#5169/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 8/31 2:17 (199)
そばにいるだけで 51−8 寺嶋公香
★内容
(しまった。身体に触れられるなんて、予想してなかったわ。勘付かれた?)
自分自身で二の腕を抱き、落ち着こうと努力する。台本を握りしめた手にも、
力が入った。悪い予感を打ち消そうとする。幸いにも、星崎の方からは何も言
ってこないじゃないか……と考えた矢先、相手が口を開いた。
「久住君は、随分ほっそりしてるんだ?」
「――そうですか」
ほんの一瞬、遅れた返事。だけど、声の方は、全然動揺が表れていない。純
子はズボンに付いた砂を払う仕種をしてから、自信を持って答えた。
「僕は、そんなつもりはないんだけど」
「充分、細いよ。あまりにも細くて、軽いから、力を入れすぎて壊してしまう
かと思ったくらいだ」
「あはは、まさか。壊れたりしません」
立ち止まっている星崎を追い抜き、撮影現場に急ぎ足の純子。星崎もすぐさ
ま歩き始めた。
「それもそうだ。ははは。でもねえ、本当にびっくりしたよ。ひょっとすると、
加倉井君や新部君よりも軽いんじゃないかな」
「それを聞いたら、女性陣が怒りますね」
「つまり、君がそれほど華奢だってことだ。まるで、女の子みたいに」
「じょ、冗談はやめてください。女の子だなんて。それでなくても、小柄で悩
んでいるっていうのに」
純子は、「女の子」という単語を打ち消そうと、ことさら大きな声で応じた。
「気にするほど、小さくはないだろ? 体格はともかく、身長なら」
「色々あるんです」
手のひらを使って背を比べようとする星崎を振りきり、純子は足早に立ち去
った。先ほどの急接近のせいか、今でも近付かれると、心臓の鼓動が早くなる
ような気がする。
「分かんないなあ」
星崎の困惑とぼやきが入り混じったような響きの声が、後ろから聞こえた。
撮影が進むにつれ、不自然さが目立ち出した。純子はそう自覚していた。女
だと知られそうになったことも、何回かあった。
たとえば、以前、撮影の合間に、冷たい物を飲んでいると、スタッフの一人
から、こんなことを話し掛けられた。
「お腹が冷えるから、あまり飲まない方がいいんじゃないのかな」
純子がグラスから口を離し、不思議そうな顔をして首を傾げると、
「久住君は、お腹が弱い方じゃないのかい。おかしいな。てっきり、そうだと
ばかり信じ込んでいたんだけど」
と、相手も不思議そうに口をすぼめる。
「違います。どうして、そんな風に……?」
「だって、噂になってるよ。久住君がトイレに行くときは、必ず大の方を使用
している、と」
あ――声を殺し、片手で口を押さえる純子。思いも寄らぬ指摘だった。
(し、仕方ないじゃない。男子トイレに入るのでさえ、冷や汗ものなのよっ。
立ってなんか、できないもん!)
勇気を奮って初めて男子トイレに入ったときのことを思い起こし、火照って
くる。顔が赤らむのを感じた。
コップ片手に黙り込んだ久住を、先のスタッフが怪訝そうに見ている。
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ。何でもありません。と、とにかく、お腹、弱くはないです」
言い切ったあと、失敗だったかなと後悔したものだ。お腹が弱いことにして
おけば、毎回個室トイレに篭もっても、奇妙に思われずに済むのだから。
また、次のようなこともあった。こちらは先と違って、撮影が済んで、帰り
支度をさあ始めようかという刹那。
その日は朝から気温がぐんぐん上がって、温度計は打ち上げ花火の軌跡のご
とく、上昇の一途だった。川岸でのロケが終わる頃には、多くの人がばて気味
で、水を恋しく思っていたであろう。
そんな状況の中、星崎を筆頭とする若手・中堅の男優らが、突如、水遊びを
始めたのである。
水遊びと言っても、足首辺りまで浸かって、手で水を掛け合うのが関の山。
他愛のないものであった。それが、他の男性――撮影スタッフ達に伝染してか
らは、大規模になってしまい、とうとう監督も黙認状態に。
こうして、関係者の男性のほぼ全員と、女性の一部が水辺でたわむれるとい
う光景が、しばらくの間展開されたわけであるが、そこへ純子が加わることは
なかった。
そのとき、Tシャツ姿だった純子は、絶対に巻き込まれないでおこうと、そ
そくさと車の陰に隠れて、様子を見守ることに徹した。うっかり、同じように
水遊びをしたら、濡れたシャツが透けて、中が見えてしまう危険性がある。も
ちろん濡れても胸が見えないように、固くガードしているが、見られた場合、
では何のためにガードしているのだという疑問に結び付くのは必至。故に、結
局は見られてはならないのだ。
皆から、気持ちいいから久住君もやってご覧よなどと誘われたが、頑なに拒
んで、どうにか避けることに成功した。それはよかったのだが、後日、どうし
てあそこまで拒否したのか、周りの者から不審に思われてしまったらしい。
ひ弱な女の子みたいだとか、水恐怖症だとか、あるいは、実は凄く毛深いん
じゃないかとか、根も葉もない噂を囁かれたのには、純子としても苦笑するほ
かなかった。
(ああー、こんな調子が続くと、神経がすり切れちゃいそう……)
カメラが回る前で演技するのとは別に、純子は緊張を強いられていた。
* *
母親から、暇ある?と問われて、信一は即答を避けた。
予定を色々立ててあるが、空けようと思えばいつでも空けられる。
「時間があるのなら、アルバイト、してみない?」
「うん」
夏休みに入って、ずっと考えていたことだ。生活のペースを掴んでからバイ
ト先を決めようと思っていたところ、白沼や富井、井口から誘われたり、津野
島からの再々戦希望を耳にして練習に身を入れてしまったりと、なかなか実行
できないでいた。
そこへ母からこの話だ。渡りに船。でも、一つ、小さな疑問がないでもない。
(母さんは、僕がバイトしようとするのを、積極的には賛成してなかったのに
な。どういう心境の変化だろう?)
もしかすると、生活が苦しいのだろうか……とまで想像した。そのことを言
葉に出そうとした信一の機先を制する形で、母が口を開く。
「それがね、私と近い職場でできる仕事なのよ。いいでしょう?」
「う……ん」
怪しい気がする。
(目の届く範囲に置いて、監視していたいのかな? それにしては、今まで自
由にさせてもらえてる。矛盾してるな)
「どんな仕事?」
試しに聞いてみた。聞かなければ、始まらない。
「久住淳君の付き人よ」
「久住……えっ?」
母のさらりとした物言いに、軽く首肯していた信一だったが、その動きを止
めざるを得ない。母に目を向ける。何だか楽しそうに微笑んでいた。
「誰?」
念押しの意味で、敢えて聞き返すと、母は丁寧に言い直した。
「久住淳。知っているでしょう?」
「……聞き違いじゃないんだ。久住淳て、純子ちゃんのことじゃないか」
「そうよ。でも、久住淳なの。あなたにしてもらいたいのは、久住淳の付き人」
信一は、早く話を進めてほしかったので、首を傾げてみせた。いちいち口で
応えていたら、長くなりそうだ。
「実はね、正体を知られてしまいそうになってるんだって、純子ちゃん」
「別に、いいじゃないか」
信一は本心を言った。映画がどうなるか知らないが、久住淳は涼原純子なの
だとさっさと明かした方が、健全な状態だ。そう信じている。
しかし、母はそう思っていないようだ。あるいは、思ってはいても、仕事上
のしがらみから、押し隠しているのかもしれない。
「何を言うの。正体を知られるというのは、大変なことよ。分かってるでしょ
うに。本当に、素直じゃないわね」
「素直だよ」
不平も露に、唇を尖らせた息子に対し、母は話を続けた。
「本題に入るから、ちゃんと聞きなさい。母さんも詳しいことは知らないけれ
ど、色々あって、久住淳は女じゃないかと疑われ始めているらしいわ。その疑
いを拭うために、信一に付き人をやってほしいと」
「分かんないよ。話がさっぱり見えてこない」
「久住淳は一人で着替える、そばにいるのは女性が多い、他の男と一緒にトイ
レに行かない――といったところを払拭すればいいの。そのためには、男性を
誰か一人、彼女の近くに存在させればいい。久住淳の正体を知っている男性と
言えば、鷲宇さんか杉本さん、それにあなたぐらいよね」
「他にもいると思うけれど。鷲宇さんのスタッフとか」
信一の意見は、母には黙殺された。関係ない、ということらしい。
「鷲宇さんはお忙しい上、あの人ほどの歌手が撮影現場に毎日現れるのは不自
然。杉本さんは風谷美羽のマネージャーでもあるのだから、なるべく姿を見せ
ない方が賢明と言えるわ。そうなると……」
母が信一を指差した。
「どうして僕が」
「理由は今、言ったでしょうに。それとも、嫌なのかしら?」
「嫌じゃないよ」
急ぎ、肯定の返事をする。顔の表面を左の手のひらで撫で、感情の変化を隠
そうと試みたが、果たしてうまく行ったかどうか。
「だけど、純子ちゃんが嫌がるかもしれないじゃないか。近くにいるって、ど
ういうことをするのさ?」
「だから、付き人の仕事よ。具体的に言うと、荷物運びや、一緒に控え室に入
って雑用をしたり、着替えを手伝ったり」
「母さん、嘘だ。最後のは絶対嘘だ。スタイリストがするんじゃないの?」
「付き人が手伝うこともあるの」
「……僕が手伝えるわけない。分かってるくせに」
「ふりをするだけでいいのよ。一緒に部屋に入って、あとは間に仕切りを置く
なり、目隠しするなり、どうとでも。要は、久住淳は間違いなく男だと、周り
に印象付けられれば、目的達成なのだから」
母親の話は、一応、理解できた。
「それで、いつまでやることになるの?」
「よかった。やる気になったのね」
「まだだよ。聞いてみただけ」
心外そうに、頬を膨らませてみせた。母は意に介した風もなく、息子の質問
に答える。
「そうね、できることなら、撮影が終了するまでずっと。少なくとも、夏休み
いっぱいかしら」
「え。夏休み中に、終わるって聞いたけど」
「配役決定まで、しばらくもめたでしょう。しわ寄せが、スケジュールに出て
いるのよ。撮影がスタートしてからも、急な人選だったせいで、遅れがちだし。
でも、学業にはなるべく悪影響を及ぼさないよう、配慮してくれるはずよ」
当然だ、と口の中でつぶやく信一。
「それで? やってくれるのかな」
「やってもいいけれど」
頭を傾け、聞いてくる母に、信一は渋々引き受ける素振りをした。
「僕も、他にやりたいことがある。だから、付き人兼ボディガードということ
にしてほしい」
「ボディガード?」
「うん。撮影現場に行っても、大半は暇だろうから、柔斗の自主トレをやりた
いんだ。ボディガードって名乗っていれば、身体を鍛えていても、不自然じゃ
ないだろうから」
「――ふふふ、なるほどね」
笑いを噛み殺す母。その理由は、信一も気付いていた。
(分かってるよ。ボディガードが高校生だなんて、不自然そのものだってこと
くらい。でも、そうとでもしなきゃ、しょうがないじゃないか。他に理由の付
けようがないんだから)
* *
「おーい、久住!」
相羽が呼んでいる。他に人がいるところで、相羽からこの名で呼ばれたのは、
初めてのことだったかもしれない。
純子は声のした方へ向き直って、「何よ」と言い返しそうになるところを我
慢し、片手を上げた。
「わぉ、久しぶり!」
短く叫ぶと、駆け込んきた相羽とハイタッチをかわした。全ては、打ち合わ
せておいた通りの行動である。
(男の子らしく見せるため、男の子らしく)
心中で、念仏のように唱える久住淳の格好をした純子。
とは言え、さっきのハイタッチは、少々勢いが着きすぎていたらしく、しび
れが来た。思わず、手首を押さえ、痛いと言葉に出しそうになったが、これま
た辛抱。右手を軽く振って痛さをごまかし、笑みを心がける。
「来てくれるとは思わなかった。サンキュ、相羽」
相羽の両手を両手で握った。するとこの同級生は、多少ひるんだ風に息を吸
い、それから握り返してきた。
――つづく