#4252/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:13 (192)
代償 第三部 10 リーベルG
★内容
10
「念のために、橋本由希のマンションに監視だけはつけておいたんですよ」榊は
さらに何本か電話をかける合間に説明した。「もっとも、保険みたいなもので、
行動を起こした以上、のこのこ戻ってくるとは想像だにしませんでしたがね」
「それで彼女の様子はどうなんだ?」
「特に変わった様子はないようですが。のんびり夕食の支度などをしているそう
です」
「臼井は?」
「見あたりません」
「ひょっとして、亜紀ちゃんの誘拐は、橋本由希とは無関係じゃないのか?」
「偶然にしてはできすぎてますな」
「偶然なんかであるもんですか」祐子が断固とした口調で言った。「自分のアリ
バイを作っとくつもりに決まってるでしょう。チャンスじゃない!橋本由希を捕
まえて亜紀の居場所を吐かせるのよ!」
榊と大野川は顔を見合わせた。
「お嬢さんの言うことも一理ありますな」
「素直に吐くかな?」
「橋本由希を甘く見るつもりはありませんが、肉体的な攻撃に対して、それほど
耐久力があるとは思えません。合法的なものではありませんが、スコポラミンな
どの自白剤も調達できます。取引をするのなら、橋本由希以上のカードはありま
せんよ」
「罠かもしれない」
「罠でも何でも、橋本由希を手中にしてしまえば、こちらの勝ちです」
「……」
大野川は考え込んだ。
「さっさと動いたらどうなの」祐子が言った。
「いや、さすがにすぐ拉致するのは危険です。一応、明日の朝の電話を待ちまし
ょう。うまくいけば、橋本由希が妹さんの居場所へ向かうかもしれません。そう
すれば、こちらは危険を冒すことなしに、妹さんを奪回することができます」
「あの女の顔をひっぱたいてやりたいのよ」憎悪がしたたる声で祐子は唸るよう
に言った。「思いっきり蹴飛ばしてやりたい」
「気持ちはわかりますが、妹さんを助け出してからにしましょう。お金の方はど
うです?」
「いつもの証券マンに電話だけは入れといたわ。だいぶ損をすることになるけど
一千万は確保できそうよ」
「例の告白文とやらの方は書けたんですか?」
「一応ね」祐子は不機嫌そうな顔をした。「適当に書いてやったわ」
「お嬢さん……」
「だって仕方がないじゃない。いちいち昔のことなんか、憶えてられないわよ」
「まあ、いいでしょう」榊はため息をついた。「じゃあ、少しお休みになって下
さい。こちらは、いつでも橋本由希の身柄を確保できるよう手配します」
祐子は頷くと、さっさと自室の方へ引き上げていった。
「おれも少し眠らせてもらうぜ」大野川があくびをした。「明日に備えてな」
「どうぞ。私も2、3本電話をかけたら仮眠を取ります」
短い夜が明けた。
午前9時30分、三人は疲れた顔を応接間に並べた。
「株を売ったわ」最初に祐子が口を開いた。「とりあえず私の口座に一千万円が
入ってるわ」
「こっちも態勢を整えました」次に榊が言った。「橋本由希はマンションから一
歩も出ていません。部屋の中の様子はわかりませんが。以前、部屋に盗聴器を仕
掛けようと思ったこともあったのですが、あのマンションは警備が固くて断念し
ました。そこまで危険を冒しても得られるものは少ないですからな」
「本庁のマル暴担当に、臼井の消息を訊いたが不明だった。理由は話さずに、で
きる限りの足取りを追ってもらっているが、結果は期待しない方がいいな」
「とりあえずコーヒーがいただきたいですな」
祐子は、自分で用意しろ、とでも言いたげに榊を睨んだが、渋々キッチンの方
へ歩いていった。
「さて」榊は首の後ろをもみながらつぶやいた。「橋本由希はどう出ますかね」
午前10時ちょうどに、携帯電話が鳴り響いた。
『朝倉祐子か?』
「そうよ」
『言ったものは用意できたか?』
「できてるわ」
『よし。手元にあるのか?』
「まだ銀行に……」
『すぐ手元に届けさせろ。30分後に連絡する』
「待って!亜紀は無事なの?」
『今のところはな』
通話は切れた。
祐子はすぐに別の電話を取り上げて、銀行に電話をかけた。
「そうよ。すぐに現金を届けて……ええ?私のお金をどうしようと、勝手でしょ
う……父は関係ないわ。心配ならロスにいるから電話してみたら?ぐずぐずして
ると、口座を解約して、別の銀行から届けてもらうことにするわ。その方がいい?
……じゃあ、早くするのね。十時半までに届けて。それまでにできないのなら、
ただちに口座を解約するわ。そうよ。じゃあよろしく」
「どうでした?」
「届けさせるわよ」祐子は腹立ちまぎれに、受話器を叩きつけた。「あの、ばか
支店長がごねたけど」
銀行からの現金輸送車は、10時30分の数分前に、朝倉家の玄関の前に到着
した。2名の警備員が降り立ち、銀行の支店長と若い銀行員が、ジュラルミンケ
ースに入った現金を、女王の王冠か何かのようにうやうやしく祐子の前に差し出
した。
「なにぶん、急な話でしたので……」支店長は大汗をかきながら弁解した。「失
礼を申しまして」
「いいのよ」祐子は横柄に応じた。「受け取りにサインしなくていいの?」
若い銀行員が書類を出した。
「こことここ、それからこっちのこことこちらにもサインか印鑑をお願いします」
祐子がサインをしている間、支店長は不審そうな顔で、榊と大野川を見ていた。
「あの……こちらの方たちは?」
「私の、つまり、顧問みたいなものよ」祐子は顔も上げなかった。
「そうですか。何かお困りになったことがあれば、当行でご相談にのらせていた
だきますが」
「余計なお世話よ。さあ、これでいいわね」
「はい。それでは失礼します。お父様にくれぐれもよろしくお願いします」
「伝えるわ」
支店長たちが現金輸送車で去ると、祐子は時計を見た。10時30分を数分経
過している。
「そろそろ30分たつわ」
「この家を監視しているのなら、銀行員がいなくなるまで待つでしょうな」
その榊の言葉を裏付けるように、例の携帯電話が鳴った。
「もしもし!」
『金は用意できたか』今やなじみとなった声が訊いた。
「できたわ。手元にあるわよ」
『金を持って、駅前まで行くんだ』
「ちょっと待ってよ!亜紀の無事を確かめないとどこにも行かないわよ」
『そっちが要求なんか出せると思っているのか?信じないなら好きにするんだな』
「で、でも……」
『心配するな。妹は無事だ。駅前に着いたら、その証拠を見せる』
「証拠?どんな証拠を?」
『そのときにわかる』男はぶっきらぼうに言った。『もう一つ、用意してもらう
ものがある。お前の学校の生徒名簿だ。あるな?』
「は?」思わず祐子は問い返した。「なにが?」
『星南高校の生徒名簿だ』相手は辛抱強く言った。『あるのかないのか』
「名簿?そりゃ、あるけど」
『それを一緒に持ってこい。それから生徒手帳もだ。作文はできたのか?』
「え?ああ、あれね。一応書いたわ」
『それと、例の絵をも忘れるな。何を持ってくるのかわかったな?』
「現金、名簿、生徒手帳、作文、絵」
『そうだ。駅前まで行け。すぐに出るんだ。車は使うな。バスかタクシーで行け』
例によって通話は一方的に切れた。
耳を傾けていた榊と大野川は顔を見合わせた。
「どこかで金を受け取るつもりかな?」
「わかりませんな。それに、生徒名簿など何に使うつもりなんでしょう。そんな
もの、いくらでも手に入れる手段はあるのに。橋本由希ならなおさらですな」
「そんなことはどうでもいいのよ。すぐ、駅前に行くわ」
「わかりました。私は先回りします。刑事さんはどうします?」
「行くよ」
どのような手段かは榊にもわからなかったが、祐子たちが監視されているとい
う、電話の男の言葉に嘘はなかった。祐子がタクシーを降りた途端に、携帯電話
が鳴り響いたからだ。
「はい」
『そのまま左手にある本屋に行け』男は命令した。
祐子は左を見た。祐子も行ったことのある書店が店を開けていた。大きくはな
いが、幅広いジャンルの書籍が置かれていて、新刊の入荷も早い。
『電話はこのままにしておけ。行け』
祐子は現金の入ったバッグを持って歩き出した。さすがにジュラルミンのケー
スを持ち歩いては好奇心あふれる視線を集めてしまうだろうから、古いボストン
バッグに詰め替えてきた。
本屋の中は人気がなかった。背広を来たサラリーマンと、主婦らしい女性、そ
れに数人の女子中学生がコミックのコーナーにいるだけだ。店員はレジで、何か
を書いていた。
『文庫の棚に行け』携帯電話から声が聞こえた。『奥から2番目の列に扶桑社の
コーナーがある。わかるか』
祐子は急いでその場所に行った。言われた出版社の文庫が並んでいる。
『赤い背表紙の文庫の中から、神々のワード・プロセッサという本を探せ。ステ
ィーヴン・キングの本だ』
祐子は読んだことがないが、キングの本は人気商品らしく、一番上に並んでい
た。「神々のワード・プロセッサ」という本は、確かにその中にあった。短編集
である。
『それを買って外に出ろ。レジで釣りをもらうな』
「え?」
『釣りはいらない、というんだ。行け』
最後の言葉と同時に通話は切れた。祐子は怒りよりも、当惑を感じながら本を
持ってレジに行った。
「いらっしゃいませ」中年女性の店員がにこやかにあいさつした。「文庫にカバ
ーをおつけしますか?」
「いえ、いらないわ」
「ありがとうございます」
店員はバーコードリーダーで、本の価格を読みとった。
「480円になります」
祐子は財布を出した。あいにく千円札は一枚もない。やむなく1万円札を出す。
「一万円お預かりします」
「釣りはいいわ」祐子はぶっきらぼうに言った。
「はあ?」店員は、聞き間違えたか、というような顔で祐子を見た。
「お釣りはいらないわ。取っておいて」
「で、でも、それは困ります」
「とにかくいらないのよ」
「そう言われましても……」店員は困惑した。
祐子は苛々とつま先で床を蹴った。
「わかったわ。じゃあ、お釣りをちょうだい」
店員はほっとしたように、千円札9枚と硬貨を祐子に渡した。
祐子はそれをそのまま、レジの横にある募金箱にそっくり押し込んだ。「阪神
大震災の被災者救済にご協力を!あなたの暖かい心が、困っている被災者を救い
ます!」と書かれている。
店員は、感謝するどころか、変人でも見るような視線で祐子を見た。
祐子は本を取り上げると外に出た。振り返ってみなくても、店員の視線が自分
の背中に突き刺さっていることはわかっていた。