#5064/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 4/29 19:35 (189)
そばにいるだけで 47−6 寺嶋公香
★内容
* *
午前中最後の授業が終わって、相羽がポケットに手を当てたときだった。
「――ん?」
いつもと感触が違う。そこにあるはずの膨らみ――財布――がない。
(やば)
すぐさま他のポケットにも手をやるが、どこを探っても財布はない。念のた
めに、鞄や机の中も見てみた。
……財布を忘れてきたということが、結論として導き出されただけだった。
「参ったな」
つぶやき、頭をかく相羽。
高校での昼食は、弁当持参か学生食堂に行くか、あるいはその食堂にある購
買コーナーでパン類を買うかのいずれかだ。
相羽の場合、母親の仕事の関係で、お弁当を作ってもらえる機会は滅多にな
い。専ら、食堂を利用していた。
しかし、今日は財布を忘れてしまった。お金がないと、当然、食堂の利用は
できない。
(そう言えば……昨日、ズボンを換えた。そのとき、移し忘れたか)
忘れた原因は、想像がついた。でも、それだけでは問題解決にならない。
(しょうがない、誰かに借りよう)
クラスを素早く見渡す。新しく友達になった男子は幾人でもいるのだが、ま
だ知り合って数日の間柄。金を貸してくれとは、どうも頼みにくい気がした。
(……唐沢に頼もうか)
思い付き、足が扉へと向きかける。
(でもな)
立ち止まった。
(純子ちゃんと顔を合わせるかもしれない)
思い悩んでぐずぐずしていると、白沼が声を掛けてきた。
「相羽君? 早く食堂に行かないと、待たされるわよ」
「ああ」
生返事しながら、白沼さんから借りるのはどうかなと検討する。
(何となく、言い出しにくい)
そう感じていると、白沼がさらに突っ込んで聞いてきた。
「何か、変だわ。もしかして、お弁当があるの? だったら、一緒に食べまし
ょうよ」
「いや、ないよ」
「じゃあ、食堂に行けばいいのに。誰か待ってるのかしらね」
白沼は、どうやら相羽のことを疑っているようだ。誰か女子と――純子しか
いない――待ち合わせをしているのではないか、という疑い。
「そうじゃなくてさ、ただ……財布、忘れちまって」
結局、言ってしまった。
途端に、白沼の表情が変化する。鋭くなりつつあった目つきが和らぎ、全体
に笑みをたたえる。
「なんだー、そういうことなら、早く言ってよね、もう」
両手を合わせて楽しげな笑い声を立てる。財布を取り出すのかと思いきや、
白沼は相羽の手を引いた。
「あのう、白沼さん、何の真似?」
「私のお弁当、分けてあ・げ・る」
「……あのさ」
お構いなしに引っ張る白沼。仕方なく、相羽は踏ん張って、立ち止まった。
「お弁当を分けたら、白沼さんが困るでしょ」
「どうして? 嬉しくてたまらないけれど、困りはしないわ」
「当たり前だけど、食べる分が減る。悪いよ」
「いいのよ、そんなこと気にしなくて。何だったら、全部食べてちょうだいね。
ああ、味付けと食材には自信があるから、安心して」
予想していた以上によくない展開だ。昼食代を貸してもらうだけでもどうか
な?と思っていたところへ、お弁当を食べてちょうだいと来るとは。厚意をむ
げに断ることはできないし、かと言って、お弁当はいいからお金貸して、と頼
めるはずもない。
「さあ、食べて」
背中を押されて、いつの間にか机の前に立っていた。そこに載っているのは、
楕円形をしたお弁当箱。
「あ、箸が一つしかないね」
これで解放してもらえるかもと期待して、言ってみた相羽。ところが白沼は、
鞄の中から割り箸を取り出していた。
「実は、いつか相羽君に食べてもらえる日が来ると思ってたから、こうして用
意してたのよ。ほんとにそうなるなんて、何だか感激だわ」
相羽はあきらめた。
(一口だけもらって、逃げよう……)
そう考えていたら、女子がどんどん集まり始めた。元々、白沼と一緒にお昼
を食べるつもりの人達だ。うち一人が、近くの椅子に納まりながら、首をひょ
いと突き出して興味津々、尋ねてくる。
「あれ? 相羽君、どうしてここに?」
「聞いて。今日は、私達と一緒に」
相羽に返事するいとまを与えず、白沼が紹介するかのように言った。
ひょっとすると他の女子を追い払うのではないかと思っていた相羽だが、そ
の事態はまぬがれたらしい。だが、どちらに転んでも似たような状況であると、
すぐに気付かされる。
「じゃあ、私のも分けてあげる」
相羽が昼食代を忘れたと聞いて、一人が声高に叫んだ。すると即座に、追随
する者が続々と。
「私のも食べて!」
「嫌いな物って、ある?」
みんな、少しずつ分けてくれるそうだ。これで、量的にも充分になるだろう。
「あ、ありがとう……」
* *
ルークのオフィスに出向くなり、市川に二の腕辺りを掴まれ、揺さぶられた。
「聞いたわよ。どうして、今まで言ってくれなかったの」
市川の顔を捉える視界が上下に揺れる。怒ってはいないが、少し不服そうだ。
「――あ、ひょっとして、映画オーディションのこと」
察しを付けて言うと、市川は一層強く、純子の身体を揺さぶった。
「そう、それよ! 純子ちゃんも詩津玖も人が悪いというか、欲が乏しいとい
うか。理解できないわね」
一通り捲し立てると、ようやく手を離してくれた。
市川は額に片手の甲を当て、「まったくもう。はあ……」と慨嘆。そんな彼
女へ、杉本がお茶を差し出した。
礼も言わずに湯呑みを受け取り、すする。市川の表情がやわらぎ、見る間に
落ち着くのが分かった。
ドアを背にして立ちすくんでいた純子も、これでようやく落ち着ける。杉本
に促され、椅子に腰掛けた。
が、安心するのには早すぎた。正面に座った市川が、単刀直入に用件を告げ
てくる。
「当然、引き受けてもらうからね」
「……風谷美羽としてなら、モデルをしたいんですが」
恐る恐る、意見を述べる。目の前にはジュースが出されていたが、手を着け
る気になれない。
「モデルの仕事は私は知らないわ。何度も言うように、詩津玖――相羽さんに
任せているから。私が求めているのは、モデルの風谷美羽に、俳優の仕事をや
ってもらおうってこと。簡単でしょ」
「あの、久住淳としてのお仕事は、何にもないんですか」
話を逸らすつもりはないが、こちらの方も気になる。それに、久住の仕事が
あれば、映画の件を断り易いだろう。
「あるわよ」
何故か嬉しそうに答える市川。杉本に指で合図をやって、何やら資料を持っ
て来させた。純子の方に向けられたそれは、久住淳の売り出し案らしかった。
鷲宇憲親の意向が反映されているらしいと知れる。
「やることなら、この通り、いっぱいある。でも、どれも短期間でできる仕掛
けだから、映画の方もやれるはず」
やはり純子よりずっと上手。先回りをする市川だった。
「どうしても受けなければいけませんか?」
「その質問には、このチャンスをどうして見逃さなければいけないのか、理由
を教えてくれたら答えてあげてもいいわ」
「それは、とりあえず……役柄が向いてないんじゃないかと思って」
「役柄?」
市川はテーブルに手をつき、用紙に視線を落とした。久住淳の売り出し資料
ではなく、映画オーディションに関するメモの方だ。紙を取り上げ、顔を近付
けて目を細める。
「――カムリンの恋人役だなんて、万々歳じゃないの。これが不満なら、どん
な役を持って来たって、役不足になる」
恋人役だけは気が進まないんだけどな……とは、純子は口に出さず、ただ頬
をちょっぴり膨らませる。チューイングガムで風船を作ろうとするぐらいの小
さな膨らみだ。
市川は気付いた様子もなく、さらに雄弁に続けた。
「私としては、風谷美羽の名前に絶対に傷を付けたくない。言い換えると、ど
んなオーディションであろうと、落ちてはいけない」
「……すみません、とても無茶苦茶言ってるような気がするんですが……」
おずおずと言ってみた純子に対し、市川はまず、笑い飛ばした。杉本がお追
従笑いをする中、市川の返事が届く。
「場を選べば充分可能。勝てる戦いだけをすればいいの。今度の映画のオーデ
ィションは、その絶好の機会よ。何と言っても、香村綸君はあなたにご執心な
んだから」
「そ、そんなことないです」
首と手を振る純子。すると、杉本が口を挟んだ。
「そんなことないことないでしょう。君が初出演したドラマだって、香村君の
強い希望で」
「そうみたいですけど、今度のオーディションで、香村君は一切口出ししない
って、言ってました」
「――本心ですかね?」
市川を振り返った杉本。市川は肩をすくめ、「まさか」と低く呟いた。
「何にしても、有利なのは間違いない。すぐ目の前に、あなた宛のおいしいケ
ーキがあるのに、よその人に食べられてもいいの?」
純子は市川に見つめられて、目をそらしてしまった。即座に決断できるほど、
ドライではない。それに。
(相羽君のことを忘れるには、大きな仕事に打ち込むのがいいのかもしれない。
けれど、香村君の恋人役っていうのは……)
胸が苦しくなってくる。本当に手をあてがい、息を整える。
(相羽君……あなたに恋人ができたら、私もあきらめが着くのかな)
思いを馳せた。
* *
会いに行きたかった。
会って話がしたいとまでは望まない、今は。ただ、純子の元気な姿を、遠く
から見るだけでいい。
そう願う相羽だったが、実行しないでいた。
同じ高校に通っているんだから、会おうと思えば簡単に会えるはず。それを、
敢えて実行しないでいる。しないのではなく、できないでいるのかもしれない。
相羽当人でもよく掴めない、心理的な壁のようなものを感じて、純子に会いに
行くことがためらわれる。
(避けられている……ような気がしないでもない。分かんねえ)
入学式から十日ほど経った頃、相羽は登校中に唐沢へ聞いてみた。
「涼原さんと同じクラスだよな?」
「あん? ああ、まあな」
一つの吊革の輪を両手で握り、列車の揺れに身を任せていた唐沢は、姿勢を
直しながら答えた。それから鼻の頭をかく。次の言葉が出てこないといった風
情であった。
「涼原さんて、学校に来てるか? いや、来てるよな。いつ、登校してるんだ
ろう?」
相羽は自問自答の延長のような尋ね方をした。唐沢の声が、どことなく、上
の空の響きを伴って返ってくる。
「さあ、よく知らないが、朝早くに家を出てるそうだぜ」
「つまり、唐沢も一緒に登校してないってことか」
「それがどうかしたか?」
「別に。誰か他の奴と一緒なのかな、涼原さん」
――つづく