#4028/5495 長編
★タイトル (PRN ) 97/ 8/ 3 10: 3 (189)
黒い森を抜けて(1/3) 叙 朱
★内容
黒い森を抜けて 叙 朱
1
懸念していたとおり雨模様になった。ワイパーのスイッチを入れる。風も強い。
こんな日に納品とはついてない。竹中章一はいらつきながら車のハンドルを切っ
た。金曜日の環状8号線は珍しく空いていたが、そのことは竹中の憂鬱さを軽減
はしてくれなかった。明日からは3連休だ。明朝、家族で長野のペンションに向
けて出発する予定だった。だいたい6時間くらいのドライブだ。できれば早く帰
ってひと休みしてから出かけたい。しかし、この急な納品で遅くなりそうだった。
納品先は東名高速道路横浜インターのすぐ近くだった。納品してそのまま自宅へ
帰れるように、商品は自分の通勤車に積んできた。
東京インターから予定通りに東名高速道路に乗った。下り車線は空いていた。
急ぐ気持ちがアクセルを踏み込ませる。車はあっという間に制限速度をはるかに
超えた。追越し車線に入り、次々と大型トラックを追い越してゆく。雨はますま
す強くなってきた。これではせっかくの家族旅行も天気が怪しい。日頃、子供と
ゆっくりできない竹中はこの旅行を楽しみにしていた。家族揃っての2泊3日の
ささやかなものだが、竹中家の年中行事になっている。特に幼稚園に通い始めた
ばかりの娘、由実がはしゃいでいた。
竹中の前を1台の中型トラックが走っていた。幌をなびかせながら、3車線の
真ん中を走っていた。さっきからずっと左手前に見えているということは、竹中
と同じくらいの速度のようだった。竹中はそのトラックにいやな感じがした。と
いうのは、追越し車線を走る竹中と違い、その中型トラックは前方の大型トラッ
クを路肩側の走行車線から追い抜いてゆくのだ。強い風の中、中型トラックは頻
繁にハンドルを切り、幌をいっそう風にはためかせながら、強引に大型トラック
を左側から追い抜いてゆく。
「危ないなあ」思わずつぶやきながら、竹中はどうするか迷った。中型トラック
の近くを走りたくなかった。そのためには減速して中型トラックを先にやってし
まうか、スピードを上げて、抜き去ってしまうかのどちらかだった。どっちにし
ても気が進まなかった。
風になびく幌の中身は、にぶい灰色の長細い鋼材のようだった。幌をかけてそ
の上から紐掛けして固定してあるらしい。しかし、その幌が風に激しくはためい
ていた。あんなにばたばたと幌が風に泳ぐということは、掛けてある紐が緩んで
きているかもしれない。と、竹中が思った時に、問題の中型トラックが大きく追
越し車線のほうに、はみ出してきた。竹中の車のすぐ前だった。
「危ない!」と叫びながら、竹中はアクセルから足を離した。ここで急ブレーキ
や急ハンドルはできない。雨とスピードがそれを許さなかった。幸いにも、竹中
の車はスピードが鈍り、結果として中型トラックとの間には少し余裕ができた。
竹中は小さくため息をついた。
しかし、次の瞬間、竹中の目の前で信じられない光景が展開した。幌が一際大
きくばたついたかと思うと、トラックの荷台から、ネズミ色の鋼材がばらばらと
道路に落下したのだ。最初の何本かは、中央分離帯へと跳ね飛んだ。しかし、さ
らにたくさんの鋼材がばらけ落ち、道路で跳ねて竹中の車のフロントガラスを直
撃した。
それらの鋼材の動きは、竹中の目にはまるで、スローモーションのビデオのよ
うに写った。道路から跳ね上がった鋼材がゆっくりと竹中の車を目指して殺到し
た。フロントガラスが粉々に飛び散り、竹中の視界は鋼材でいっぱいになった。
そして激しい衝撃と共に、竹中の意識が消えた。
2
ずっと暗くて長い穴のような所にいた。これという感情も感慨も湧いてこず、
じっとうずくまったまま自意識もなく、ゆーらゆーら漂っていたような気がする。
どこかへ行きたいとも思わず、どこに在るかも疑わず、いやそもそも「何処にい
たのか」という実感もない。強いて言うなら、ごく小さな点のような存在だった
のだろう。頼りないのだけど、安心している? そんな自問が交錯して初めて、
白い光を意識した。光は満ち、引き、再び満ちて、やがてちくちくとした痛みに
変わった。
「目を覚ますのよ」
誰かが呼びかける。応えるように、体全体がぴくんと反応した。どくん。動き
始めるものがある。どくん、どくん、どくん。
「さあ、飛ばなくっちゃ」
確かに誰かが呼んでいる。自分を呼んでいる。白い光はだんだん強くなり、思
考いっぱいに溢れて、こぼれて、変態して、身体の奥の一点に向かって、奔流と
なって走る。急に激しい感情の塊が生まれ、跳ね回る。体を弓なりに反らせる。
何かを突き破る。声帯を絞り上げて、叫ぶ。うおおおお。
「やっと目が覚めたみたいね」
急に視界が開けて眩しい。目の前に何かがいた。緑色の複眼をきらきらさせて、
覗き込んでいる。目が合う。
「間抜けな顔をしないでよ、ジチ」
薄赤色の長くて細い体をしている。
「ジチ?」
初めての声はまだ、掠れていた。
「そうよ。あなたはジチ。私はリナ」
長細い体を少しだけ震わせて、リナはそう宣言した。そうか、自分はジチなん
だ。新しい情報が自意識の中に収納される。
「起きがけで悪いんだけど、ちょっと一緒に来てくれない。オキナたちが待って
いるわ」
リナはくるりと器用に長い体を折り畳んで、後ろ向きになった。ジチ(だろう
か?)は、リナに従いながら、周りを見回した。
そこは深い緑色の森だった。地面は緑色、森の木立も緑色、通り抜ける風さえ
も緑色に染まっているかのようだった。
リナは半身を宙に上げ、ジチを複眼の視界の隅に留めて、森の中を突っ切って
いった。ジチはのろのろとついて行く。どことなく不自由だ。違和感もある。
「見てごらんなさいよ」
リナに言われて初めて振り返ると、そこには黒くて円筒形のものが横たわって
いた。今さっき、ジチが出てきた抜け殻だった。
「ジチの蛹(さなぎ)ね。第一変態を完了したのよ」
リナの言葉の意味は分からない。しかし分からないままに、これも自意識の中
に吸い込まれる。第一変態完了か。
「オキナって誰なんだ」
リナの後について進みながらジチは尋ねた。リナは振り返らずに答える。
「あたし達とは違う生き物。祖先かもしれないわ」
「違う生き物? どういうこと」
「アタシもよくは知らないわ。とにかくアタシが目を覚ましたときには、もうそ
こに立って、私をじーっと覗き込んでいた」
「ふーん」
「アタシやジチには無いものを持っているわ」
「なに?」
「例えば、空を飛べるわ」
リナは喋りながら森を抜け出た。森の中と同じ緑色の地面が続いていた。その
向こうに小高く盛り上がったところがある。リナは、その小高い丘を目指してい
た。
オキナたちは丘のふもとで待っていた。
最初は黒っぽい塊にしか見えなかったが、近づくにつれて、それが黒い小さな
粒粒の集まりだと分かった。
「ああして、いつもオキナたちは集まって話し合ってるらしいわ」
相変わらず前を向いたまま、リナはジチに話しかけた。
オキナたちは近づいてくるふたりに気づいたようだった。静かに整列していた
黒い粒粒が、にわかに乱れた。よくよく見ると、黒い粒粒のひとつひとつが、特
徴的な形をしていた。そして長くて細いヒゲを一様に震わせている。
「ジチが目を覚ましたわ」
リナがオキナたちに向かって報告した。オキナたちは、無言でジチを見つめて
いる。リナが立ち止まったので、ジチはリナの横まで来て止まった。
「飛べるか」
ひとりのオキナが呟いた。
「飛べるか」
すぐにもうひとりのオキナが続く。問いかけながらオキナたちは激しく動き始
めた。
「飛べるか、飛べるか、飛べるか」
オキナたちの声は、ジチの身体の奥にまで響いてきた。ジチの身体の奥でさざ
波が湧いた。さざ波は重なり打ち消し合い、やがてひとつの大きなうねりになっ
た。うねりはゆっくりとジチを突き上げた。
しかし、ジチはその大きな波に乗り損ねてしまったようだった。波は急速に引
いていった。気配に気づいてオキナたちが落胆した。
「飛べんのか」
語尾が小さくなってゆく。すると、オキナたちの姿はみるみる霞んできて、や
がて緑の岩肌に染み込むように消えてしまった。
「残念でした。オキナたちの望み通りにはなれなかったようね」
茫然とオキナたちが消えたあたりを凝視していたジチに、リナが笑いかけた。
「どういうこと?」
ジチにはわけが分からない。オキナとは何だ。いきなり「飛べるか」と聞かれ
たけど、飛ぶってどういうことなんだ。
「オキナたちは焦っているのよ。早いところ、飛べる誰かを見つけて黒い森まで
行かせたいらしいわ。そうでなければここはもうすぐ無くなってしまう、という
ことね」
リナの話はジチの理解をはるかに超えていた。
「黒い森?」
やっとそれだけ聞けた。
「そう、あの丘の向こうにあるらしいわ。誰か、たぶんアタシかジチ、あなたか
のどちらかが自力でこの丘をのぼっていって、黒い森まで飛びたつのをオキナた
ちは待っているのよ」
「黒い森になにがあるんだ? どうして僕らを待っているんだ。そんなに大事な
ことなら、オキナたちが自分たちで行けばいいじゃないか」
ジチの思考の底から次々と疑問が湧いてくる。分からないことだらけだった。
そしてそうした疑問の背景に、つかみどころのない不思議な感情がくすぶってい
た。
なぜ、自分はここにいるのだろう。自分はなにをするのだろう。
そうした疑問が、意識の奥に知らないうちに溜まっていた。何か大切なものを
忘れているような気分がしてならない。
ジチは突然空腹を覚えた。
3
「意識も刺激反応もありません。覚醒せず、痛み刺激に対しても反応しないレベ
ル300です。瞳孔は散大、左5ミリ、右6ミリ。対光反射も全くありません。」
「心拍、呼吸はどうだ」
「心拍はあります。呼吸も弱いですが認めます」
「人工呼吸器をセットしてくれ。呼吸の確保だ。気管内挿管してくれ」
「了解」
「外傷は?」
「上頭部、側頭部に打撲、陥没、外出血、耳からも出血中」
「どうしてこんな外傷なんだ、普通の交通事故じゃないな」
「運転中に前のトラックから鋼材が落ちて、それがフロントガラスを割って飛び
込んで
きたらしいんです」
「それはひどいな。輸血が必要かな。それよりも頭部のCTスキャンをやろう。
脳内の出血や脳の損傷を見たい。致命傷だからな。すぐに頼む。呼吸はまだある
んだろうな」
「あります。あ、体温がどんどん上がっています。37度を越えました。心拍も
下がっ
てます。」
「分かった。CT行くぞ」
「はい。準備オーケーです」
「熱はまずいな。脳の温度が上がるとまずい。せっかく助かっても、脳細胞が死
んじまったら元も子も無いぞ。脳温に注意してくれ。意識はどうだ」
「ありません」
「CTの結果で頭を開けるかどうか決める。待機させてくれ」
「連絡を入れました。10分でスタンバイします」
「うーん、こりゃあ、開けなきゃだめだな。CTは内出血で真っ黒だ。これは助
かるのは難しいかもしれん」
「オペ準備できました」
「オーライ。さあ行こう。脳挫傷の場合は、いかに素早く脳内出血を止めて、損
傷の進行を止めるかが勝負だぞ」
「はい」
(以下続く)