#4482/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 5/16 20:56 (200)
【OBORO】 =第3幕・散花哀詩=(10) 悠歩
★内容
全てが止まった。
麗菜にはそう感じられた。
目に映る光景は、モノクロ写真のネガに変わる。
耳に届く音は、状態の悪い受信機のようにくぐもって聞こえる。
その中で、一つのものがのろのろと麗菜の方へ近づいて来る。麗菜の肩を叩く。
それが父であると気が付いたのは、あまりにも無慈悲な科白を聞いて、しばらく
経ってからのことだった。
兄が死んだ。
父の言葉の意味を改めて知ったとき、意外なほど麗菜の感情は静かだった。と
言うより、何も感じなかった。
それはまるで、意志を持った麗菜という存在そのものが、この世から消え失せ
てしまったかのようだった。
姉さまは売られてしまった。
朧のために?
私は父さまに犯された。
朧のために?
兄さまは死んでしまった。
朧のために?
徐々に甦り、ぐるぐると麗菜の頭の中を廻る激情。
怒り、悲しみ。
いらない。
朧なんていらない!
「ほう」
素っ頓狂な声だった。父の上げた、間抜けな声。
自分の子どもが死んでしまったというの、に、よくそんな声が出せたものだと
思う。
「腐ってもなんとやらか。劣等ではあってもお前も間違いなく、朧の血を引くも
のか」
いったい父は何を言っているんだろう。ああ、これのことか。
麗菜は自分の手を見つめる。朧気な光を放つ、自分の手を。
「朧の女は、その純潔と引き替えに力を得ると言うが………俺のおかげだな。感
謝しろよ、麗菜」
父の言葉は麗菜の気持ちを逆撫でするものでしかなかった。
麗菜は望んでなどいなかった。
姉を失うことも。
兄の死も。
朧の力も。
「きらい………父さまなんか、大っきらい………父さまなんか、死んでしまえば
いい!」
麗菜は望んだ。
強く。
父の死を。
そのための力を。
麗菜の求めに応えるかのように、身体を包む光が強くなる。そして麗菜の手の
中に、眩く輝く弓と矢が生まれた。
「ふん、ふざけたガキだ。俺に死ねだと? お前如き程度の力で、何が出来る?
それにな、朧とは異形を討つ力だ。仮にも朧の一族である俺には、クソの役に
も立たんぞ。お前のようなたわけには、仕置きが必要だな」
舌なめずりをしながら、父がこちらに向かって来る。雅人の死を悼む様子など、
微塵もなく。
こんな男に生きる資格などない。
恐怖はなかった。麗菜は静かにゆっくりと、弓を引く。
光の弓は驚くほど軽く、なんの抵抗もなく、麗菜の意志に従い引き絞られる。
頼りないほどに軽い弦から指を離す。すると矢は、まさしく光の勢いで、父めが
けて一直線に飛んで行った。
「ものの分からぬガキめ」
歪んだ余裕の笑みを浮かべ、父はその矢を迎えた。避けようという意志など、
毛頭ないらしい。しかしそんな余裕の笑みなど、数秒と保たなかった。
一瞬、麗菜の視界が赤い霞に覆われる。
「ば、馬鹿な?」
霞の向こうからは、驚きの声。父のものである。
やがて赤い霞は雫となって、ばちばちと音を立てながら畳と布団の上へ降り注
ぐ。麗菜の視界が開けた。
驚愕の目で麗菜を見る者がいる。父。
その胸には麗菜の放った矢が、深々と突き刺さり、大量の出血が認められた。
「なぜだ………朧は異形を討つ技だぞ? なぜ朧の一族である、俺を傷つけられ
る………」
どさり。
鈍い音を響かせ、父は倒れた。畳には父を中心に、赤い血溜まりが広がってい
く。
「父さまも、異形だったんでしょう」
足下の父を見下し、麗菜は言う。
父の息がまだあるのかどうか、もう興味はない。もしまだ生きていたとしても、
これだけの出血があれば、そう長くはないだろう。
思えば師岡の家で起きた全ての不幸は、この男の手によってもたらされた。背
景にある朧の血など、麗菜の知ったことではない。朧の血を言い訳に、この男は
姉を金に代え、麗菜を貪り、兄を死に至らせた。
なぜもっと早く、こう出来なかったのだろう。そう思うと、麗菜の口元には自
嘲の笑みがこぼれる。
『シャワーを浴びたいな』
もう父に対する興味はなくなった。それよりも、全身がべとべととして気持ち
悪い。見れば生まれたままの姿の麗菜の身体は、朱色の液体によって染められて
いた。それが父の返り血を受けたものとは思わない。ただ身体が汚れているな、
と麗菜は思う。けれど内股を汚すものが、麗菜自身の出血と、兄の最期の精の混
合物であることは認識していた。
改めて兄が死んだということを、思い知らされる。同時にもう一つ、自分の行
うべきことを見つけた。
麗菜は、身体を縄で拘束されたまま静かに横たわる、兄の元へと近づいて行っ
た。物言わぬ兄の側には、この惨劇の中でも眉一つ歪められることのない、母の
微笑みがあった。
「父さまも、異形だったのね」
驚く様子もなく、母は言った。
「母さまは、いつも笑ってらっしゃるのね。どうしなのかしら?」
静かに、麗菜は問う。
「他になにも出来ないからよ。麗花が売られて行ったとき、分かったの。朧の一
族として生まれた以上、その血の運命を嘆いていても辛いだけだと。だから私は
感情を捨てることにしたの。いずれあなたや、雅人がこうなることも、分かった
いたもの」
母の言葉は、その笑顔に違わぬ穏やかな調子だった。
そして麗菜は知った。
自分たち兄妹の不幸はなにも、朧の血を口実に己が欲望に走った父だけによっ
てもたらされたものではないと。それを抗うことなく、ただ見ているだけだった
母にも責任の一端があるのだと。
「全部、麗菜が終わりにしてあげるね」
麗菜もまた、母に併せるかのように笑みを作り、言った。
「ええ、お願いするわ。でも私は、朧では死ななくてよ。父さまと同じように、
私も異形なのかも知れない。それでも朧の女………朧では殺せないの」
「うん………分かった」
それを成すための道具は、ほんの少し麗菜が身を屈めるだけで手に入った。
父が麗菜や雅人を脅すために持っていたカッターナイフが、そこに落ちていた
のだった。
「さよなら、母さま。麗菜もすぐ、いくと思うけど」
「さよなら」
横に一振り。麗菜はナイフを踊らせた。
細い刃が肉に食い込む、嫌な抵抗感。決して強度のない刃は、振るい終わると
同時に折れ、畳に赤い軌道を残しながら落ちて行く。
「私と………父さまも………ほん、とは………兄妹、だったのよ」
喉を切られて倒れ行く母が、切れ切れの息の中で最期に残した言葉。
『そのあと、家に火を着けたの。灯油でも撒けば良かったんだけど………なかっ
たから、代わりに食用油を使ったわ。でも、意外によく燃えたわね』
対峙し、組み合う二つの影。
異形の姿となった麗花と雅人。
そしてその場からは姿のなくなった麗菜の声が、そこで語るのを止める。
「デモ、レイナハシナナカッタ………ニイサマモ、シンデナカッタ」
麗菜と雅人が、どのようにして一つの存在となったのかは分からない。しかし
そもそもの資質だったのか、一つになることによって得られたのか、麗菜は麗花
より強い朧を身につけ、雅人は完全体の力を持っている。
傍目には互角に組み合ったように見える麗花と雅人だったが、その実、完全に
麗花の方が押されていた。
朧の力を限界まで使ったものは、異形と化す。より強い力と知性を持つ完全体
ではなく、異形となるのだ。
麗菜の血の力もあって、麗花は半異形化状態で留まっていた。そのため辛うじ
て人としての理性を保ってはいたが、異形としての力も抑えられてしまう結果と
なっている。麗菜の失った左腕は、雅人と入れ替わっても急激に再生されること
はなかった。但し鏡に写したかのように、失われた腕が右と変わってはいるが。
つまり雅人は左腕一本で、麗花の二本の腕を相手に組んでいるのである。しかし
片手であることを考慮しても、完全体である雅人と戦うには、明らかに不利であ
った。
一見麗花と雅人の力が均衡を保って見えるのは、雅人が力を抑えているからだ。
雅人は麗菜が語るための時間を、待っているだけなのだ。実際に雅人と組み合っ
ている麗花は、痛切にそれを感じていた。
どうにかしなければならない。そうは思うものの、麗花の力では雅人と組み合
った状態から、指一本を動かすことも適わない。押してくる雅人の腕を、渾身の
力で支えているのが精一杯なのだ。蹴りを繰り出そうにも、脚を微かに上げただ
けでもその瞬間に、雅人の力を受けきれなくなり、潰されてしまうことが目に見
えている。
そうこうしている間にも、麗花の完全なる異形化を抑えていた麗菜の血の効力
も、薄れてきたらしい。それでも雅人には遠く及ばないが、わずかに力が増して
来た。が、それと引き替えるように麗花の意識は黒い、何か別のものへと変わっ
て行く。
雅人、あるいは麗菜なのかも知れない。相手もそんな麗花の、タイムリミット
に気づいているらしい。
「さて、これ以上昔話をしていても仕方ない。いいな、麗菜よ?」
かつて麗花が兄と呼んでいた者の声が、膠着状態の終了を宣言する。
「………ええ。さよなら、麗花姉さま」
麗菜の別れの言葉が合図となった。雅人の腕に力が込められる。
「グッ!」
にわかに麗花が受け止めている力は、数倍にも加増する。異形化した麗花の体
重と、そこに加えられた力に耐えきれず、足下の床が抜け落ちた。
「ガアァァァァッ!」
一メートルほどの落下ではあったが、それが麗花の限界を超えてしまった。激
痛とともに雅人を受け止めていた腕の力が、いずこへと四散してしまう。麗花の
腕の骨が砕けたのだ。
負けた。
抵抗力を失った腕を突き抜け、そのまま頭を押し潰されるものと麗花は覚悟し
た。しかし雅人は、そうしなかった。逆に腕を引き、麗花は吊るし上げられる格
好になった。
頭を潰されていた方が、楽だったかも知れない。
骨の砕けた腕で吊るされることは、異形となって強化された肉体を以てしても
苦痛であった。
「許せ、麗花よ」
兄であった者の面影を持つ、異形の言葉。それが戦いの、いや一方的に麗花が
嬲られるだけの行為に終止符を打った。
麗花が腹部に感じた衝撃。痛みはない。限度を越えた激しい衝撃は、痛感をも
麻痺させたのだ。衝撃を受けたと思った瞬間、まるで麗花の記憶も吹き飛ばされ
たかのようだった。次に麗花が認識したのは、炎に焼かれる天井を見つめている
自分。仰向けに倒れている自分の身体だった。
どうやら壁を突き破り、客間へと飛ばされたらしい。火の粉となった壁の破片
が、麗花の上へ赤い雪のように降り注いでいた。
せめて一撃。
刺し違えることが適わぬのなら、せめてもう一撃を加え、妹たちへの負担を減
らしておきたい。そう思う麗花であったが、起き上がり反撃をするどころか、指
先さえもう自由にはならなかった。異形と化した肉体でも、雅人の繰り出した蹴
りに耐えることが出来ず、全ての内臓が破裂してしまったようだ。
「なまじ異形化していたことが、災いしたな………並の肉体であれば、いまの一
撃で楽になれたものを」
目の前に雅人が立っている。雅人は暫しの間、麗花を見つめていたが、おもむ
ろに腕を振り上げて言った。
「放っておいても助かりはしないが、せめても情けだ。楽にしてやる」
雅人の考えは、想像するのに容易であった。けれど麗花には抗う術も力も残っ
てはいない。どちらにしろ、もう人として生きる道のなくなった麗花には、死に
逝くことへの恐怖は感じなかった。ただ妹たちへ、何も残してやれないことが悔
しかった。