#4509/5495 長編
★タイトル (FJM ) 98/ 6/ 1 3: 9 (149)
願い 8 リーベルG
★内容
8
ドアの向こうは沈黙した。シズカは焦りを感じ、もう一度ノックして叫んだ。
「セブン・ローズのおばさんでしょ?赤ちゃんを連れてきたのよ!」
『誰なの?』相手は怯えたように訊いた。
「通りすがりの者よ。時々、セブン・ローズでケーキを買ったわ。赤ちゃんを連
れてきたのよ!」
『……誰?』
「誰だっていいでしょ!」シズカは少し苛立ちを感じて声を荒げた。「あなたの
赤ちゃんがここにいるのよ!」
『……でも』不安そうな声だった。『あの子は死んだのよ』
「生きてるのよ!お願いだから、ここを開けて!」
『……ちょっと待って』
シズカは苛々しながら待った。腕の中の赤ん坊は疲れたように、ぐっすりと眠
っていた。妖精は関心なさそうな涼しげな顔で、壁にもたれている。
船室の中から、かすかに人の話し声が聞こえてきた。何か口論しているようだ
った。泣き声も聞き分けることができた。
「何やってるのよ」シズカはつぶやいた。
十分以上経って、ようやく船室の中は静まり返った。やがて、船室の向こうか
ら話しかけてきた声は男の声だった。
『そこの人』苦しそうなしわがれ声だった。『本当にミドリがそこにいるんです
か?』
「名前は知らないけど、セブンローズの奥のベビーベッドに寝かされてたわ」
『死んだと思っていた』
「今は生きてるのよ」
『そうですか。それでわざわざここまで?』
「そうよ。どうやってかは訊かないで。信じてもらえないと思うから」
男の次の言葉に、シズカは目をむいた。
『すみませんが、その子を連れて帰ってくれませんか』
「なんですって!」シズカは飛び上がった。「あなたの子供でしょ!会いたくな
いっていうの!」
『わかって下さい』男は苦しそうに答えた。『私たちは、もうどちらも立ち上が
ることさえほとんどできないほど衰弱している。今、ミドリをこの手に抱きしめ
ても、何もしてやることができない』
「だからって……」
『聞いて下さい。私だってミドリの顔をもう一度みたい。だが、私たちの命はた
ぶん、あと何時間も残っていないでしょう。ミドリはまだ何日かは持つはずです。
そうじゃありませんか?』
「たぶん、二、三日はね。だけど……」
『今、私たちがミドリを受け取ったとしても、どうせ数時間後には死ぬんです。
そうした場合、ミドリはどうなると思います?』男は泣いていた。『私たちの死
体に囲まれて、血と汚物にまみれて、おしめも替えてもらえず、ミルクもなしに、
何日も泣きながら死んでいくことになるんです。そんなの耐えられません』
「……」
『もう死んだと思っていました。そのとき、私たちの希望は全て失われたのです。
この船に乗れば助かると思っていたわけではありません。ミドリを、死んだミド
リを見ているのがつらかったんです。だから逃げ出したんです』
シズカは返すべき言葉を思いつかなかった。男は続けた。
『私たちは一度希望を失いました。でも、それはある意味で救いでもあったので
す。ミドリを、恐怖と苦痛の中でたった一人で死なせるということはないと知っ
たからです。たとえ助からないとわかっていても、私たちにミドリを殺すことな
どできはしませんから、ミドリが私たちより先に死んでくれて、感謝すらしたの
ですよ』
「……」
『ところが、今、あなたがいきなり現れて、ミドリは生きているという。あなた
が善意でしてくれたことはわかっています。ですが、それはミドリを残して死な
なければならないという、何ものにも耐え難い苦痛を私たちにもたらすだけなん
です』
シズカはそっと赤ん坊を抱きしめた。何も知らない赤ん坊は、安らかに眠り続
けている。
『おねがいです。このまま帰って下さい。ミドリと一緒に。そしてできれば、ミ
ドリをどこか静かな場所で眠らせてやって下さい。病気で苦しみながら死ぬより
も、幸せなうちに眠らせてやって下さい。私たちにはできません』
ようやくシズカは口を開いた。そのとき初めて、シズカは自分が泣いているの
に気づいた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい。あたし、何にも考えてなかった……」
『あなたが謝ることはないんですよ』女性が答えた。『あなたが、よかれと思っ
てしてくれたことはわかっています。最後に残された時間を、ミドリのために使
ってくれただろうことも』
ドアを通じて、苦しそうな咳の音が聞こえてきた。
『この船に乗っている人間は、みな他人のことなど何も考えていない人たちばか
りだった。感染者は片っ端から外に放り出してドアを閉ざした。死んでも葬るど
ころか、近寄りすらしない。死の恐怖を暴力でまぎらわすやつもいた。だが、お
嬢さん、最後にあなたのような人もいると知ることができてよかったと思います
よ。あなたのような人が、もっとたくさんいれば、こんな愚かな悲劇は起こらな
かったかもしれないのに』
『どうか、もう行って下さい』
「最後に……」シズカは無駄だと知りながら訊いた。「せめてミドリちゃんの顔
だけでも見ませんか?」
『いいえ』予想通り、否定の言葉が返ってきた。『つらくなります。おねがい、
このまま帰ってください。ありがとう。さようなら』
言うべき言葉はひとつしかなかった。シズカはそれを口にした。
「さようなら」
シズカは泣きながら、ゆっくりとドアの前から離れた。妖精が問いかけるよう
にシズカを見た。
「帰るわよ」シズカは妖精を見ないで言った。
「ドアを開けることはできるよ」
「いいのよ。そっとしておいてあげて」
日本へ向かって飛びながら、シズカは泣き続けた。妖精はあえて声をかけなか
ったが、途中で一度だけ事務的に告げた。
「今、死んだよ」
誰のことかは言うまでもなかった。シズカは小さくうなずいただけだった。
日本の海岸が見えてくると、妖精はつぶやくように言った。
「戻ってきたよ」
シズカは顔を上げた。
「三つ目の願いを言っていい?」
「いいよ」妖精は優しく答えた。「なに?」
「この子を、ミドリちゃんを……」シズカはためらった。「眠らせてくれる?一
瞬で。苦痛のないように。あたしにはできないから」
「今?」
「そう。海の上で」
「わかった」妖精は空中で停止すると、シズカから赤ん坊を受け取った。「いい
ね?」
「ええ」
シズカは顔をそむけた。そして、妖精が声をかけるまで、水平線の向こうを眺
めていた。すでに涙は乾いていた。
「終わったよ」
「海に沈めてあげてくれる?」
「いいよ」妖精はうなずいて何かつぶやいた。
赤ん坊の身体が、妖精の手から離れて、ゆっくりと海面に向けて落下した。水
しぶきは起こらず、赤ん坊は静かに波の間に沈んでいった。
「終わったよ」
「ありがと」シズカは妖精を見た。「これで約束の三つの願いを全部かなえてく
れたわけね」
「そうだね」
「じゃあ、いいわよ」シズカは何とか笑みを浮かべた。「あたしの純潔を持って
いってよ」
「本当はきれいな身体のままで死にたかったんじゃないのかい?シズカ」
「まあね」シズカは肩をすくめた。「でもいいのよ。約束は約束だから。急いだ
方がいいわ。さっきから少し頭痛が始まったの」
「気付いてたよ」
「もう何かお願いできる権利なんかないってことはわかってるんだけど。できた
ら、終わった後、あたしを死なせてもらえる?苦しみながら死にたくないの」
妖精はうなずいた。そして、パチリを指を鳴らした。
空間がぐにゃりと歪み、大きな白いベッドが出現した。
「そこに横になって」
シズカは言われたとおり、ベッドに仰向けに寝た。両手を胸の上で組み、固く
目を閉じた。
妖精はシズカに顔を近づけた。気配を感じ取ったシズカが、かすかに顎を上げ
る。
ほんの一瞬、ふたつの唇が重なり、離れた。そしてシズカは妖精の優しい囁き
を耳にした。
「ありがとう、シズカ。もうこれで充分だよ」
驚いたシズカは目を開こうとしたが、一瞬早く、妖精の細い指が、シズカのま
ぶたの上に優しくおかれていた。
「ヴァージニティなんかよりも、ずっと素晴らしいことを、シズカは教えてくれ
た。契約は完了したとみなすよ」
シズカは身体全体が心地よい暖かさに包まれていくのを感じた。うっとりする
ような芳香が漂い、穏やかな眠りの世界がゆっくりと降りてきた。
「ありがとう」
その言葉は確かにシズカの耳に届いた。だが、どちらが口にしたかを確かめる
前に、シズカは深い眠りの中に吸い込まれていった。
やがて……全てが眩しい光に包まれる時が訪れた。
The End
1998.6.1