#4408/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 2/10 22: 6 (198)
翼をその手に 〜夢の始まり〜 5 悠歩
★内容
「これはあくまでも、空を飛ぶ理屈を調べるための模型だけどね。本物は当然人
が乗れるほど大きくて動力を積み、風任せでなく自由な方向に、もっと長い時間
飛んでいられる………それが飛空機さ」
フィリオは剥き出しになったエンジンを、ぽんと叩く。
「すごい! すごいよ、お兄ちゃん!」
興奮したケビンの言葉が、それまでの丁寧なものから、子どもらしい口調へと
変わる。たぶん、本人は気づいていない。
「でも、ほんとうにそんなこと、出来るの?」
「出来ない………」
フィリオがそう答えると、ケビンの顔に影が射す。
「って言うのが、ほとんどの人の意見だけどね。理屈の上では、可能なんだ。少
なくとも、ぼくとここにいる子どもたちは、出来ると信じている」
「ぼくも………ぼくも信じる!」
力を込めて、ケビンは言った。
フィリオは右手の親指を立てて、それに応えた。
「あの、それで………本物の飛空機は、いつとぶの? ぼく、一ヶ月くらいしか、
この村にいられないから」
「うーん、それは分からないなあ」
そう言ったフィリオは、ケビンの寂しそうな目を見て「だけど」とつけ加える。
「三日後、ここで新しい模型での実験をするから。見においでよ。その結果次第
では、上手くすれば一ヶ月以内に、本物の飛空機の実験も出来るかも知れない」
「見に来ます! 絶対」
思わずフィリオが身を竦めてしまうほど、大きな声でケビンが応えた。
「ほう、ほう、ほう」
空が朱に染まる中、フィリオは羊の群れを追っていた。
重たいトラックのエンジンをやっとのことで家に持ち帰ると、庭先で薪を割っ
ていた祖父に捕まってしまった。それで否応なく、放牧していた羊たちを集めて
くる仕事を命じられてしまったのである。
フィリオは十七になって家業も継がず、たまに村の農園を手伝って得た収入も
全て飛空機に消えている。そのため未だ祖父の稼ぎによって、食べさせてもらっ
ている状態である。断ることは出来なかった。
「ジャック! ロック!」
二頭の牧羊犬が巧みに羊の群れを誘導していく。フィリオは、その流れを見守
っていればいい。仕事としては、楽なものだった。
「あれ?」
全てを犬任せにして、群れの後ろを歩いていたフィリオが足を止める。柵の上
に腰掛け、夕陽を見つめているアリスをみつけたのだ。
「アリス! そんなとこで、何してるんだ」
「あっ、フィリオ」
力のない声と共に、アリスが振り返った。
「どうしたんだよ、なんか元気ないなあ」
「ん、べつに何でもないわよ」
やはり力なく応えると、アリスは夕陽へ視線を戻す。
いつものアリスとは、違う。その横顔を見ながら、フィリオは思う。
いつもは、そう、あのレベッカのように強気で元気なアリス。それがいまは、
いや昨日から様子が変わっていた。
本当はもっと前から、アリスが大人の女性になりつつあるのは、感じていた。
けれどどこかフィリオの中に、それを認めたくない気持ちがあった。自分を残し
て、アリスだけが遠い存在になってしまうような気がして、寂しかったのかも知
れない。
フィリオは黙って、アリスの横顔を見続けた。ふと昨夜のキスを思い出し、顔
が熱くなる。夕陽で周りが全て、紅く染まっているのは幸いだった。
(綺麗、だな………)
アリスの横顔に、そんな感想を持った。
夕陽のせいだろうか。今日のアリスは、昨日よりも綺麗に見える。愁いすら、
感じられる。
「フィリオ」
不意にアリスの、艶やかな唇が動く。
「な、なんだよ」
何か後ろめたいところを見られてしまったかのように、フィリオは動揺してし
まう。
「私のこと、好き?」
「や、やぶからぼうに、何を言い出すんだよ」
大きな瞳が、フィリオを捉える。直視出来ず、フィリオは顔を背けてしまう。
「ねえ、答えて」
やけに真剣なアリスに、フィリオは小さく「好きだよ」と呟くように答えるの
が精一杯だった。
「じゃあ、キスして」
そう言うと、アリスはフィリオの答えも待たず、目を閉じてしまった。
「お、おい」
「………」
フィリオは頭を掻いた。
広い空の下だから、だろうか。昨日より恥ずかしい。けれど無視することも許
されるような雰囲気ではない。
仕方なく、またアリスの額に顔を寄せた。
「違うの」
唇が届く寸前で、アリスの大きな瞳が開かれた。フィリオは思わず、身を退い
てしまう。
「違うって、何が?」
「おでこじゃなくて、ちゃんと唇にして」
「ば、馬鹿言うなよ」
夕陽の中でも、それと分かるくらいに、フィリオの顔は紅くなっていたかも知
れない。もし、その時牧羊犬の鳴き声がしなかったら、フィリオはその後に続く
台詞をみつけることが出来なかっただろう。
見ると、いつまで経っても着いてこない主人を心配した牧羊犬が、向こうから
フィリオを呼んでいた。
「あ………ぼく、羊を連れて帰る途中だったんだ。急がないと、じいちゃんにど
やされる」
フィリオは逃げるようにして、その場を離れた。
心が痛んだが、アリスの気持ちに応えられるほど、まだフィリオは大人ではな
かった。
「ばか! フィリオなんて、大嫌い!」
背中から、そんなアリスの声が聞こえた。
その日、ジェームズは朝から上機嫌だった。街で流行しているオペラの一節を、
かなり外れた音程で口ずさむ。
「おい、出掛けるぞ。支度をしろ!」
突然鏡に向かってひげを剃り始めると、大声で叫んだ。
「はっ、どちらへでございましょうか?」
間を置かずして現れた執事が訊ねる。
「決まっている。俺は何のために、この村に来ているのだ」
「では、葡萄園へ」
「そうだ。確かメイヤーと言ったな。経営者は」
「左様でございます。それでは直ちに、お召し物をご用意いたします」
執事の声の張りが変わる。役目に目覚めた若主人に、嬉しそうな視線を向けて
いた。
「おお、最高のものを用意しろ。ウッド家の次期当主として、恥ずかしくないも
のをな。なんとかという、デザイナーに作らせたものが有ったはずだ」
「はい、少々お待ち下さいませ」
「ああ、ちょっと待て」
ジェームズは下がろうとした執事を呼び止めた。
「それから、花を用意しろ」
「は、花でございますか? しかし視察に向かわれるのに、何故に」
「余計なことは、詮索せんでいい。とにかく極上の花束を用意するんだ」
「はい、かしこまりました。失礼いたします」
一時間ほどして、最上級の礼服に身を包んだジェームズは、別荘の長い廊下を
颯爽と歩いていた。その出で立ちは、まるでこれから公爵主催の晩餐会にでも、
出席をするかのようであった。
「やはり貴族たる者、如何様な所に赴くも万全の用意をしておくものだな」
襟元を正しながら、独りごちる。
特に何もない小さな村へ、大層な衣装を持ち込む必要がどこにあるのか。街を
出るとき、ジェームズの大量の荷物を見て、そう陰口を叩く者がいたのも知って
いる。
だが仮にも当主の代理として村に入るのだ。村人に対し当主代理として、そし
て子爵としての威厳を見せねばならない。ジェームズはそう考えていた。
「それに………我が妻となる者の家に行くのだから、な。普段着のままで、アリ
スに恥ずかしい思いをさせる訳にはいかん」
「は、何か?」
後ろを歩いていた使用人が、ジェームズの独り言を聞き返してきた。
「ふん、何でもない」
アリスに想いを馳せていたジェームズは、声を掛けられたことに気分を害し、
ぶっきらぼうに答えた。
「お出かけですか? お兄さま」
突き当たりから現れた少年が、ジェームズに気づき、一歩下がりながら言った。
「ん、仕事だ。葡萄園の視察にな。帰りには、とびっきりの吉報が有るかも知れ
ん」
「なんですか、吉報って?」
少年は、不思議そうにジェームズを見上げた。
「いずれ分かる。それよりケビン、お前もどこかに出掛けるのか」
「は、はい………あの」
「訊くところによると、昨日はずいぶんと服を汚して来たそうだな。おおかた、
村の子どもたちと遊んでいるのだろう」
ジェームズが見つめると、ケビンはその身を竦める。いつものジェームズなら、
身分の低い者と遊ぶなと命令していたところだろう。だがいまジェームズには、
そんなつもりは微塵もない。
ケビンの頭に掌を起き、髪をくしゃくしゃにして撫でた。
「貴族といえど、男の子ならそれくらいの元気があったほうがいい」
きょとんとする弟を後に、ジェームズは玄関へ向かった。
「そんな、ご冗談を………」
驚きの声を上げたのは、アリスの父親だった。
父親に先を越されることになったアリスは渡された花束を抱え、ただ声もなく、
男の顔を見つめるだけだった。
「俺は、冗談など言わん」
出された紅茶を一気にあおり、男は平然と言ってのけた。
「あの、お申し出はありがたいのですが、娘はまだ十六ですし………それに子爵
さまとは、あまりにも家柄が違い過ぎます」
父親よりは幾分冷静な母親が、言った。
葡萄園の視察と称してやってきた、ジェームズ=ウッド。ところが彼は、熱心
に説明をする父親の話もろくに聞かず、お茶が飲みたいと言い出した。それでこ
うして家でお茶を用意すると、ジェームズは両親に対してアリスを妻にしたいと
言い出したのだ。
昨日村外れで出会ったとき、アリスに「妻になれ」と言ったのは冗談ではなか
ったらしい。
「国王陛下の元へ、王妃様が嫁がれたのは十五のときだったそうだ」
貴族とは思えない乱暴さで、ジェームズは空になったカップをソーサーの上に
戻した。
「俺は家柄など、気にはせん。いや、アリスは街の下品な貴族の娘どもより、よ
ほど我が妻に相応しい」
聞いている方が赤面するような言葉を、ジェームズは平気で放つ。
「アリス、あなたはどうなの? 悪いお話ではないと、思うけれど………」
母親は娘の気持ちを確認しようと、アリスに訊いてきた。「悪い話ではない」
と言いながらも、母親の顔には明らかな困惑の色が見える。
「私は……」
アリスは考える。
確かに悪い話ではない。望まれて貴族の妻となれる機会なのだ。こんな玉の輿
は、そうそうあるものではない。
長年ウッド家と、葡萄酒の取引をしてきたアリスの家にとっても、無碍に断れ
る申し出ではない。両親の困惑には、そんな理由もあるのだろう。
けれど。
アリスは考える。
ジェームズのプロポーズを受けて、幸せになれるのだろうかと。
アリスはジェームズが好きなのかと。
いくら考えても、昨日初めて会ったばかりのジェームズを、好きになる理由は
見つからない。逆に会ったばかりのアリスを、妻にしたいというジェームズに疑
問を感じてしまう。
そして、アリスの頭の中には別の男の顔が浮かぶ。
(フィリオ………)
(私は、フィリオのことが好きなの?)
自分で自分に問う。
(そう、私はフィリオが好き。でも………)