#4335/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:15 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(65) 悠歩
★内容
良太と美璃佳を、まるで飽きてしまったペットのように言う。この世の中に、
こんな母親が実在するなど人の話に聞いても、テレビで観ても信じられなかった
だろう。だがそれはいま、駿の目の前にいる。
もう限界だった。駿の怒りは頂点に達していた。
いままで、どんな理由があろうとも男が女に手を上げることは許されないと思
って来た。まして子どもたちの目の前で、その母親を殴るなど、決してするべき
ではない。
けれどこの女だけは別だ。
罪を憎んで人を憎まず。そんな心境になれるほど、自分は人間が出来ていない。
良太と美璃佳の心を踏みにじり、その上から唾を吐き捨てて笑うような女を許
せない。
駿の拳に、力が入る。そして頭上へと振り上げられた。
「なによ、その手は!」
「おい、貴様。何をするつもりだ!!」
外車の男が、怒鳴りながら近づいてくるのが見えた。思った以上に、いい体つ
きをしている。体重も駿の倍はありそうだ。男に組まれたら、駿の力では太刀打
ち出来そうにない。しかしもう、駿は自分で自分の手を止められない。
パアン。
乾いた音が、響き渡った。
その場の時間が止まる。
頬を押さえ、大きく体勢を崩した女。外車の男。良太と美璃佳。作業員。
そして、まだ拳を振り上げたままの駿。
女の頬を打ったのは、駿ではない。マリアだった。
まるでそれが、ダンスの一部であるかのように錯覚する優雅さで、マリアの掌
が女の頬を打ったのだ。
「な、なにすんのさ!」
事態を認識するのに、数秒の間を掛けた後、我に返った女が獣のような声を張
り上げた。続いて二度目の、頬を打つ音が響く。今度は女がマリアを打ったのだ。
駿を含め、周りの者たちは凍り付いたように動くことが出来ない。ただ二人の
女性を見つめるばかりだった。
「あなたは、良太くんと美璃佳ちゃんのお母さん………ママなんでしょ?」
マリアの声に、怒りの色はない。いつもと変わらぬ、明るい調子で話す。打た
れて赤くなった頬すら気にせず、穏やかな笑みを浮かべて。
「だから何だって言うのよ」
対して女の方は、いまにもマリアに咬みつかんばかりの勢いで吠え立てる。
「マリアのママは、マリアの幸せを願ってくれたんだよ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げて、女は駿の方を見た。
「ちっょと、あんたの彼女、イカレてんじゃないの」
女の言葉に、駿は怒りを忘れて苦笑する。いや飽くまでも穏やかなマリアに、
気持ちが和まされたのかも知れない。
そして駿は、女にこう応えてやる。
「イカレてるのは、あんたの方だよ」
「けっ」
女は唾を吐き捨てた。見苦しい様だった。
「マリアはね、ママがマリアに願ってくれたように、良太くんと美璃佳ちゃんも
幸せになるようにお祈りするの」
「勝手にほざいてなよ。ほら、あんたたち、さっさと仕事しな!」
女に怒鳴られて、手を休めていた作業員たちが動き出す。
「マリアは、思うの。マリアだけじゃなくて、みんな幸せになれるといいなあっ
て」
女が荒れれば荒れるほど、女が吠えれば吠えるほど、マリアの穏やかさが際立
つ。柳に風のように、どんなに激しい感情もマリアを乱すことは出来ないのでは
ないだろうか。しかしそれは、決してマリアが鈍感だと言うことではない。マリ
アの中には、誰よりも激しい感情がある。だからこそ、子どもたちの心を踏みに
じる女に、黙ってはいられなかったに違いない。そう駿は思った。
「マリアも、駿も、良太くんも、美璃佳ちゃんも………」
名前を呼ぶ毎に、マリアは一人一人を指さした。
「愛美ちゃんも、愛美ちゃんの叔母さんも、涼原さんも、相羽くんも、北原のお
じいちゃんも、北原のおばあちゃんも、公園で会ったお兄さんたちも、お風呂や
さんのおじさんも、『満天』のおばさんも、本屋さんの女の人も………」
指を一本一本折りながら、マリアは名前を挙げていく。これまで出会った人た
ち全てを呼んでいくつもりなのか、すれ違っただけの人まで思い出そうとしてい
るのか。
「もちろんあなたも。みんなみんな、幸せになれるといいね」
マリアは笑った、女に向かって。しかもとびっきりの笑顔で。
あまりにも予想外なマリアの台詞に、女は言い返す言葉が見つからないのだろ
う。酸欠の金魚のように、ただ口をぱくぱくと開閉するばかりだった。
「あのぉ………お荷物、積み終わりましたけど」
作業員の一人が、恐る恐る女に声を掛けた。
「なら、さっさと車を出しなさいよ! ったく、こんなクソ面白くもないない場
所、一秒でも早く立ち去りたいわ」
気の毒に、ちゃんと自分たちの仕事をこなしている作業員が、女の八つ当たり
の対象となってしまった。女はマリアに対して反論するのを諦め、大股でがしが
しと外車に向かった。
「あんたも、早く車を出す用意をして!」
女はついでにとばかり、駆けつけようとした姿勢のまま固まっていた男にも怒
鳴りつける。先ほどの甘えるような声色は、影もない。
さらに車に向かって歩いて行く女の進路上に、良太と美璃佳がいた。
「………!」
子どもたちに声を掛けようとして、駿は言葉に詰まってしまう。どんな性格で
あれ、子どもたちに愛情を示さないとは言え、女が良太と美璃佳の母親であるこ
とに間違いはない。「逃げろ」と言ってしまっていいものか。
駿が逡巡している間に、女は子どもたちのすぐ前に達し、仁王立ちする。良太
を、美璃佳を、そして美璃佳の抱いた人形を鋭く睨みつけた。
「なんだい、小汚い人形なんか大事そうに抱えて。そんなもん、捨てちまいな!」
不当な女の怒りは、ついに子どもたちへと向けられる。手を伸ばし、美璃佳の
人形をつかみ取ろうとした。
「だめっ、じゅんちゃんは、みりかのおともだちなの!」
母が子を庇うように、美璃佳は身体を丸めて人形を守ろうとした。
「さわるな!」
咄嗟に良太が、美璃佳の前に立つ。そして伸ばされた女の手を、叩き払った。
「な………」
自分の子どもに抵抗された女の形相は、さらに恐ろしく、そして醜くなる。け
れど良太は臆することなく、両手を広げて美璃佳を守るため、女と対峙した。
「もう一度だけ言うよ。その人形を捨てるんだ」
「ぜったい、いや。じゅんちゃんは、すてないの」
美璃佳は震えている。自分の母親の前で、母親の声を聞きながら、がたがたと
震えているのだ。
決してあってはいけない光景が、駿の前で展開している。悔しくて、悲しくて、
駿は泣けた。
「美璃佳が、すてないって言ってるんだ。おまえが、かってにきめるな」
良太の言葉も、母親に対するものではない。
「ほんっとに、くそ生意気なガキどもだね! よし、それならこうしよう。その
人形を捨てれば、私と一緒に連れていってやる。今度は、こんな汚いアパートじ
ゃないよ。高級マンションだ。部屋もたくさんあるし、広い風呂だってあるんだ。
さあ、どうする?」
ふざけた条件だ。母親が新しい転居先に、子どもを連れていくのに条件を出す
など、聞いたこともない。
「ちっょと、ガキが一緒なんて、約束が違う」
外車の男が抗議し掛けたが、女に一瞥されると、そのまま口を噤んでしまった。
「さあ、どうするんだい? 人形を捨てて私と来るか、それとも人形を取って親
なしっ子にでもなるかい?」
それはもう、選択を促しているのではない。脅迫だ。
美璃佳は何も答えず、固く目を閉じて人形を抱きしめている。人形を取られて
しまう、と言う恐怖の方が強いのだろう。女の出した条件すら、耳に届いていな
いかも知れない。
良太の方は、明らかに迷っている表情を見せた。形だけだとしても、母親の保
護が受けられれば美璃佳とは別れずに済む。それが嫌で、家出までした良太だ。
迷って当然だろう。
「いや、じゅんちゃんすてない………みりか、このひときらい」
美璃佳が泣き出すと、女はさらに苛立ちを増したらしい。
「母親に向かって『この人』だあ? 勝手に野垂れ死にするかい? くそガキ」
罵られてもなお、良太は答えを出せずにいた。助けを求めるように、駿の方を
見る。
何と言ってやるべきだろう。駿もまた悩んだ。あんな女でも、母親は母親。子
どもは、親と暮らすのが、一番いいのではないのか? しかしあの女を見ている
と、とてもそうは思えない。思えないが、それは駿の主観ではないのか?
「駿………」
早く答えてやれと促すように、マリアが駿の名を呼ぶ。
「良太くん、美璃佳ちゃん………君たちが決めるんだ。自分たちにとって、一番
いいと思う方を」
良太の目が、駿から逸らされた。とても悔しそうな顔で。
マリアは何も言わず、駿を見つめる。
女が駿を振り返って、笑った。勝ち誇ったように。
女にしてみれば、人形のことなどどうでもよかったに違いない。ただ八つ当た
りをするため、美璃佳の嫌がることを条件に出しただけなのだ。
このまま女に従い人形を捨て、ついて行っても、住まいが変わるだけで子ども
たちにとって変化はない。パトロンらしい男は、子どもを嫌っているようだ。新
しい住まいで、これまでのように長い間放って置かれても、誰か助けてくれる人
がいるとは限らない。
母親と一緒に行くことで、かえって良太と美璃佳は、これまでより辛い立場に
なるかも知れないのだ。
駿の決心は、ついに固まった。
「ただ………君らがここに残りたいと望むなら、俺と暮らそう。贅沢はさせてあ
げられないけど、子ども二人くらい、なんとか面倒はみてやれるさ」
伏せられていた、良太の顔が上げられた。駿には、その瞳が輝いているように
見えた。
「美璃佳!」
良太は後ろの美璃佳へ、振り返る。顔を上げた美璃佳の目と、良太の目が合い、
兄妹は同時に頷いた。
「みりか、しゅんおにいちゃんと、いっしょがいい!」
手を取り合った兄妹が、女の横をすり抜け、真っ直ぐ駿へと駆け寄ってくる。
抱きついてきた、熱い熱い、二つの身体。
その温もりを、駿が忘れることはないだろう。その決断を、後悔することはな
いだろう。
「ほんとに、ほんとに、いいの? 美璃佳と、お兄ちゃんのところにいて………」
歳相応の顔に戻り、泣きじゃくる良太。
ただただ、駿にしがみつく美璃佳。人形の頭が駿の喉にあたり、少し苦しい。
「馬鹿な連中。好き好んで、貧乏暮らしを選ぶかい。勝手にしな!」
捨て台詞を吐くと、女は乱暴に車へ乗り込んだ。全く、子どもたちに何の名残
もないのか、すぐさま車を発進させて立ち去っていく。その後を軽トラックが続
く。
「なにをしてるんだい? マリア」
良太と美璃佳に抱きつかれ自由の制限された身体で、駿はマリアの方へ首を動
かした。そこには去って行く車に向かい、両手を合わせて何かを祈るマリアがい
た。
「言ったでしょ。マリア、みんなが幸せになれると、いいって」
「あ、ああ?」
「だからね、あの人にも祈ってあげるの。心も幸せになれますように、って」
皮肉などでは有り得ない。聖母の微笑みが、そこにはあった。
どこまでお人好しな、マリア。けれど駿は、そんなマリアが一層好ましく思え
た。
蒼い星を見据えて、沈黙し続ける178の船。
自らをただの機械と称しながら、各々が各々の想いを胸に蒼い星、地球を見つ
めているようだった。
かつて自分たちの旅立った故郷のあった場所に浮かぶ、蒼い星。それは宇宙船
たち、いや、彼女たちの知る故郷とは全く別の惑星。
故郷の亡骸から生まれた、別の命。
故郷の消滅は、彼女らの存在意味の消滅に繋がっていた。
『美しい星ですね………』
誰かが呟く。
『ええ、私たちの故郷そっくりな星です』
誰かが応える。
ないはずの心が痛む。
いまはなき故郷を想い。
娘たちとの別れを思い。
『いつまでも名残を惜しんでいても、仕方ありません。さあ、始めましょう』
誰かが皆を促した。
心なき機械なら、能率を重んじてとうに行っていたはずのことを。
『さようなら、マリア』
彼女たちの一人から、小さな光が生まれ、蒼い地球に吸い込まれていく。それ
が呼び水になったように、他の176のママたちも小さな光を、地球に向けて放
った。ただ一人のママを除いて。
177のママたちが放ったのはそれぞれの生体ユニット、娘(マリア)の眠る
脱出用ポット。