#4262/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:26 (164)
代償 第三部 20 リーベルG
★内容
20
祐子は感覚を喪失した世界にいた。耳に粘土を詰め込まれ、目はガムテープを
貼られた上にタオルで縛られている。口も同様にガムテープで塞がれていたし、
両手両脚は完全に拘束され指一本動かすこともできない。身体全体がベッドに固
定されていたので、寝返りを打つことすらできなかった。
すでに日付の感覚は消失している。今日が何日なのか、今が何時なのか、昼な
のか夜なのかさえわからない。少し前に耐え難い空腹で身体がよじれそうだった
が、すでにそれも通り越していた。
実際にはこの状態にされて2時間程度なのだが、祐子の主観時間では数日が経
過していた。
ピシャッ!
鼻の頭に水滴が落下した。わざわざこの位置を選んだらしい。水滴は数分おき
に正確に鼻に命中している。
最初のうち、祐子は落下から次の落下までの時間を数え、それで気を紛らわそ
うとした。時刻を知る手がかりにもなるかもしれない。
ピシャッ!
いち、にい、さん、し……
ピシャッ!
よし、76秒だ。これまで何回ぐらい落ちてきただろう。50回だろうか?そ
れとも100回ぐらい?仮に100回だとすると、7600秒だ。7600を6
0で割るといくつになるんだろう?7000は6で割り切れるか?いや、割り切
れない。いや、まて。7600と60はどっちも最後にゼロがついているから、
この計算は760割る6でいいんだ。まず76を6で割ればいいのだったか?い
やいや、そうじゃない。6の100倍が600で、760は600より大きいか
ら、760から600を引かなければ。つまり100をどこかに置いておいて、
160を6で割った数字に足せばいいんだ。じゃあ、160は6で割り切れるの
だったっけ?
こんなことを考えて時間を潰すしかなかった。せめて身体の位置を変えて、水
滴が口に落下するようにしたかったが、それはどうしてもできなかった。
すでに怒りも恐怖も憎しみも、遠い過去の想い出のようだった。それらを考え
始めると、身動き取れない焦燥感が増すばかりなので、考えることをやめたのだ。
いずれ時が来たら考えればいい。
祐子は、その時が来るのを待ち続けた。
由希もその時を待ち続けていた。
一度、県警の笹谷刑事から、由希のマンションに電話がかかってきた。由希は
携帯電話に転送されてきた通話を、祐子の隣の部屋で受けた。
『祐子さんが落ち着いたら取り調べを続けたいんですがね』
「もう少し待ってもらえませんか。まだ、少し興奮状態にありますので。今はぐ
っすり眠っていますが」
『そうですか。何か変わったことでもありましたか?』
「いいえ……実は、ここから抜け出そうとしたことがありました。4階の窓から
です。何か叫んで……」
『うーむ。それで、どうしたんですか?』
「何とか引き留めました。警察から帰る途中で、夜間診療所に寄って鎮静剤をも
らってありましたので、それを飲ませたら何とか落ち着きました」
『できるだけ早く事情聴取したいのですがね。それにそういうことなら、きちん
と医者に見せた方がいいでしょうし』
「あと、2、3日待っていただけませんか?」
笹谷刑事が躊躇う気配があった。
『いいでしょう。未成年であることや、逃亡の恐れが少ないことを考慮して2日
だけ待ちましょう』
「ありがとうございます」
『いいえ、どういたしまして。先生にはご迷惑をおかけしますな』
「とんでもありません。これも仕事です」
『尊敬しますよ。では、これで……おっと、そうだ。一つ訊きたいことがあるん
です』
「なんでしょう?」
『この前、取調室に後から来た大野川刑事を憶えていますか?』
「ええ」
『実は、今日無断欠勤していまして。自宅の方に電話をしても出ないのです。ひ
ょっとして、そちらにお話を伺いに行ったのではないか、と思いまして』
「さあ。見えていませんが」
『そうですか。いや、わかりました。それでは、またお電話します。何かありま
したらいつでもお電話ください』
「ええ。失礼します」
通話を切った由希は小さくつぶやいた。
「あと二日」
昼が過ぎ、夜が更けていった。だが、祐子はそれも気付かぬまま、ただひたす
ら時を待ち続けた。
一定時間ごとに鼻を水滴で直撃されては眠ることもできない。何度も水が気道
に入りむせかえったが、口が塞がれているので咳もできなかった。喉の奥を必死
でけいれんさせ何とか肺を鎮めたが、ぐったりと疲れてしまう。
一度誰かが入ってきて、口を塞いでいるガムテープの端に穴を開けてストロー
を差し込んだ。そこから冷たいミルクが流れ込んできたので、祐子は必死でそれ
を呑み込んだ。
それからどれぐらい経過したのだろう。
顔の上にかゆみを感じた。もちろん掻くことはできないので、無視しようとし
た。だが、それがかゆみではなく、何かの虫が歩いているのだと知ったとき、祐
子は本格的なパニックに突入した。
虫は口を塞いでいるガムテープの上を歩いていた。薄い紙一枚を隔てて、虫の
不気味な重みを唇に感じた祐子は、気が狂いそうになりながら、必死で頭を動か
そうとした。だが、頭もベルトできつく固定されていて動かすことはできない。
虫が止まった。さっきミルクが流し込まれた穴だ。もし、そこから口の中に入
ってきたら……
祐子は必死で息を吐いた。鼻からではなく口から。穴から空気が吹き出し、虫
はそこから離れていった。
ほっとしたのもつかの間、今度は虫が身体の上を這っているのに気付いた。服
は脱がされたままだ。
肩の上にそれが乗った。祐子はかなり大きな虫であることを知った。ゴキブリ
か、それともクモかもしれない。祐子はどちらも嫌いだった。
虫が乳房を登り始めた。祐子は喉の奥で絶叫し、身体を可能な限り揺すった。
だが直接的な危険を感じなかったらしく、虫はそのまま登坂を続けた。足の先端
の小さく尖った部分が、敏感な乳首をちくちくと突き刺す。
本能的な嫌悪で背中が反った。その動きで、虫はようやく移動を始めた。かな
りの早足で平らな腹部を通り過ぎ、汗で湿った恥毛の中に潜り込んだ。悪いこと
にそこの温度と湿度が気に入ったのか動きを止めてしまった。
祐子はさらに絶叫した。ただし、それを聞いているのは本人しかいなかった。
『……やあ、先生』笹谷刑事が親しげに応答した。『何か?』
「大変なんです」由希は動転した声で叫んだ。「朝倉さんがいなくなりました」
『何ですって!』
「さっき、ちょっと近くのコンビニに出かけて、帰ったらいなくなってたんです。
たった5分かそこらなのに」
『何てことだ』
「よく眠っていたので……申し訳ありません」
『いなくなった時の服装は?』
「最初に着ていたワンピースがなくなっていました」
『他に何かなくなっている物は?例えば、お金とか』
「いえ、何もないと思います」
『わかりました。すぐ手配します』
「お願いします。私も近所を探してみますので」
『また連絡します』
由希は通話を切って時計を見た。
懸命に太腿の筋肉を動かし続けたおかげで、恥毛の中の虫はようやくもぞもぞ
と動き出した。両脚は少し広げて固定されていたので、性器がむき出しになって
いる。虫はそちらの方へ進んでいった。
そっちへ行かないで!祐子は願ったが、虫は何かに惹かれたように、粘膜の上
で止まった。再び嫌悪で全身が震えた。
その震動で虫は再び動き出し、ベッドの上に落ちた。そのままどこかへ去って
いったようだ。祐子はたとえようがないほど安堵した。
次の瞬間、身体の上にぼとぼとと何かが落ちてきた。
それが何十匹にもなる虫だと知った途端、祐子は全身が総毛立った。
同時に耳を塞いでいた粘土が引き抜かれ、由希の冷ややかな声が聞こえた。
「虫が好きみたいね。たくさん友達を連れてきてあげたわよ。毒はないから安心
していいわよ。どこにでもいるゴキブリだから」
ゴキブリの群は祐子の身体中を這い回った。祐子は喉の奥で絶叫し、全身の力
を振り絞って身体を揺すろうとした。
「加代のことを憶えてる?」由希が言っている。「あなたも、加代に対して同じ
ことをしたそうね。加代はゴキブリが死ぬほど嫌いだったのよ。あなたはそれを
知っていて、加代の机の中にゴキブリホイホイをいくつも入れておいたり、給食
のミルクにゴキブリを入れさせたりした。加代はその度にもどしたそうね」
祐子は返事をするどころではなかった。ゴキブリの一群は祐子の身体のいたる
ところを、カサカサと動き回っていた。
「気付いていないから言っておくけど、あなたの身体を縛っているベルトの上に、
ゴキブリ捕獲用の餌がくっつけてあるのよ。だから、脅かしたぐらいじゃ逃げな
いと思うわよ」
由希の言葉に、祐子は発狂しそうになった。
「それから、さっき飲んだミルクだけど」由希はくすくす笑った。「あの中でゴ
キブリを泳がせてあげたわ。おいしかったでしょう?」
白い液体の中に黒光りするゴキブリがつかっている光景。祐子は耐えきれなか
った。胃の中身がものすごい勢いで逆流し、口の中にあふれ出した。同時に口を
塞いでいるガムテープがベリベリと音を立てて取り去られた。
吐瀉物があふれ出した。祐子は咳き込みながら叫んだ。
「いやああ!こいつらをどけてえ!」
「知ってる?ゴキブリって汚いものが大好きなのよ。あなたが吐いたものとかね。
あなた自身も汚いけど。また後で来るわ。それまで仲良くね」
「いや、いやあ!行かないで!お願い!助けて!」
ドアが閉じる音が無情に響いた。
祐子はまた絶叫した。
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