安寧の底に沈みこもうとする意識に鞭をくれる。いや
いやながらおれは目をさまし、もとどおりの――奇妙な荒野にたたずむ自分を発見
した。熟睡しているところをむりやり叩き起こされたあいまいな不快感は――
つぎの瞬間、目にした光景に一気に吹き飛ばされる。
曇天のにぶい光がどろどろとひろがる空を背に、その巨人はゆったりとした足ど
りで一、二歩足を進めては、荒野にうずくまるいくつもの人影をひょいとつまみあ
げて口腔内部に放りこんでいた。
いとも無造作に咽喉深くにのみこまれていきながら、胎児の姿勢のままひとびと
は抗うそぶりさえ見せない。
あのまま、安寧境にただよいながら死んでいけるのなら最高の死にかたなのかも
しれない、との想いがちらりとうかんだ。あわてて首を左右にふり、パジャマ姿を
さがす。
ぶつぶつと文句ともつかぬうわごとを口にする男を、正気づかせるのももどかし
いので有無をもいわせず背中にかつぎあげ、そのまま丘をのぼりはじめた。
優雅なしぐさでつぎつぎにひとびとをのみこんでいく巨人は、立ち去ろうとする
おれたちに気づいているのかいないのか、あいもかわらずゆったりとあたりを見ま
わしてはうずくまる背中に手をのばし、機械的な動作であおいだ口へと運びこむ。
熟成された疲労が好物の悪魔など、プランシーの書物にだって出てきはすまい。
どれだけの時間をさまよっていたかはわからない。そもそも、あれが現実のでき
ごとといっていいのかどうかすら、さだかではない。
どうあれ、気がつくとおれは眠りこんだときそのまま、事務所の長椅子にいぎた
なく寝そべっていた。これで時間の経過以外、就寝前となんのちがいもなければ単
に寝こけて夢を見たのにすぎないといえたが、奇妙なことにおれの向かい側の応接
セットでパジャマ姿の男がひざを抱えている。
痛む頭をおさえつつ立ちあがり――手のひらの感覚に気づいて視線をやる。
ひらいたたなごころの上には、割れ砕けた石のかけらがあった。
しばし憮然とそれをながめやり、おれは舌うちをしながらかけらをゴミ箱に放り
捨てる。試しに、パジャマ姿の男をゆり起こしてみたが、あの夢とも幻ともつかぬ
異世界での反応とおなじように、中年親父は安寧がどうのとうわごとを口にするば
かりだ。
窓の外へ目をやると、夜が明けるところ。しばし逡巡したあげく、おれは電話の
プッシュボタンを押しはじめる。
後日談。男はあいかわらず、胎児の姿勢で半覚半睡の夢幻境をさまよいつづけた
ままだという。何件かの医者にもかかってはみたもののいずれも原因も治療法も見
当もつかないらしく、ものを勧めればぶつぶつとうわごとをほざきながらも自分で
食うのでなかばむりやりのように退院させ、いまでは賃貸マンションの一室で飼育
動物同然の生活を送っているらしい。
今回の一件でおれにとってもっとも不思議だったのは、男を発見したと一報した
際の、妻の反応だ。電車が動きはじめたばかりの早朝だというのに今から引き取り
にいくといいざま電話を切り、事務所で眠る夫を目にした瞬間、中年ばばあは泣き
わめきながら感謝の言葉を延々とくりかえしはじめたのだった。
寝室を別にしているどころか、日常会話さえ交わさぬ夫が役立たずの状態になっ
て帰ってきてしまったというのに、うらみごとをいうどころか今でもときおり近況
報告をかねた感謝の手紙が舞いこんでくるのだから夫婦の事情というものは誠にも
って不可解だ。昼夜兼行でパートに精だしながら中年婦人はいそいそと語らぬ夫の
世話をやき、なぜか子どももぐれることもなくおとなしく学校へいき成績すらあが
りはじめたのだという。
職業柄、崩壊した家庭など腐るほど目にしてきているだけに、この反応は新鮮だ
った。もしかすると、父親というのは何もしなくてもいいから家にいたほうが家庭
はうまくいくのかもしれない、とすら思いはじめている。
もうひとつ。問題の奇妙な占い師の店は、あいかわらず営業中だ。人間の蒸発を
誘発する得体の知れない石など売りさばいている怪しい店なのだから、いまごろ雲
をまいてトンズラしているのだろうと予想していたのだが、たまたま近くを通りが
かる用があってのぞいてみたら、意外なことに以前に輪をかけた繁盛ぶりを見せて
いた。なにしろビルの外の通りにまで行列がのびているのだ。
妙だと思ってのぞいてみたら――店のなかにいる占い師はひとのよさそうな初老
のおばさんに変わっていた。それだけじゃない。妙な石くれを売っているようすも
なく、ふつうの占い店同様、やすっぽいガラス製の占い玉だのカードだのペンダン
トだのが陳列棚にところせましとならべられている。
試しに、行列を構成している人工日焼けの女子高生にきいてみると、ばかにした
ような口調でこの店はずうっと以前からこのままだと告げられた。占い師も、ばあ
さんのほかに中年の女がひとりいるだけで、年齢不詳の男など見たことなどないと
いう。もちろん、真に望む世界をのぞける石などというものは、売りもののなかに
は見た記憶がないとのこと。
頭の悪そうなガキどものいうことだから当てにはならないが、どちらかというと
おれの経験した異世界こそ現実にはあり得ない事象にはちがいない。
おれは苦笑を残しつつビルをあとにした。
車のエンジンをかけながらふと見上げた午後の曇天に、あの夢の世界を闊歩して
いた巨人の幻像を、目にしたような気がした。もちろん、気のせいにちがいない。
エンジンをひとつふかして、おれはゆっくりと車を走らせはじめた。
行列のできる店――了