AWC 潮の匂い (1/4)     叙 朱


        
#4031/5495 長編
★タイトル (PRN     )  97/ 8/ 3  17:48  (180)
潮の匂い (1/4)     叙 朱
★内容

    潮の匂い           叙 朱

          1

「オールメン、ロウ(総員、漕ぎ)用意」
 コックス(操舵手)の柿山寛美の甲高い声が響く。照りつける太陽に体中汗ま
みれだ。「おう」と応えて、4人の漕ぎ手の若い体がしなやかに引き絞られる。
前傾姿勢をとり、オールを肩の先にまで突き出して静止する。舵付きナックルフ
ォア艇は、じりじりと照る太陽の下で穏やかな海面に凍りつく。ぎりぎりと、張
りつめた筋肉の音が聞こえそうな一瞬の静寂だった。
 柿山が行く手を定める。漕ぎ手4人は艇の進行方向には背を向けているので、
行く手の決定とコースの選定はコックスの役目だった。午前中に大村湾の入り口
の早岐水道辺りまで漕いでいる。それに、もうそろそろ昼飯も近い。柿山は岬の
先方にぽつりと見える小島をゴールに定めた。これで午前中の練習は終わりだ。
柿山は背筋を伸ばし、メガホンを口にあてた。
「ロウ(漕げ)!」
 柿山の声を合図に、漕ぎ手は一斉に足を力任せに蹴った。オールを胸元にたぐ
り寄せる。S高校漕艇部のナックルフォア艇は、海中に刺さったオールの動きに
合わせて、ぐいっと海面を滑り始めた。一度引き寄せたオールの柄は、胸元から
腹へと押し戻す。パドル(水掻き)が海面から跳ね上がり、空(くう)を駆ける。
すくい上げられた海水が夏の海にしぶきになって跳ね上がり、漕ぎ手の頭にも降
りかかる。
 漕ぎ始めのオールが一番重い。水面に停止した艇を動かすとき、水の粘さを意
識する。からみつく海面から艇底を引き剥がす具合で、最初のひと漕ぎは始まる
のだ。しかし、いったん艇が滑り始めると、もう海からの抵抗はわずかだった。
 漕ぎ手は計ったように同じタイミングで、オールを海面へ突き立て、海をすく
い上げ、水しぶきを飛ばす。ナックルフォア艇はぐんぐんと加速した。
 柿山のすぐ目の前は、「整調」の青鹿亮一だった。
 整調は、コックスの「ロウ、ロウ」というかけ声に合わせて、漕ぎのピッチを
一定にする役目を負う。他の3人の漕ぎ手、整調から座っている順番に、2番、
3番、そしてバウ(船首)は、整調のオールのピッチに合わせて漕ぐのだ。ナッ
クルフォア艇がもっとも効率よく速度を出すには、漕ぎ手4人のオールピッチが
ぴたりと合うことが、何にも増して肝要だった。そのため、整調には冷静さが要
求される。ナックルフォアのレースは距離2000メートルで争われるが、敵艇
と隣り合わせて漕いでいくので、どうしても隣の艇のピッチにつられる。まして
や、艇先で競っているときなどは頭に血がのぼり、コックスのかけ声が耳に入ら
なくなり、ピッチは上がる一方だ。ところが、2000メートルは長いし、漕ぎ
手4人のペース配分にも気を付けなければいけない。冷静な整調が要求される所
以(ゆえん)である。
 青鹿亮一は意志の強い男で、整調には向いていた。春の新人戦で、ゴール前5
0メートルでライバル艇を逆転できたのは、レース中に敵艇に僅かに遅れながら
もピッチを狂わせずに一定に保った青鹿の、正確なピッチコントロールに負うと
ころが大きい、と柿山は思っていた。
 S高校漕艇部のナックルフォア艇は、穏やかな西海の内海を快調に進んだ。ゴ
ールの小島はみるみるうちに近づいてくる。ピッチも正確だ。
「岬の先の小島を一回りしたら、昼休みにするぞ」
 柿山がメガホンで告げた。すると、整調の青鹿が漕ぐ手をゆるめずに応えた。
「ああ、あの小島には冷たい湧き水が出ているらしいぞ。ちょっと寄って、飲ん
でいこうぜ」
 2番の篠崎敏久も、真っ黒い顔をくしゃくしゃにして白い歯を見せた。
「そいつはいいや。喉がからからだ、寄っていこうぜ」
 3番とバウは聞こえなかったのか、何も言わない。このふたりは春の新人戦終
了後に新しく抜擢された下級生だった。遠慮しているのかもしれない。
 柿山は舵を右に向けた。ナックルフォア艇は、小島を左に見る形に進路が変わ
る。これで漕ぎ手4人も小島を視認できるようになった。

「ようし、ライトパドル(軽めの漕ぎ)」
 艇が想定ゴールラインの小島の脇まで来ると、柿山が声をかけた。「ふう」と
いう、溜息とも歓声ともつかない叫び声をあげて、漕ぎ手の動きが緩慢になった。
ピッチが落ちる。艇はゆっくりと減速した。
 小島はその名の通り、周囲100メートルほどの小さな岩島だった。10メー
トルくらいの頂には草木の茂みが見えるが、海面に対しては切り立った岩肌を見
せている。艇を接岸できそうな入江や砂浜は見当たらない。青鹿の言う湧き水の
所在も、海の上からでは確認できなかった。
 柿山の操舵で、ナックルフォア艇はゆっくりと小島をひと回りした。
「イージーオール(漕ぎ方やめ)」

 青鹿は汗に濡れた白いTシャツを脱ぎ捨て、青い海に身を躍らせた。反動で艇
がぐらりと大きく揺れる。すぐに海面に顔を出した青鹿は、見事に抜き手を切っ
て島へと泳ぎだした。
「シノ(篠崎)は行かないのか」
 すぐに後を追うと思っていた篠崎は、青鹿を目で追うだけで動こうとはしない。
整調の青鹿がいなくなり、柿山と篠崎が向かい合う形になっていた。真っ黒い日
焼けした顔に白い口もとが印象的だ。
「おれは2番だ。いつも整調に合わせて漕いでるんだ。整調の青(青鹿)が、ち
ゃんと見付けるまで待つよ」
 オールを膝まで引き上げながら笑った。

 波杵半島が西海を取り込むようにして囲い込んだ大村湾は、湾というよりも大
きな湖のように穏やかだ。外海との連絡は、細くくびれた水道があり、潮の干満
により大きな渦ができる。もちろん、華奢な作りのナックルフォア艇では、渦が
巻いているような水道は流れがはやすぎて危険なので、近寄らない。水道の手前
に幾つも連なる岬と入り江のうちのひとつ、沖新川の河口あたりが、S高校漕艇
部の練習水域だった。
 この沖新川が大村湾にそそぎこむあたりで川の両岸は、岬のように大村湾に向
かって突き出しており、岬の先の海に離れてぽつんと小島がある。真夏の青さの
西海の海面に、緑と茶の小さな島。そして、まるで流木のように不安定なナック
フォア艇が、島の近くに浮かんでいた。

 岩島にようやく青鹿は泳ぎついた。すぐに手ごろな岩を見定めると両手で取り
ついた。よじ登る。青鹿の細身のからだが、黒く光る岩をするすると登っていく。
岩の上までくると、青鹿は湧き水があるという洞穴を目で探した。岩の反対側に
は、意外にも少しばかりの砂地があった。
 ひんやりとした空気が頬に流れてきて、青鹿は洞穴を見付けることができた。
島の外側からは、今乗り越えたばかりの岩が、目隠しになっていて見つからない
ところに、ひっそりと暗い洞穴が口をあけていた。どうやら湧き水はその中に違
いない。
 青鹿は、無造作に岩から砂地に飛び降りた。洞穴の入り口に歩み寄る。快い涼
風は洞穴からだった。が、それ以外にも、かすかな物音が青柿の耳を捕らえた。
とぎれとぎれの旋律だった。細い女の歌声のように思えた。青鹿は洞穴の入り口
から、中を見透かそうとした。眩いばかりの夏の日差しから隔絶された洞穴の中
は、真っ暗やみで何も見えない。目を慣らすのに時間が必要だった。
 しばらくそうしていることで、ぼんやりと洞穴の中の輪郭が浮かんできた。左
前方に確かに水たまりのようなものが見える。どうやら、岩のすき間から地下水
が湧いているようだ。湧き水の甘い匂いに、青柿は喉をごくんと鳴らした。
 その湧き水の向こう。白いものがぼんやりと見えた。湧き水の脇に横たわるそ
れは、ゆっくりと動いている。青鹿はその正体を確かめようと、洞穴の中へとす
すんだ。
 白いものはゆっくりと上下動していた。やがて、それが人間の白い足先らしい
と思った瞬間、青鹿の気配に気づいたのか、白い人影が跳ね起きた。
「あっ」
 青鹿と人影が同時に声を上げた。
 青鹿の背から指す夏の光に浮かんだ人影は、着衣をつけない若い女の裸身だっ
た。
 それまで湧き水のそばに寝転がり、鼻歌でも歌っていたのだろう。青鹿と同じ
くらいの年頃の娘だった。その白い裸身に青鹿は声が出てこない。娘のほうも、
思わぬちん入者に驚いたのか、前のふくらみを隠そうともせず、立ち尽くしてい
る。二人が声を無くして向かい合っていたのは、ほんの何秒だったろうか。何分
だったろうか。
 先に我に戻ったのは青鹿のほうだった。
「あ、ごめんな」
 慌ててそう言うやいなや、くるりと身を翻して洞穴から走り出た。
「あ、待って...」
 と、娘が声をかけたような気がしたが、そのまま、目の前の岩を駆けのぼると、
勢いよく岩肌を滑り下り、海へと飛び込んだ。まるで怖いものから逃げ出す子供
のような按配だった。
「どうしたあ? 湧き水はあったのか?」
 海面に頭を出した青鹿に、篠崎が聞いたが、青鹿は頭を大きく振った。そして、
何も言わず艇に向かって泳ぎ出した。

          2

「なんだか無口ですね、先輩」
 珍しく他の部員からひとり離れたテーブルで、昼食のカレーライスをぱくつい
ている青鹿のところに、新入生の墨城恭司が近寄ってきた。合宿所の昼は、カレ
ーかラーメンしかない。近くの下宿屋でまとめて無理に作ってもらっていた。贅
沢は言えない。
「ここに座っても良いですか」
 墨城もカレーライスを乗せたトレイを持って、青鹿の前に座った。大きなスプ
ーンを手にするが、食べずに青鹿を見ている。青鹿が気になって墨城をちらっと
見た。話があるのか、と目線で尋ねる。墨城がうなずいた。
「先輩、ぼくも今日やっと、200メートルをクリアしましたよ」
 墨城は嬉しそうに言った。しかし青鹿の方は、なんだそんなことか、という顔
になった。
 S高校漕艇部には決まりがいくつかある。ナックルフォア艇に乗れる条件とし
て、200メートル以上を連続して泳げることはそのひとつだった。救命道具な
どをつけずに海上練習するためには、最低限の条件だった。したがって、新入生
が来るとまずこのテストをやる。そして、200メートル泳げた者だけが、晴れ
て漕艇クルーの候補となれたのだった。その一方で、200メートル泳げないも
のは、いくら艇に乗りたくても乗せてはもらえない。練習というと、せいぜいが
ローイングマシンを使っての単調な陸上トレーニングで、泳げない大抵の新入生
はこれで脱落してゆく。墨城も200メートルを泳げない新入生だった。
「先輩、今夜見てくれますか?」
 墨城が思い切ったように言った。コップの氷水を飲みかけていた青鹿の手が止
まった。
「何をだ?」
 氷をひとつだけ口に含むと、青鹿はコップを無造作にテーブルに戻した。こつ
んと案外大きな音がした。青鹿は苛立っていた。それは墨城に向かっていたわけ
ではなかったが、墨城はそのコップの音にうつむいてしまった。
「いえ、やっと200メートル泳げるようになったものですから、一度見てもら
えないかな、と思ったんですけど」
 語尾に力がない。青鹿の苛立ちに気づいたのだ。しかし、すがるようなうわ目
で青鹿を見ている。
「コーチには見せたんだろ。それで十分のはずなんだがな」
 青鹿は突き放した。
「はい、でも青鹿先輩に見てほしいんです。新入部員の歓迎会の時に言ったじゃ
ないですか。泳げるようになったら一度見てやると」
 ああ、そんなことを言ったかもしれない。はっきりとは思い出せないが、泳げ
ない新入生でもすぐ辞められては困る。青鹿は曖昧にうなづいた。
「そうだったな、分かった。それじゃあ、午後の練習が終わった後の晩飯前の空
き時間にしようか」
 墨城は明らかに嬉しそうな顔をした。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 何度か、頭を下げる。青鹿は食べ終わったカレー皿と空のコップを手にして立
ち上がった。墨城はカレーに全く手をつけていなかった。
「おい、分かったから、早くカレーを食え」
 墨城は猛烈な勢いで、カレーをかき込み始めた。

 (以下、つづく)




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