#4938/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 9/29 10:22 (200)
そばにいるだけで 40−5 寺嶋公香
★内容
当たり前のように肯定した相羽。笑いも怒りも、気負いもしていないその横
顔。だが、ぼんやりとした眼の内は光を宿しているように見えた。
「さっきみたいに前蹴り出してきたら掴まえて、足首を極めて終わる」
「……僕には前蹴り以外にも技がある」
さすがにかちんと来たか、坂祝の物腰が変化した。相羽を真っ直ぐ指差し、
熱を帯びた忙しない口調で続ける。
「君は、寝技に持ち込めば何とかなると思っているんだな。無論、僕だってそ
んなことぐらい分かってる。つかまるようなとろい蹴りなんか絶対にしない。
こちらも予告しといてやる。つかまえられる間合いに入らず、蹴りで倒す。一
撃必殺というやつさ」
「ふうん。アメリカの映画では、予告編を作り替えることはしょっちゅうなん
だ。知ってた?」
相羽は早くも自信を漲らせていた。純子は相羽の性格をどちらかと言えば慎
重なタイプと見ていただけに、逆に不安を煽られる。冷静さを欠いて、思い付
くまま喋っているのではないかと。
相羽は江口が起き上がる気配を見せたのを機に、坂祝とのやり取りを打ち切
った。次のいささか矛盾したような台詞を最後に。
「一撃必殺の蹴りか。それじゃあ僕は、一撃必殺の関節技で極めようかな」
純子でさえ、その言葉の不自然さはすぐに分かった。
(一撃って、蹴るか殴るしかないんじゃあ?)
* *
帰宅した母を玄関で出迎えた信一は、突然の質問に身を固くした。
「信一、武道の練習にまた通ってるわよね。しばらくやめにするって言ってい
なかった?」
どう振る舞おうか、一瞬間だけ迷った信一。聞こえなかったふりをしようか、
適当な返事で済ませようか。
だが、実際に口を衝いて出たのは、正直な答。
「うん。少しだけ延長しなければならなくなったんだよ。注意してやるから、
いいでしょう?」
「だめとは言ってないわ」
子供の口調に抗弁の響きを感じ取ったか、母は着替えを終えて出て来ると笑
顔で振り返った。引き続いて台所へ向かい、問い掛けを重ねる。
「わけを聞きたいと思って。あなたが黙って予定変更するなんて、珍しいこと
だからね」
母親について回っていた信一は立ち止まり、一つ、鼻の頭をなでた。
鍋のぶつかる乾いた音や、水の流れる音が始まった。
「その延長の理由をよかったら聞かせて? 大事なテストもあるというのに」
「十五日まででやめる。十五日に練習試合があるんだ」
「ふうん。随分と急な話ね」
これにはうなずくしかない。事実、急に決まったのだから。
「大事な試合なのかしら。練習試合なんでしょ?」
「大事だよ。勝たなければいけない」
母親の手つきが止まる。振り返ったその表情は、意外なものを見知ったとき
のように目をぱちぱちさせていた。
「この間まで、自分の力が出せればいいって言ってたのに。心境の変化があっ
たみたいね」
「そうじゃないよ。今度の試合だけさ」
「母さんが見に行ってもいいかしら」
「え……気が進まない」
顔を逸らす信一。
(坂祝にどんな攻撃をしてしまうか、自分でも予測できないからな……。見ら
れたくないような、でも見られるんだったらこういう試合の方がいいような)
迷いが表面に出た。
子供のそれを敏感に察知する能力が母親には備わっている。そんなとき、ど
う応えるべきかも分かっているものだ。
「まあ、私も忙しいから、なかなかね。見てないところで思い切り、気の済む
ようにやりなさい」
信一は外見からでもしっかり分かるほど、肩で大きく安堵した。これで心お
きなく、夕餉の仕度の手伝いにかかれる。
と、母が思い出した風に言った。
「そうそう。市川さんに頼んでいたあの話、今日になって返事があったわよ」
「ほんと?」
「ええ。信一が言ってたイベントに出ていたタレントさん達の中で、ガイアプ
ロ所属のグループがあったそうよ」
もたらされた情報に、信一は心中、大きくうなずいた。満足感から、表情に
も笑みが灯る。
あの恐竜展――純子と初めて出逢ったかもしれない恐竜展の冊子を、香村が
どうやって手に入れることができたのか、ずっと考えてきた。
その答の尻尾をつかまえたかもしれない。
恐竜展は、いわゆるレジャーランド内の展示場を使った催し物だった。同じ
レジャーランドでは他にも様々なイベントが行われており、その一つに若手タ
レント出演のショーがあった。
「それにしても信一、どうして分かったの? あの恐竜展に行った頃って、確
かあなたはまだ小学生の……低学年だったから、とても覚えているはずないと
思ったのに」
「ちょっとね」
さすがにショーがあったことまでは記憶になかった。当時から取っておいた
プログラム冊子を読み返し、知ったまで。
母の話によれば、出演タレントの内、今は解散したUFGirlsという女
性四人組が香村と同じガイアプロ所属だったという。
当時、ガイアプロの人間がイベント会場に出入りしていたのは間違いない。
同期間に行われる催し物の資料を入手していたこともかなりの確度であるだろ
う。それをずっと保管していたかどうかは分からないが、可能性が一筋の光と
なって形を表してきたようだ。
「こんなこと知ってどうする気なのかしら」
母のつぶやきのような問い掛けを耳に留め、信一はさらりと答えた。
「大切なことを証明するため、かな」
* *
相羽と坂祝の対戦は、相羽の師匠の柳葉から許しを得て実現にこぎ着けられ
た。坂祝の習う空手の流派に柳葉の知り合いがいた偶然もあったが、相羽自身
による説得が奏功した形だ。
試合前に柳葉によって、細かなルールが定められた。従来の柔斗のルールに、
非公式の練習試合故の特別規則を付け加えるのである。
一つ、顔面への拳または肘による打撃は認めない。
一つ、技が決まる前に、見込み一本を認める場合がある。
一つ、グラウンドでの打撃は掌底のみ認める。
……等々。
しかしそんなこと、純子にはどうでもよかった。
(ほんとにやるのね……何考えてるんだか、全然分かんない)
道場の片隅に、気持ち隠れるように立ち尽くす純子。遠い位置にいる相羽を
見つめる。
相羽は今日のことを他の友達に一切話していなかったらしく、学校の知り合
いは純子以外誰も来ていない。
そもそも、純子だって相羽に呼ばれたわけではなく、勝手に来たのだ。こっ
そり入れてもらったものの、道場生に混じって私服の女の子が一人いると目立
つ。試合前のためか相羽は特に話し掛けても来ず、それどころか気付いてさえ
いない様子だが、実際はすぐ見つけられたことだろう。
充分に時間を掛けた説明の後、道着をまとった相羽と坂祝が畳中央を挟んで
相対した。ともに素手素足で、ヘッドギアも着用していない。両者黒帯を締め
ているが、坂祝のそれは無論、空手の段位を示す物。相羽は柔斗独自の段位で
あり、簡単な比較はできない。
以前体育館で見たときとは異なり、場は静かである。練習試合と銘打っては
あるが、道場破りの一種と言えなくもないだけに、受けて立つ方の緊迫感は相
当なものがあろう。
挑む立場の坂祝にしても、一人で乗り込んできた度胸は称えられてしかるべ
き。無謀な楽天家か、冷静沈着な策略家かは分からないが。
「それでは」
一呼吸置くような形で、柳葉が言った。
「このあと始めるが、開始の合図は時計で行う。掛け声ではタイミングで有利
不利が起こりかねないからの。私が場外に下がってから一分後にベルを鳴らす。
それから試合いなさい」
無言でうなずく相羽。坂祝は微動だにしない。
柳葉は両手をかざし、二人をそれぞれ定位置の線まで下がらせた。そして当
人は空気をそよとも動かさぬような所作で、板の間まで引き下がった。間をお
かず、開始までの時を刻むベルのボタンに手を触れた。
――ちょうど一分後、似つかわしくないベルの涼しげな音が鳴り渡った。
同時に坂祝がダッシュし、蹴りの届く距離を確保しようとする。あるところ
まで近付くと、相羽がタックルに来ても逃げられるだけの間隔を測りつつ、今
度はじりじりと詰める。
相羽は踵を浮かせるだけで、特に目立った動きは見せない。坂祝を目で捉え、
迎え撃つ格好である。
通常、打撃を得意とする者が迎え撃ち、寝技を得手とする側は相手をつかま
えようと躍起になるのがセオリーだが、この序盤の展開はちょうど逆だ。
ぎりぎりの距離で止まった坂祝は、まだ蹴りを出さない。警戒しているのか、
本当に一撃必殺を狙っているのか。
しびれを切らしたように、相羽が仕掛けた。すっと歩を進めると、真っ直ぐ
前を向いたまま、軽い調子で左のローキックを繰り出す。倒すつもりではない、
形だけの蹴り。バランスもいささか悪い。
坂祝は難なくかわす。その表情がかすかに笑ったように見えた。
そして新たに踏み込むと、本物の蹴りはこうやるんだとばかり、同じ左のロ
ーを放つ。
相羽は固いブロックで反応。ダメージはない。次いで、突然両腕を顔の前で
構えた。しかも、右手をより高く掲げて。これでは顔面や頭部は守れても、右
の脇腹ががら空きだ。
坂祝の言った一撃必殺の蹴りをハイキックと読んだのか。
坂祝は再びにやりと笑むと、左足でハイキック−−と見せかけ、その軌道を
途中からミドルに移行。相羽の右脇を目がけて、足の甲が飛んでいく。
刹那、相羽は右足を、膝を胸で抱えんばかりに高く持ち上げた。ミドルキッ
クを防御する姿勢。坂祝のミドル攻撃をも読んでいた。いや、脇を空けること
で坂祝にミドルを打たせたに違いない。
しかも、相羽のそれは防御だけではなかった。空間を巻き込む風に身体を少
しばかり左へ捻り、坂祝の蹴り足の先が、自らの膝裏に来るように仕向ける。
目を疑いたくなるような早業だった。
坂祝の足首を、相羽は太股とふくらはぎの間で挟み付けたのだ。
手だけを注意していればよいと考えていたらしい坂祝に、焦りの色が一気に
広がる。目を見開き、息を飲む様子が第三者にもよく伝わってきた。急いで足
を抜こうとするも、相羽の挟み付けが強く、抜けない。軸足がぶれる。踏ん張
れていたのも束の間、呆気なく俯せに倒されてしまった。
相羽は素早かった。相手の左足を固めたまま、背中にのしかかると、頭部へ
掌底を二、三発打つ――構えだけをする。この牽制により、肩越しに振り返ろ
うとしていた坂祝を完全に俯せにさせる狙いに加え、できることならこれで見
込み一本を認めてもらいたいという思いがあったようだ。相羽の視線が一瞬、
柳葉に向いたのがその証。
しかし、柳葉は何の反応も示さない。いや、首を軽く横に振ったか。
相羽はスピードを落とすことなく、次の攻撃に移る。それは最後の攻撃でも
あった。坂祝の脇腹に軽くパンチを入れ、頭への注意が散漫になったところを、
首狙い。左腕を相手の首下に通し、裸締めに持って行く。
坂祝は三秒ほどもがいたが、顔面を紅潮させると右手で畳を何度も叩いた。
参ったの意志が示され、柳葉から「それまで!」の声が飛んだ。
仲間の完勝に、他の道場生達からの歓声が起こったが、柳葉が手振りでそれ
を制す。
(か……勝っちゃった)
純子ははなから歓声を上げていなかった。相羽の鮮やかすぎる勝利に、見取
れてしまった。でも、不安はまだ残っている。
(喧嘩にならなくてよかったけど、このまま収まるの?)
相羽は技を解くと立ち上がり、倒れている坂祝に向かって、正拳突きを見舞
うポーズを取った。空手をやっている坂祝が相手を倒したときにするならとも
かく、相羽がやるとは……違和感とまでは行かなくても、不思議。
「坂祝君、大丈夫かな。立てるか」
柳葉の呼び掛けに、坂祝は顔中にたくさんのしわを作って応じた。味わった
ばかりの苦しさに声を出せないと見える。片膝を立て、スローモーションのよ
うに立ち上がった。ふらつく。
相羽は先に試合前の立ち位置に戻り、後ろ向きに正座していた。柳葉に声を
掛けられ立ち上がり、坂祝と正対する。
「只今の勝負、相羽信一選手の一本勝ち。互いに礼」
気張ることのない、淡々とした調子で告げていく柳葉。相羽が平静な態度で
聞き従っているのに比べ、坂祝は目の焦点が合っておらず、口も開き気味。幾
分茫然自失しているようなところが見受けられた。全ての礼を終え、相羽が近
付いていたことにも気付かないでいたよう。
「サンキュ」
その声にはっとした坂祝。暗がりで後ろから背を叩かれたかのごとく、瞬き
した目を大きく見開く。瞳に相羽の姿が映っていた。
「――本当に大丈夫か?」
差し出された手に、後ずさる坂祝。脅えの色が垣間見えた。
――つづく