#5128/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 7/31 10: 5 (197)
そばにいるだけで 50−9 寺嶋公香
★内容
先生とのやり取りが終わって、純子はようようのことで人心地つけた。しば
らく休んでいなさいと言われたので、プール施設全体を取り囲むフェンス際に
寄り、体育座りをする。
クロールを始めたみんなを見ながら、咳が完全に収まるよう、息を整えにか
かる。寒さを感じて、肩にバスタオルを羽織っておこうとしたそのとき、目の
前に人が立った。
目を起こすと、白沼。純子が声で反応するよりも早く、彼女はしゃがんだ。
両膝を抱え、腰を浮かした姿勢で、純子の正面に。
「な、何、白沼さん」
「危ないところだったようね」
白沼の声が冷たく響くのは、気のせいか。
「う、うん。で、でも、もう何ともない」
「それはよかったですこと。……本当に、つくづく嫌になるわね。どうしてあ
なたばかりが」
「え」
「ちょうどいい機会だわ。今なら他に誰も聞いてないし、きちんと答えてもら
おうかしら、涼原さん?」
白沼の物腰が、少し恐い。純子はタオルの端を握りしめた。
「な、何」
「もういい加減、はっきりさせましょうよ。あなたは相羽君のこと、どう思っ
ているの? 好きなのよね」
「……ええ」
ことさら小さな声で、静かに答えた純子。肯定する行為そのものを大事にす
るかのように、ゆっくりと噛みしめて。
白沼は鼻を鳴らして、うなずいた。
「はん、やっと認めた」
「……白沼さん、勘付いてたくせに」
半ば自棄気味につぶやく純子。白沼は大きく首を横に振った。
「あなた自身の口から、ちゃんと聞きたかっただけよ。いらいらしてたの」
「それは……ごめんなさい」
「何を謝ってるのよ」
「いらいらさせてしまって……」
「もう、変な子ね、あなたって。それで? 何で今になって認めたのかしら。
ちょっぴり、興味あるわね」
「好きだと気付いたの、割と最近だったから。それまでは、私、自分の気持ち
が分からないままでいたの」
正直に答える純子に、白沼は顔をしかめた。眉間にできたしわが、かなり深
い。理解できない、といった風情に溢れている。
「ほんと、おかしな人ね。まったく」
「そうかしら」
「そうよ」
しずくを落としながら立ち上がり、腰の両側に手を当てた白沼。純子が見上
げると、相手の顔付きは穏やかさを取り戻していた。
「ついでに聞くけれど、あなた、まさか相羽君と付き合ってないわよね」
「もちろんよ」
座ったまま、頭をぶんぶんと振って否定した。勢いで、肩のタオルがずれて
しまったほどだ。
「そりゃそうよねえ。学校にいる間は、ほとんど私が見てるんだから。デート
の約束をすることさえ、できないはず」
そっか、見られてるのね――純子は大真面目に受け取った。
写真撮影を終え、着替えに掛かった純子は、鏡の中の自分と目を合わせた。
少しだけ、目の下に隈が浮いているようだ。
(ままならないなぁ……)
ため息混じりに、つぶやく。
期末試験を乗り切った純子は、長い間抱え込んだままの問題を解決するため
に、力を注ごうと決心した。
もちろん、富井、井口との仲の修復だ。
夏休みの間は、モデルやタレントとしての仕事が山ほど組まれているが、友
達との関係復活も急がなければ。こういうトラブルは、時間が経てば経つほど、
こじれてしまいがちなのだから。
と、決意を固めたものの、いざその手段を考える段になると、停止してしま
う。
(直接行っても会ってもらえない、電話してもだめ。手紙も考えたけれど、何
を書いても言い訳になってしまいそう……)
悩んだ挙げ句、得た結論は、話を聞いてもらえるまで、こちらから足を運ぶ
しかないというもの。他に何ができるだろう?
問題はもう一つ、あるにはあった。映画の件だ。
香村と話し合いの場を持ったあとすぐ、純子は相羽の母に、ことの次第を打
ち明けた。すると相羽の母は、純子が何らほのめかさない内から、このことは
自分が市川へ伝えておく、と言ってくれたのである。市川には話しにくいなと、
躊躇と自責の念を感じていた純子にとって、救われた心地だった。
とは言え、これでこの問題が雲散霧消したわけでは、もちろんない。市川は、
当然のごとく大反対したが、純子が理由を話すと、一転して、香村側へ強気の
態度で出た。
純子の本意ではなかったが、市川はこの件を、駆け引きの材料に使おうとし
ている。どうやら、香村降板を要求しているらしい。人気絶頂のアイドルに新
人が降板要求など、通常なら認められるはずのない話だが、状況は市川の方が
押し気味。香村の代役には、元々特別出演が決まっていた星崎が入るという案
まで、出ているという。
正直な気持ち、純子は映画『青のテリトリー』に対する情熱を、ほとんど失
っている。出演できなくても、一向にかまわない。加倉井から激しく非難され
るかもしれないが、仕方のないこと。
ただ、純子の意思を半ば置いてけぼりにした地点で、話はどんどん動いてい
る。好条件の獲得に奮闘する市川や杉本の行動を見ていると、それに応えなけ
ればいけないかなと、心が多少揺らぎもする。
この二つの憂鬱な問題、どちらが大事かというと、天秤に掛けるまでもなく、
富井達と仲直りできる方を取る。だから、映画の方は、ルーク任せにした。ど
んな結論が待っていようと、従うつもりだ。
さて――「ままならない」とは、こうして他の仕事に忙しくて、富井達と会
う時間を作れないでいることを思っての嘆息。映画の一件をルーク任せにした
のに、ちっとも時間の節約になっていない。
純子は私服に首を通し、次いで腕を右、左と入れながら、再びため息をつい
た。顔にも表れているように、疲れている。けれど、これは一晩ぐっすり眠れ
ば、簡単に回復する。
竹で編まれた大ぶりの手提げ鞄に荷物をまとめ、部屋を出ようとした際、ふ
と目に留まったのは、週刊誌。芸能ネタがメインのやつだ。表紙には、所狭し
と惹句が走る。特に目立つのは、女優の誰それと歌手の何某がくっついただの
別れただのの記事。
純子は、一瞬、嫌なことを思い出した。香村との写真――仕組まれた写真。
小さく首を振って、顔を起こす。早く忘れたい。別のことを考えよう。
(嘘でいいから、私も誰かとこんな風に噂になったら、郁江や久仁香だって許
してくれるかな)
弱気になっている証か、純子は、直接会わずに富井達に分かってもらえる状
況を夢想した。だが、次にはもう打ち消す。
(そんなのだめ。意味がない。自分でやらなくちゃ。私自身が、二人に気持ち
を伝えて、分かってもらわないと。それに……もう実ることもないだろうけれ
ど、私が好きなのは、相羽君なんだもの。嘘はつけない)
「まだかなー?」
杉本の声が、ドア越しに届いた。タレントとマネージャーの性別が違うと、
こういうとき、ちょっぴり不便だ。
「今行きます」
意識して、はきはきと明るい声で言うと、純子は手提げを肩に掛けた。
車で送ってもらう道すがら、話題はどうしても映画のことになる。
「あれから、市川さんも頑張ってるんだけど、ガイアプロさんも譲れないわな
あ。香村綸主演で決まったものなんだから、当然。監督なんかを味方につけて、
対抗してる状況」
杉本の話に、後部座席の純子は眉を寄せた。出演に執着してなくても、撮影
関係者の動きが気にならないと言えば、嘘になる。
「どうして」
「あ? ああ、映画スタッフの方には、本当のところを伝えてないらしいよ。
スキャンダルだもん。カムリンの名に傷が付かないよう、ガイアさん、万全を
期したんだろうねえ」
「それじゃあ、私、凄くわがままと思われてるんですね」
仕方がない。あきらめもあって、苦笑いを浮かべた純子。
「まあ、気にしない、気にしない。どうせ本当の理由を言ったって、変わんな
いかもしれないんだってさ。あの殊宝って監督さん、若いけど、厳しいらしい
よぉ。人伝に聞いた話だけど、どんな理由があろうと、一度決まった出演をご
ちゃごちゃ言うのは、俳優として最低だって考えの持ち主」
「……やだな。そんなの、市川さんがどう頑張ったって、出られるとは思えま
せんけど」
「だから、香村の方に問題ありという風に、持って行ってるの」
「でも」
そういうのも肌に合わない。香村を軽蔑する気持ちはまだ根強く残っている
が、傷付ける気は全然ない。憂鬱な心持ちに、表情も曇る。
しがらみが多すぎて、荷が重い。出演をすんなり辞退できたら、どんなに晴
れ晴れとすることだろう。
無力感を覚えて、純子は無口になった。
杉本はと言うと、雰囲気が分からないのか、それとも敢えて明るくしようと
いうのか、陽気な調子で喋り続ける。主に芸能界の噂話だ。純子が相槌だけ打
っていると、杉本も話題(ネタ)が尽きたか、代わって鼻歌を始めた。
「杉本さんは」
「へ? 何か言った?」
運転中にも関わらず、片目だけ振り返る杉本。危なっかしいが、慣れればこ
れで案外、運転がうまいと分かる。
「杉本さんて、今のお仕事が、好きなんですね」
「はは、何を今さら。好きでなくちゃ、やってられないよねー」
「だけど、元々は、広告作りが本職だったんでしょう?」
「うん。でも、根がミーハーなのね、僕って。有名人に会えるのが、有名人と
一緒に仕事できるのが、嬉しくて。その内、市川さんと一緒に、独自にタレン
トを見つけてきて広告作るようになって、ますます面白くなったんだな、うん」
白い歯をこぼし、子供っぽく話す杉本。もっとも、普段から子供じみたとこ
ろのある人だが。
「それからまた転機になったのが、君の存在」
ルームミラーを介し、細めた目で、純子を見つめる杉本。
「君がいたからこそ、ルークっていう独立した部署ができて、事務所としてこ
うしてまともに活動できている。僕も好きなことをして、働いていられる。あ
あ、君には感謝しないと」
「そんな。私の方こそ」
慌てて頭を下げようとした。
そこへ、杉本の携帯電話の呼び出し音が鳴る。瞬時にして、車内の声は静か
になった。
左に車を寄せ、停止してから、杉本は電話に出た。
「あ、市川さん。はい、終わって、今帰りですよ。え?」
何やら声を上げると、後ろを振り返る杉本。
「替わってくれって」
「私にですか」
珍しいので、念押ししてしまった。電話を両手で包むようにして持つと、そ
っと耳にあてがう。
「替わりました」
「ああ、調子はどう?」
電話を通して聞こえてきた市川の声は、トランポリンの上にいるみたいに弾
んでいた。台詞にそぐわないので、純子は首を傾げると同時に、少し警戒した。
「私は何ともないですけど、照明の調子がおかしくなって、中断がありました」
身体が揺れた。車が再び動き出した。
「そのことなら、杉本君から聞いた。待たされても、集中力を維持できるのは、
調子がいい証拠。ありがたいことだわ」
「はあ」
「その好調のまま、映画もね」
「――映画、決まったんですか」
「ええ。まあ、本決まりじゃないが、ほぼ決定ってとこかな」
これで、上機嫌なわけが分かった。一応、予想の範囲内だったので、内心、
安堵する純子。続いて、どういういきさつで、どんな結論になったのかを聞く。
「それがね、向こうさん、香村君を引っ込めることに同意したのだけれど、そ
れじゃあ興行的に保たないって主張してさあ。交換条件を持ち出してきたんだ
よ」
ひょっとしたら、市川は少しお酒が入っているのではないか、と純子は感じ
た。饒舌だが、呂律がかすかに怪しい。
それよりも、交換条件とは何だろう。香村の映画として予定されていたのだ
から、香村が抜けたら興行的に苦しいという理屈は、よく理解できる。香村降
板の交換条件となると、よほどのことに違いない。純子は知らず、身震いをし
ていた。
「これがまた傑作。香村君がするはずだった主役を、久住淳にやってほしいと
言ってきたわ」
「え!」
――『そばにいるだけで 50』おわり