#4948/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/10/31 13:14 (199)
そばにいるだけで 41−3 寺嶋公香
★内容 16/06/13 15:25 修正 第2版
母の意志を感じさせる言葉に、信一は一瞬だけ目を白黒させ、やがて強く首
肯した。もしかすると母が無理をしている可能性も、頭の中にひらめかないで
もない。でも、信じようと思った。
「それで、二つ目は。一つ目と言うからには、二つ目があるんでしょう」
母の促しに応じようとした信一だったが、やはりこの二つ目に関しては口ご
もってしまった。先刻の決意を思い起こすと、頭を振った。
「僕は……涼原さんと離れ離れになるのが嫌なんだ」
真剣さを分かってもらおうと、母親を見据える信一。目をそらさないどころ
か、微動だにしない。
母は再度の微苦笑を見せた。
「……ふふふ。初めて自分から言ったわね」
信一が予想していたどの台詞とも違っていた。母の返事に拍子抜けすると同
時に、安心もする。
「自分に正直にすればいいんじゃないかしら」
「それはどういう意味」
J音楽院へ進むことをすっぱりあきらめたら?という意味だとしたら、母に
相談した甲斐がない。どちらか一つをあきらめるなんてできないからこその相
談である。
「一つの道として、こう考えてみたらどうかしらね。信一は、いつまでも今の
状態が続けばいいと思っているのかもしれない。でも、実際は動いている。目
には見えなくても、少しずつね。生きていれば何度かは、決断しなければいけ
ないときを必ず迎えるの。その一つがそろそろ迫ってきているのよ」
「……」
信一は声に出さず、理解したと目で示した。
* *
連日放課後遅くにまで及ぶ演劇の練習を今日も終え、精神的にぐったりした
純子が家に帰り着くと、予期しない来客が待っていた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい」
奥へ背を向ける格好で玄関のドアを閉めようとしていた純子は、聞き覚えの
ある、しかし自宅では決して聞かないはずの声に、急いで振り返った。
「鷲宇さん! ど、どうしてここにいるんですかっ」
「ふふ、そんなにびっくり顔をしてないで、まずは歓迎の挨拶でもしてほしい
ですね。この日のために、はるばるやって来たことでもあるのだし……と言う
のは大げさですがね」
人を食った調子で告げると、鷲宇はスリッパ履きで家の中をすいすい行く。
どのくらい前に家に来たのか分からないけれど、すっかり馴染んでいる様子だ。
「あ、はい、じゃあ……お久しぶりです」
言われるがまま、ぺこりと音がしそうなくらいに丁寧なお辞儀をした純子。
上体を起こすと、母と父を呼んだ。
「お父さん、お母さん。どうなってるの、この状態……」
「それがね」
弱り切った表情で腕組みをするのみの父の隣で、母が口を開く。母の方は浮
かれた風情がそこかしこに見え隠れしていた。理解困難なのは、二人とも出か
ける用事があるのか、随分とめかし込んでいることだ。
「鷲宇さんが突然お見えになったときは、私も驚いてしまったのだけれど、前
から約束してあったことだそうじゃない?」
「はい?」
居間に入り、母と鷲宇を交互に見やる純子。着替えるよりも先に、目の前に
あるこの疑問を解決しなくては。
鷲宇が左手を胸元に置いたまま人差し指を天井に向け、思い出話でも語るよ
うな口調で始めた。
「あれはちょうど一年前でした。今日のことを間違いなく、涼原さん――涼原
純子さんと約束しましたよね」
「約束って、私とですか?」
鷲宇は大きくうなずいたが、純子には覚えがない。一年前だから忘れてしま
った可能性もなきにしもあらずではあるが、鷲宇との約束を忘れるだろうか。
後頭部に片手を当て、純子は申し訳なさでいっぱいになりながら、無意識の
内に下を向いた。
「あの、すみませんっ。私ったら、全然覚えてなくて。どんな約束でしたでし
ょうか……?」
頭を下げて謝ってから、恐る恐る面を上げると、当の鷲宇は不思議そうに小
首を傾げていた。
「サインをして契約書を交わしたわけではないけれども、君はあの日、確かに
うなずきましたよ。僕の『来年もまた、こんなパーティをしましょうか』とい
う言葉にね」
「パーティ? ……あっ、思い出した! 思い出しましたっ」
純子は学生鞄を放り出し、両手を合わせていた。
ただし、思い出したのは自分の誕生日を一年前、鷲宇に祝ってもらったとい
う点のみ。約束が何であったかは、依然として濃い霧の向こうに隠れている。
そのことを問い合わせると、鷲宇は右手を額に当てた。
「つまり今言ったように、来年もしようという約束を守りに来た次第なんだが」
「……ああ」
今度こそ納得が行った。鷲宇に今日出会ってから三度目となるお辞儀をする。
「本人が忘れてしまってるのに、ごめんなさい。嬉しいです。鷲宇さん、忙し
いのに、お祝いを言いに来てくれるなんて。あは、二年前なら夢にも思わない
ことですね」
「一つ、訂正させてもらうよ。僕はお祝いを言いに来ただけじゃない。言葉は
正確に。パーティをする、OK?」
「ほんとに? あの、いいんですか」
「いいも悪いもないでしょうに。それでは、早速出発しましょうか」
純子だけではなく、その両親も促す鷲宇。
「どこ……もしかして、外でやる……」
「僕としては無論、ここでも一向にかまいません。ただ、わずかばかり手狭だ
し、近所迷惑になる可能性大」
青みがかったサングラスを掛け、ほくそ笑む鷲宇。どんなパーティを考えて
いるのかを想像して、純子は少し恐くなった。
(お祝いしてもらう立場で贅沢だけど、大げさなのはちょっと……)
気持ちが顔に出たらしく、目の前の鷲宇は再度微笑した。
「心配いらない。会場の方は少しばかり敷居が高いかもしれないが、決して派
手なものじゃないから」
* *
自転車のペダルが軋み音を立てていた。
(油、挿さなくちゃ)
一瞬だけ意識が下に行き、ライトの照らす先がぶれた。
信一は顔こそ平静を装っていたが、内心、落胆していた。その直前まで期待
感で膨らみきっていたのが、針でつつかれたみたいに弾け飛んでしまった、そ
んな感じだ。
(それにしてもおっかしいな? ちょうど帰る時刻を見計らったつもりだった
のに、明かりが消えてるなんて)
運転に集中しつつも、心の片隅では先ほどの事態を考えてしまう。
(念のために確かめておこうと、学校で聞いたら、今夜はずっと家にいるって
純子ちゃん、言った。うーん……家族の人が急に「今日は外食しよう」とでも
言い出したのかな? 誕生日なんだから、それも不思議じゃないけれど)
背負った小ぶりのナップサックをちらと見やると、夜空の星々まで一緒に見
えた。ひいき目でなく、今夜は一段とよく輝いている。
ナップサックの中身は純子への誕生日プレゼント。
最初は室内用小型プラネタリウムを考えていたのだが、よい物はびっくりす
るくらい値が張るし、手の届く物だと投影される星図がかなり大雑把になり、
純子が満足しそうにない。よってプラネタリウムは来年以降に回すと決心。
結局、現在の小遣いでどうにか無理なく買える物に落ち着いた。花束、と、
それだけでは寂しいので、アクセサリーも。
「早く渡したい!」
声に出すと同時に、漕ぐ足に力を込める。橋の緩やかな上り坂に差し掛かっ
ていた。
(今日中に渡さないと、花束なんかはだめになるもんな)
自宅へ引き返すところなのだが、迷いが生じる。と言っても、純子の家の前
で待ち続けるわけにもいかない。
それ以上に。
(うまく言えそうだったら、今夜、想いを伝えるつもりだったのに)
そのことが心残り。
(まだやめておけってことなのかな)
天の配剤や神様を特に信じているわけではないが、そんな信一でも、運命を
感じてしまう。
(それとも、先に進路のこととか、琥珀の話をしろという暗示なのかもしれな
い。――はははっ、勝手な解釈!)
自嘲気味に笑った信一は、ひとまず吹っ切ることに成功した。
が、帰宅した途端、母から聞いた話によって、引き戻される。
「えっ。鷲宇さんが?」
「そうなの。急な電話で、しかも日本に帰って来ていると言うし、驚かされて
しまったわ」
息子の今の気も知らず、母親は楽しげに続ける。
「あの人、純子ちゃんのことをよほど気に入っているようね。冗談半分と思う
けれども、純子ちゃんの誕生日のために帰国しました、なんて言っていたわよ。
信一も気を付けない――」
「それでっ?」
母の言葉を遮り、身を乗り出す風に聞き返す信一。下ろしかけていたナップ
サックをしっかり背負い直した。
「鷲宇さんは純子ちゃんの家に行った?」
「そうでしょうね。電話の最初の切り出し方が、今夜はかわいい天使と夕食を
同席するんです、という風なニュアンスだったもの。今頃はちょうど店に着い
たんじゃないかしら……」
壁時計を見上げる母。信一は背負ったままのナップサックの肩紐を意味なく
指でしごきなら、早口で尋ねた。
「店の名前は聞いてない?」
「――そこまでは聞いてません」
時計から信一へ視線を移し、苦笑をなす母。息子が頭の中に思い描いている
ことに、薄々勘付いたに違いない。
黙り込んでうつむく信一を見てかわいそうに感じたのか、母は思い出した風
に付け加えた。
「鷲宇さんが特に大事な人を迎えるとき、よく利用するレストランなら聞いて
いるわよ」
やった!と思ったのは、ほんの一瞬だけ。
(って、よく考えたら、押し掛けられるわけがないじゃないか!)
わずかながらうつむいた信一に、母が話し掛ける。
「それでね、信一。鷲宇さんが仰るには、J音楽院に関連して伝えたい話があ
るから、近日中にお目に掛かりたいということなの。――聞いてる?」
「聞いてるよ」
「あなたの都合のいい日を決めてちょうだい。ただし、向こうも忙しい人だか
ら、うまく重なるとは限らないとだけ理解しておいて。ひょっとしたら、学校
を休むことになるかもしれないわね」
「そんなに?」
「驚くことないでしょうに。実際にテストを受けるとなったら、もっと休まな
くちゃいけなくなるわよ」
* *
首を動かす。肩が凝ったような気がしたから。
帰りの車中で純子は、慣れないことをするもんじゃないわと思う一方、気分
の高揚も確かにあった。
(このところ意識が薄れていたけれど、久しぶりに、さすが鷲宇憲親!と思わ
されちゃった)
思い起こす。
始まりは静かにキャンドルサービスで。安っぽいドライアイスの煙なんて用
いず、光と影のみを使った、息を飲むような幻想的な演出だった。鷲宇のコン
サートスタッフが知恵を絞ったに違いない。
引き続いて、小規模ながらオーケストラの生演奏があり、テーブルには食べ
るどころか見るのさえ今日が初めての料理が並ぶ。それでいて、鷲宇がお喋り
や気配りによって雰囲気をほぐしてくれるので、堅苦しさはほぼ取り除かれた。
純子達家族の方が勝手に緊張してしまう面はあったけれど。
二次会――と呼ぶような野暮ったいものではなかったが――は、場所をビル
の高層階に移して開かれた。鷲宇のプライベートルームの一室で、極親しいス
タッフを加えて、今後の展望を含めた仕事の話も織り交ぜながらの談笑。純子
の両親は多少のアルコールも入って上機嫌で、「鷲宇さんになら安心して任せ
られる」なんて言っていた。
「年末になると、色々あるでしょ」
「はい?」
女性スタッフの話に生返事で反応し、純子はジュースを一口飲んだ。
「市川さんから聞いてない? ほら、あるじゃない。音楽関連の賞がね。結構
来てるそうだけれども、惜しいな」
「あのう、何が来てるんですか」
「お招きよ。ノミネートの」
「はあ……」
――つづく