AWC お題>ノックの音がした(下)       青木無常


        
#4077/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  97/ 8/16  10:22  (105)
お題>ノックの音がした(下)       青木無常
★内容
 とじ忘れたカーテンのすきまから、しらみはじめた朝の色が無機質な室内になだ
れこむ。
 もうふるえることもせずにぼくは、ただベッドのなかにたおれこんだまま。
 目をとじても眠れないことはわかっていたから、だんだんと色彩をとりもどしは
じめる窓の外のちいさな世界へ、茫漠とした視線を投げかけていた。
 ときおりわずかに身じろぐ以外に、ぼくにできることはなかった。
 現実は遠く、ぼくにはもはやどうでもいい別世界のできごとのようにしか思えな
かったが、やがてそんなぼくにも新しい一日という現実は容赦なくおとずれ、追い
たてはじめるだろうこともわかっていた。どれだけ力つきていようとも、その日常
に追われて起きあがり、排泄し、たべ、そして喪失の旅を終えていつもの場所へと、
この重い肉体をひきずって帰還していかなければならないことも。
 それからぼくはけだるい夜明けをむかえ、彼女が目的地とさだめていた山間の湖
にたどりついてぼんやりと半日をすごしたあと、喧噪と日常があふれかえった都市
へと帰還した。ひとりの部屋へまっすぐ帰る気にはならず、かといって何もかもを
忘れ去るにはまるで力不足とわかっている酒にたよる気にもなれず、すくない荷物
を背に負ったままぼくは、駅裏の公園へと足をのばした。
 平日の夕暮れどきにもかかわらず、公園はにぎわっていた。家族づれ。アベック。
帰宅途中の学生。自転車にのってゆっくりと走りすぎていく女の子たち。よちよち
とおぼつかない足どりで若い母親にまつわりつく子どもたち。ベンチによりそう老
夫婦。
 すべてがひどく非現実的に感じられたまま。ぼくはぼんやりとベンチに腰をおと
して、揺れる水面に視線をさまよわせながら無意味な時間をすごし、やがて肩をお
として立ちあがる。
 原生林をそのまま残した公園を重い足どりでぬけ、ヒグラシのかなしげな鳴声を
背にひとりの部屋へとたどりついた。
 しらじらしい西日を扉のむこうにとじこめて、のろのろとした動作で靴をぬぎ、
そして立ちつくす。とほうに暮れたから。
 これからどうすればいいのだろう。
 こたえの見えない疑問がにぶく心裏の奥深くわきあがり、ぼくはぼんやりとただ
たたずむことしかできずにいた。
 そのときふいに、ぼくの背後からノックの音がした。
 ききなれた、ノックの音。
 ゆっくりと。きっぱりと。三度。
 彼女のノックだ。ぼくにはわかる。いつもかわらず、彼女はそうしてぼくに呼び
かけてきた。ゆっくりと。きっぱりと。三度。扉をひらけばいつも、彼女のはにか
んだような笑顔が「ただいま」と口にしてくれた。いつまでもそれがつづくと思っ
ていた。それがあたりまえのことなのだと。
 ぼくは立ちつくし――ながいあいだ、ふりかえることすらできずにいた。
 こわかったからじゃない。
 ふりかえり、扉をひらき、そこに彼女の笑顔が存在しないことに直面したくなか
ったからだ。喪失はいちどでも重すぎる。これ以上は、もうぼくには耐えられなか
った。
 だからぼくはそうして、そこに硬直したままながい時間をやりすごした。
 もう一度、ノックの音がくりかえされるのを待っていたのかもしれない。
 だけどそれっきり、彼女のノックはもう、二度とひびくことはなかった。
 ぼくは歯をくいしばりながらのろのろとふりかえり、あがりがまちに乱雑にほう
りだされたままのサンダルにふるえる足をつっこんで、ドアノブのロックをひねり
――
 そしてゆっくりと扉をひらく。
 流したような朱の色は街なみのむこうに消え入りかけ、紫から濃い青へ、そして
重い闇色へと急激なコントラストを描きだす。
 遠くからかすかにヒグラシの声。
 すぐ裏の高架橋を、中央線の列車がゆっくりと、東から西へと減速をかけながら
通りすぎていき、自転車のベルの音がどこか遠くのほうでちりちりと鳴いた。
 となりの部屋で、電話のベルが四度、そしてとぎれる。留守番電話が作動したの
だろう。人がいれば、たいてい二度でベルはとぎれる。
 彼女は、となりの住人の顔をよく知っていたらしい。ぼくは、たまに顔をあわせ
れば目をそらすようにしてあいさつをかわす程度にしかつきあいはなかったが、留
守電と人がいるときとのちがいに気づいたのはぼくのほうがはやかった。
 ふたたびおとずれた静寂の奥底からもういちど、郷愁をさそうヒグラシの声がぼ
くの耳へととどけられる。
 電車の振動。
 一方通行の道を、公園方面にむけて走りぬける自動車の、静かなエンジン音。
 汗にぬれた皮膚から、かすかに吹きすぎていった風がひかえめに体温を奪ってい
く。
 ぼくは目を伏せ、ため息をつく。
 扉の外には、そう、もちろん、だれもいるはずがない。
 ひどい脱力感におそわれながら、ぼくはのろのろとふたたび扉をとじて世界を背
後にしめだし、乱雑にちらかったままのひとりの部屋へとふみこんだ。
 荷物を力なくほうりだし、書きもの机の前にへたりこむ。
 そして気がついた。
 机の上にひかえめに投げだされた、あざやかな浅黄色に。
 ぼくは目をすがめ――そして、ぼうぜんと目を見はる。
 きのうの昼、おじさんに案内されてたどりついたあの場所で目にした浅黄色だっ
た。
 木漏れ陽のまだらのなかに、微風にゆられてかすかにふるえるあざやかな浅黄色。
 まるで手まねいているように見えた、あの浅黄色。
「あの花はなんですか?」
 あのとき、かたわらに所在なげに立つおじさんに、ぼくは気のぬけたような声音
でそう問いかけた。べつに花の種類に興味があったわけじゃない。ただ、ふと目に
ついたから何となく問いかけてみただけだった。
「ああ、あれはカガリソウだよ。ここらあたりにしか自生しない花でねえ。市の花
にも指定されてるんだ」
 重い沈黙がやぶられたことにほっとしたようにおじさんは、ききもしないことま
でぺらぺらとくりかえししゃべりはじめた。まるで堰が切れたみたいだな、とよく
動くおじさんの口もとをながめながら、ぼくはそんなことをぼんやりと考えていた
のをおぼえている。
 そのカガリソウが、ぼくの書きもの机の上に、ひっそりと、まるでおき忘れられ
たかのようにおかれているのだった。
 言葉がよみがえる。二年半前の言葉。
 花を一輪、あなたの部屋にとどけてあげる。それがわたしが帰った証。あなたが
いつも書きものをしてるあの机の上に、おいておくわ。
 ぼくはぼうぜんと、机の上に横たわる一輪の花をながめやった。
 言葉もなく。
 何も考えられないまま、あたりが深い闇につつまれてもののりんかくさえもさだ
かに区別がつかなくなるまで、そうしてぼくは花をながめつづけていた。
 やがて、手さぐりだけでその花を手にとる。
 奇妙にたよりない感覚。
 かすかな芳香。まぼろしにすぎなかったかもしれない。
 もう、闇は重くないような気がした。
 それもたんなる気のせいだったのだろう。
 だけどぼくはそうして、一輪の花を手にしたまま、声をたてて泣きはじめた。
 やさしげな雑音が遠く行き交う闇の底で、そうしてぼくはながいあいだただ、泣
きつづけていた。
                                 ――了




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