#3923/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/ 6/13 23:19 (197)
【OBORO】 =第2幕・会者定離=(12) 悠歩
★内容
マンションのほぼ真正面に建った雑居ビル。
ほとんど使われていないビルの屋上に、女が一人立ち、マンションを眺めてい
た。
師岡麗菜。
双眼鏡など必要はない。肉眼のままでも、麗菜には田邊の部屋での一部始終を
はっきりと捉える事が出来た。
「始まったわ、兄さま」
「ああ」
麗菜に応える男の声。しかし麗菜が兄と呼ぶ男の姿は、どこにもない。
「あの田邊とかいう、イカレ野郎………ずいぶん時間を掛けてくれたけど、これ
で優一郎くんとやらの力のほどが見られるわ」
「ああ」
さして興味なさそうに、姿無き兄が応える。
「ふふっ、兄さまはあまり興味がないみたいね」
「いや、そうでもないが………あの子が、来たようなんでな」
「ええ、分かっているわ。場合によっては………いえ、たぶんやり合う事になる
でしょうね」
「……………」
「兄さまは、手を出さなくていいわ。辛いでしょうから。私一人で、けりをつけ
ます」
「いや、大丈夫だ………お前一人に、押し付ける事は出来ん」
「ありがとう、兄さま」
そして麗菜はゆっくりと、後ろを振り返る。そしてそこに立っていた者へ、笑
顔を見せた。
「お久しぶりね」
まるで旧知の友に挨拶をするかのような、穏やかな声が麗菜の口からこぼれる。
「あなた………まさか! れい………な、なの?」
そこにいた女性、麗花は驚きの声を上げた。
麗菜はこくんと頷いた。
「あの時、私はまだ五つだったから。十五年ぶりね」
静かな声で麗菜は言った。
そして自分と同じ顔を持つ女性、朧月麗花を見つめる。
麗花は驚きから喜び、喜びから悲しみ、そして何かを決意した表情へと、短時
間で移り変わる。
「あの田邊という男から、覚えのある匂いがした………けれどまさか、まさか本
当に麗菜、あなたが関係していたなんて………」
「皮肉なものね。十五年振り、涙の再開シーンになるはずが、互いに敵同士とし
てじゃ、抱き合って感激してる場合じゃないものね」
「どうして………麗菜だって、私と同じ朧の血を引く者でしょう? それがどう
して」
「やめてよ、朧なんて忌まわしい」
麗菜は嫌悪感を露に、麗花を睨み付けた。
「麗菜………」
「まだ気づかないの? 何が朧の血よ、それが私たちをどれだけ苦しめたか……
…ご覧なさいよ、あなただって朧の力のため、身体をボロボロにしてるじゃない」
麗花は身体の状態が悪いのを堪え、必死に立っていたようだが、麗菜にははっ
きりと分かっていた。
「あなた………と、呼ぶの? 私を」
寂しそうな麗花。
「あら、いけなかったかしら。あの日から、私たちは他人になったのよ。朧月の
おじいさんに手をひかれて行くあなたの背中を見ながら、私がどんな想いだった
か………分かる?」
「麗菜、それは私も同じよ」
「ふふっ、本当なら嬉しいわ。それなら、昔のように呼びましょうか………麗花
姉さま」
一瞬の迷いもなかった。
優一郎は間髪を入れず、田邊の後を追いマンションの11階からダイブを試み
る。
まともな判断力が、毛の先ほどでもあれば決して出来る事ではない。或いは自
ら死を望む者でなければ出来る事ではない。
しかし優一郎は、興奮してはいたが判断力を欠いていたのではない。死を望ん
でいた訳でもない。田邊の言うところの、「遺伝子の記憶」だろうか。自分はこ
の高さから飛び降りても、死なない。確信があった。
普通に考えれば「遺伝子の記憶」という言葉自体、実にあやふやなものだ。自
分の前世は異世界の戦士だった。いま、この世界が危機に陥り、それを救うため
に転生したのだと思い込んでいる輩と大差ないようでもある。
だが事実優一郎は昨夜、意識のはっきりしない状態ではあったが、二匹の化け
物を倒している。そして先程は、力を使い田邊の罠を破っている。それがあやふ
やであるはずの「遺伝子の記憶」に、説得力を持たせていた。
それが単に優一郎の思い違いなのか、答えは数秒と掛からず出るはずだ。
等加速度運動で自由落下しながら、優一郎は冷静だった。自らの身体が切り裂
いて行く空気の激しい音を聞きながら、自分が着地すべき点を的確に視線の中に
捉えていた。先に飛び降りた田邊の位置も、把握出来る。
マンション下のアスファルトまで、あと10メートル足らず。通常なら瞬きす
る間も無い距離で冷静に、しかも素早く、力の噴出を行う。噴出された力は、霧
状の光となり瞬時に優一郎を覆いつくす。
物理的には、自由落下の勢いのままアスファルトに激突しその生命活動を終え
るはずの優一郎の身体。それがすれすれのところで、羽毛のように軽くなり、静
かにアスファルト上に降り立った。
「やるじゃないか、優一郎」
さして感心した様子もなく、優一郎を待ち受けていた田邊が言った。優一郎が
無事降り立つことは、予想していたのだろう。田邊は、意識を失った真月の身体
を楯にするようにして抱いている。
「ふん、貴様如きに後れをとるかよ」
十一人もの人間をさらった田邊と比べれば、優一郎の実戦経験は少ない。ただ
の喧嘩の数なら負けはしないが、言葉通りに命の掛かった戦いは、昨日に続いて
ようやく二度目だ。しかも、昨夜の戦いは殆ど無意識状態で、よく覚えてはいな
い。美鳥の言を借りれば、目覚めたばかりの力に振り回されていた。
だが田邊とて、ほとんど抵抗らしい抵抗の出来ない人間ばかりをいたぶって来
ただけ。子どもが無抵抗の虫の羽や脚やむしり取って喜んでいるようなものだ。
対等の力を持つ相手との戦いは未経験だろう。ならば条件は五分、いや人質を取
られている分、やはり優一郎が不利か。
「相変わらず、強気だねぇ。君のそういうところが、大嫌いさ………けどねぇ、
こっちには人質がいるんだよ」
田邊の台詞は優一郎の心を見透かして、というより常に自分の有利な点を主張
していなければ気の済まない性格故だろう。
「貴様らしいな、田邊よ。自分より弱い者をいたぶり、強い者が現れればそれを
楯に取る。卑劣って言葉は、貴様のためにあるようなものだな」
優一郎は田邊を興奮させようとして、わざと怒りを誘うような言葉を吐く。ま
ともにぶつかっても負ける気はしないが、そうなれば真月まで傷つけてしまうだ
ろう。なんとか隙をつき、真月を救い出さなければ。
「ふふん、ぼくを興奮させるつもりだろうが、見え透いてるよ。こう言うシチュ
エーションはアニメでずいぶん観てるからねぇ。それに君は一つ勘違いをしてる。
人質がいなくても、有利なのはぼくのほうさ」
「自信家だな。根拠も無いくせに」
「さて、どうかな? 君は特別強い朧の力を持っているみたいだけど………もう
一つの【日龍】とやらもか。けど、完全体じゃない。だからぼくには勝てない。
まあいまのうちなら、人質を犠牲にすれば僅かにチャンスはあるかも知れないけ
どねぇ。ヒーロー役としては出来ないよねぇ」
完全体、先程も田邊が口にしていたが、優一郎にはその意味が分からない。
「見せてやるよ、完全体としてのぼくの力を」
田邊の身体から、どす黒い煙が立ち昇る。急激に周囲の空気が濁り始めたよう
な気がした。
めき。
骨の軋む音。
他に音を立てる者の無い、夜間の路上でやけに大きく響き渡る。
田邊の手が、脚が。頭が、胸が、不細工に膨れ出す。
纏っていた服やズボンが、引きちぎれ田邊身体から離れて行く。
映画の中の狼男のように、全身の体毛が太く濃く変わって行く。
SFXを観ているようだ。
しかしそれは、優一郎の目の前で、現実に起こっている。
「きゃっ!」
「こ、これは………」
マンションの玄関の方から声がする。美鳥と音風が優一郎たちを追って、降り
て来たところだった。
「これで、君の勝ち目は無くなった」
一瞬のうちに倍に膨れ上がった、元は田邊であったものが言う。声帯も変化し
たのだろう。田邊の声は更に不快に、聞き取りにくいものに変わっている。だが、
優一郎の戦った化け物と違い、その発音はしっかりとしている。
いま優一郎の前にいる者の姿に、田邊の面影は無い。あるとしたら、それは歪
んだ心だけかも知れない。
田邊の姿は巨大な猿、ヒヒを思い起こさせる。眉間に栄えた二本の短い角が、
その顔立ちを一層醜く見せている。長く太い腕と短い足。背中は極端に湾曲して
おり、全身は黒い剛毛に覆われている。
ついに田邊は、心は疎か肉体までもが人間ではなくなった。
だん、とアスファルトを蹴り、田邊の巨躯が宙に舞う。真っ直ぐに優一郎を目
指し。
優一郎をそれを迎え打つべく、刀を斜めに構えた。刀を振るい、昨夜化け物を
倒した光の軌道を田邊にぶつけようとしたのだ。だが、田邊は左腕に抱えた真月
の身体を、真正面に突き出す。
「ちいっ!」
優一郎は迎撃を諦め、横へ飛び退いて攻撃を避けようとする。が、それも田邊
の長い腕の前では射程距離内だった。優一郎の顔めがけ、黒い腕が横から飛んで
くる。
間一髪、刀を立ててそれを防ぐ。
田邊の腕は、まともに刀身へとぶち当たる。しかしその腕に傷が付く事は無かっ
た。
力の具象化である光の刀は、まるでガラス細工の用に、いとも簡単に砕け散る。
そしてその勢いのまま、田邊の腕が優一郎の顔面を捉えた。
即死しなかったのは、奇跡と言っていいかも知れない。力の流れる方向へ、身
体を退いたのが幸いだった。
それでも全く無事でいられるはずもない。顔面を叩かれた優一郎は、そのまま
横へ飛ばされアスファルトの上を数メートル滑っていく。強烈な摩擦が服を破り、
肉を削ぐ。
「ぐっ………」
致命傷こそは避けられたが、優一郎は無数の傷を負ってしまった。ふらふらと
立ち上がった足下に、網の目状に滲んだ血が一本にまとまり、流れ落ちる。
「くそっ」
優一郎は構えを取り、再び光の刀を創る。しかし肉体的に受けたダメージの影
響か、出現した光は弱々しい。
「ふん、一撃目で死ななかったのは、たいしたものだけど………次はどうかな?」
ヒヒの口元がぐにゃりと歪む。笑ったらしいが、優一郎にはひきつけを起こし
たようにしか見えなかった。
「貴様はアニメ・マニアのくせに、知らないのか………ヒーローは、必ず初めは
劣勢なのが常識だろう」
強がりを言ってはみたが、優一郎にこの状況を逆転させる手がある訳ではなかっ
た。ヒヒの姿となった田邊は強い。昨日の化け物たちに対しては、絶対的な武器
だった刀が、まるで歯が立たない。真月が人質となっていなくても、優一郎の不
利は変わらなかっただろう。
「それが最期の言葉かい? 覚えておくよ。さて、女の子と遊ぶ時間が無くなる
んでねぇ、さっさと終わらせてもらうよ」
ヒヒが優一郎に歩み寄ろうとした時。
一筋の光が、ヒヒの左側を襲撃する。手足に光を帯びた美鳥だった。
真月を拘束する腕を攻撃し、妹を救い出すつもりらしい。
美鳥の動きは、正に弾丸のような素早さだった。だが、それ以上の素早さで田
邊であったヒヒは対応する。
真月を握ったまま、美鳥を払い除けようと腕を振るったのだ。
「きゃっ!」
悲鳴だけを残し、バットで打ち返された白球のように、美鳥の身体は弾け飛ぶ。
アスファルトに叩き付けられる直前、美鳥が身を丸めるのが見えた。そのままし
ばらく転がって倒れた美鳥に、音風が駆け寄る。
「姉さん!」
「心配ないよ………」
答えたのは美鳥でなく、田邊だった。
「手加減したから死んではいないはずさ。骨の数本は折れたかも知れないけど…
……セックスには影響ないさ」
そしてまた田邊は、優一郎へと歩を進める。
『これまでか』
優一郎は覚悟を決めていた。肉体的には遥かに強靭で、朧とやらの力も全く通
用しない相手に、もう手はない。だがこのまま、田邊の手に掛かり無駄に死ねば、
真月を始め美鳥や音風、そしておそらくは麗花も辛い仕打ちを受けるのは間違い
ない。