AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(18)  悠歩


        
#4288/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   1:30  (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(18)  悠歩
★内容
 そこにはペンで『岡野恵美』と、部屋の住人の名前が書かれていた。そしてそ
の横に、明らかに子どものものと分かる文字で、『りょうた みりか』と鉛筆書
きでつけ加えられていた。
「ねっ、ほら。ここに美璃佳ちゃんの名前があるよ」
 純子は表札を指さす。
「ちがうもん、ここはみりかの、おうちじゃないもん」
 顔を背け、美璃佳は純子の指さす方を見ようとはしない。そしてまた泣きじゃ
くる。
 同姓同名なのだろうか?
 だが同じアパートの、隣の部屋というのは、あまりにも出来すぎている。しか
も『りょうた』という、男の子の名前まで一緒なのだ。
「うーん」
 どうしたものかと考え込む純子。美璃佳を支えていなかったら、頭を掻いてい
るところだろう。
 どちらの部屋も不在では、確認のしようもない。二階の残り二部屋は、人の住
んでいる気配すらない。
 小さな美璃佳と一緒にいるうちに、つい自分が大人であるかのような錯覚を起
こしていたが、純子もまだ中学生なのだ。
 ただ泣くだけの美璃佳を抱え、純子はどうしたらいいのか分からなくなってし
まった。



「なにかしら?」
 アルバイトに出る前に、そろそろ夕飯の支度を始めようと思った愛美は、外か
ら聞こえてくる泣き声に気がついた。
「あれは………美璃佳ちゃんの声、じゃないかしら」
 気になってドアを開けると、泣き声は一層はっきりと聞こえた。
 その泣き声を追って、視線を巡らすと二階のドアの外に立つ女の人の姿が目に
入ってくる。愛美と同い年ぐらいだろうか。アパートの住人ではない。
 影に隠れてはっきりとは見えないが、女の人は前に小さな子どもを抱えている
らしい。それが美璃佳であることは、泣き声からして間違いなさそうだ。
 初め、その隣の………駿の部屋のドアにもたれ掛けて座っているのが、美璃佳
かと思ったが、それは人形だった。
「あの、美璃佳ちゃん、どうかしたんですか?」
 階段を上がり、愛美は美璃佳を抱えた女の人に声を掛けた。
「あ、それが………」
 泣きじゃくる美璃佳に、困り果てていたらしい。愛美に声を掛けられた女の人
は、心底助かった、というような顔で振り返った。
「あっ」
 小さな声が重なる。
 愛美と、女の人と。
「涼原さん」
「にし……ざきさん、よね?」
 女の人は愛美の名を、愛美は女の人の名を呼んだ。
 愛美の見知った顔。
 美璃佳を抱き抱えていたのは、愛美と同じ中学校に通う、涼原純子だった。
 あの相羽信一と同じクラスの子で、彼と話しているのを何度か見たことがある。
そういえば春先、学校の階段でぶつかったことがあった。その時、普段は人見知
りの激しい愛美が、なぜだか自然に会話を交わすことが出来たので覚えている。
「わあ、助かった。西崎さんって、美璃佳ちゃんと知り合いなんだ」
「え、ええ」
 純子の視線が、自分の足下に落ちるのを感じた。愛美は、サンダルを履いてい
た。たぶんそれを見た純子は、愛美がこのアパートの住人だと分かったはずだ。
「美璃佳ちゃん、どうしたの?」
 どうして純子がここにいるのか気にはなるが、それより先に美璃佳を泣き止ま
せなければ話もできない。愛美は身体を曲げて、美璃佳と視線の高さを合わせる。
「あど…ね……しゅちゃと……りょう……ちゃと、まやちゃと………くちゃた…
の」
 泣いて、話して、鼻を啜って。美璃佳の言葉は言葉になっていない。
「涼原さん、貸して」
 両手を差し伸べ、愛美は純子から美璃佳を受け取って抱き上げた。
「に……ちゃん、な………の」
 愛美の手に渡った美璃佳は、首に抱き付き、涙と鼻水に濡れた顔を押し充てて
泣いた。
「ね、いい子だから、泣かないで。美璃佳ちゃん」
 赤ん坊をあやすように、美璃佳の背中を軽く叩き、愛美は身体を揺らす。
 泣き止みはしなかったが、少しは落ち着いたのだろう。美璃佳の泣き声が小さ
くなった。
「どうかしたの、涼原さん?」
 ぼーっとした表情で、自分を見つめている純子に気がついて、愛美は言った。
「ん……あ、その………西崎さんって、なんか美璃佳ちゃんの、お母さんみたい
だなあって思って」
 純子は立ち上がり、頬を掻きながら応えた。
「やだ………私、涼原さんと同い年よ」
 冗談ぽく、怒った顔をして見せる。
「あははっ、そ、そうだよね」
 少し恥ずかしそうな顔をして、純子は笑った。
 つられて愛美も笑った。
 純子にとっては、なんでもないことかも知れない。けれど人と冗談を言い合い、
笑うなど、愛美には久しく覚えのないことだった。

「ちょっと、待ってね」
 自分の部屋のドアを開けながら、愛美は振り返って後ろにいる純子に声を掛け
た。中に入ると、泣き疲れて眠ってしまった美璃佳をそっと降ろす。そして、押
入から枕と毛布を取り出し、美璃佳に掛けてやった。
「あ、ごめんなさい」
 大きな人形を抱え、不自由そうな純子に気づき、それを受け取る。
 重いというほどではなかったが、その人形を抱えると愛美でさえ、前方の視界
が遮られてしまう。純子から聞いた話では、美璃佳は迷子になっている間、すっ
とこれを大事に抱いていたらしい。小さな子どもが、みんなとはぐれた上、視界
も制限されてしまった状況は、どんなに不安だっただろう。
「お茶でも、飲んでいく?」
 愛美は玄関で寒そうにしている純子に、言った。
 このアパートに越してきてから、友だちを部屋に入れたことどころか、住所を
教えたことすらない。自分が貧しい暮らしをしていることを、人に知られたくは
なかった。だから、相羽がマンションから送ってくれたときも、アパートは教え
なかった。
 けれど純子にはもう、隠しだてする必要がなくなってしまった。それより、寒
い中苦労して美璃佳を連れてきた純子に、せめてもの労いをしたかった。
「本当は私も、身体を暖めていきたいんだけど。ほら、もうこんな時間だし、早
く帰らないとお母さんも心配するし」
「そう、そうね」
 無理に引き留めることはしない。
 その代わり、愛美は靴を履く。サンダルではなく、靴を。
「あ、別に送ってくれなくても、平気よ」
「ん、ちょっとそこまで用事があるから………」
 本当は純子に話しておきたいことがあるのだが、そう応える。
 たいして時間は掛からないはずだが、念のためドアの鍵を閉める。まさかとは
思うが、目を覚ました美璃佳が、またどこかへ行ってしまっては大変だ。
 愛美と純子は、アパートの前の狭い通りを、並んで歩いた。言いたいことが、
なかなか切り出せない。かと言って、他の会話をするほど純子とは親しい訳でも
ない。それは純子にしても、同じことだったのだろう。重苦しい沈黙が続く。
「あの………」
 先に口を開いたのは純子の方だった。
「デパートの人から訊いた美璃佳ちゃんの住所、あの藤井さんって人の部屋なん
だけど………隣の部屋の表札にも美璃佳ちゃんの名前、書いてあるよね? あれ
って、同姓同名なのかしら」
 答えていいものか、愛美は迷った。その気配を感じたのだろう。
「あ、そんなの、私が詮索するようなことじゃないよね、あははっ」
 或いは重苦しい空気を払おうとしてのことかも知れない。少し大袈裟なアクシ
ョンで、純子は頭の後ろを掻いて見せる。
「あの子たち………美璃佳ちゃんと、そのお兄ちゃんの良太くんの部屋は、さっ
き涼原さんのいた方。藤井さんの隣よ」
 別に隠しておく理由が、愛美には見当たらない。もし自分が純子の立場なら、
同じ疑問を持ったかも知れない。好奇心のあることも否定は出来ないが、迷子に
なっていた美璃佳を連れてきた純子には、間違いなく正しい相手に届けたことを
確認する義務もあるだろう。
「私も詳しいことは、知らないの。美璃佳ちゃんたちのお母さんって、滅多に帰
って来ないみたいで………表札を見たなら分かると思うけれど、お父さんもいな
いから。それで藤井さんが、面倒をみてあげてるらしいの」
 その母親が、帰って来ない理由。遊び歩いているから、と言わないのは愛美の、
せめてもの良心だった。
「そっか」
 純子は短く応えただけだった。
「それで、涼原さん」
 そろそろ目的の話をしなければ。いつ目を覚ました美璃佳が、一人で心細くな
って泣き出すかも知れない。突然帰ってきた父が、美璃佳を見て怒り出すかも知
れない。
「私が頼むことじゃないけれど、もし良かったら、美璃佳ちゃんのお友だちにな
ってあげてね」
 口をついて出たのは、思っていたこととは別のこと。本当は同じ学校の純子に、
あまりアパートには近づいて欲しくないのに。
「もうなったよ。美璃佳ちゃんと、お友だちに」
 微笑み返す純子の顔を見て、愛美は自分が嫌になる。純子に比べて、自分の考
えの卑屈なこと、さもしいことに。
「それから………あのアパートで私と会ったこと、誰にも言わないで欲しいの」
 自己嫌悪の中、目的の言葉をようやく口にする。
 どんなに自分が嫌になろうと、長年培ってきた心は変わらない。自分の生活を、
父のことを周囲から隠すようにしてきた習慣は変えられない。
「えっ、どうして?」
 純子は驚いたような、そして不思議そうな顔で愛美を見る。それが愛美には、
卑しい自分の心を見つめられるようで、辛かった。
「お願い………」
「うん、分かったわ。約束する」
 愛美の心中を察してか、もともと必要以上に詮索をしない性格なのかは分から
ない。震える愛美の声に対し、純子の明るい返事が返ってきた。

 いつまでも落ち込んではいられない。部屋に残してきた美璃佳の事が、気に掛
かる。途中、公衆電話からアルバイト先の『満天』に、少し遅れると連絡を入れ
た後、急いでアパートへと戻った。
 アパートの門を抜けると、愛美の耳に微かな声が聞こえて来た。美璃佳の声だ。
 安普請のアパートのこと、部屋で少し大きな声を出せば、それは外まで聞こえ
てしまう。ただ、何を言っているのかまでは、はっきりしない。泣き声のように
聞こえる。
 急いでドアを開けようとして、愛美は鍵が掛かっていないことに気がついた。
 おかしい………部屋を出るとき、間違いなく閉めたはずなのに。
 不審に思いながら、ドアノブを回す。美璃佳の声が一層はっきりと聞こえた。
 玄関にある靴を見て、愛美の心臓は凍りつく。部屋を出るときにはなかった、
男物の靴。父のものだ。
 母が死んでからの父は、誰に対しても乱暴にあたる。酒場にたまたま居合わせ
ただけの人を殴って怪我をさせたり、すれ違っただけの人に絡んでみたり。そん
な父ばかりを見てきた愛美は、この状況に愕然としてしまった。まさかとは思う
が、父は小さな美璃佳にまで乱暴に振る舞っているのだろうか。
 震える手で、心ばかりの広さしかない台所と部屋を仕切るガラス戸を開けた。
「あっ」
 声にならない声。
 目の前に現れた光景に、緊張していた全身の力が抜けていく。
「ふふふ、はははっ」
 部屋に響く美璃佳の声。それは泣き声ではなかった。美璃佳は笑っていた。
 布団の上に寝ころんだ父は、足を上に向けて伸ばしている。そこに美璃佳を乗
せ、脇を両手で支えてやり、足を上下させて高い高いをする。小さな身体が浮き
沈みを繰り返し、その度に美璃佳は、笑い声を上げる。ふとその動きが止まった
かと思うと、今度は脇を支える両腕で、美璃佳の身体を左右に揺さぶる。
 その姿を見て、愛美は遥か遠くになってしまった過去を思い出す。
 小さな愛美を、同じようにして遊んでくれた父。
『ほらほら、危ないでしょう。落ちたら大変』
 注意しながらも、優しげに笑っている母の顔。
 もう決して戻ることのない時間が、愛美の記憶の中に甦る。
 時間は戻らない。しかしいま、愛美の見ている父の顔は、あの時と同じだった。
 母はもういない。父はお酒で身体を壊し、すっかりとやつれた顔をしている。
けれどその優しい笑顔は、紛れもなくあの時と同じもの。
「あ、まなみおねえちゃんだ」
 美璃佳が愛美に気づく。
 動きが止まる。
 愛美の存在を認めた父は、ゆっくりと美璃佳を下に降ろす。
「ああん、おじちゃん、もっと」
 その遊びをまだねだる美璃佳の頭を、父がそっと撫でた。
「おじさん、疲れちゃったよ。少し、休ませてくれ」




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