#3908/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/ 6/ 9 5:24 (168)
代償 第一部 14 リーベルG
★内容
14
約束通り、美奈代は登校した。
昨夜はほとんど眠れなかった。夜中に三度もシャワーを浴びたせいもあった。
さすがに放任主義の母親も心配そうな目で見ていた。いずれ何か言って来るだろ
うが、美奈代は口が裂けても話すつもりはない。大抵の高校生はレイプされたこ
とを友だちには話しても、両親には話さないものだ。
ひょっとして、あのヤクザたちを目にするのではないかと、校門に近づくにつ
れて歩みがのろくなったが、ほっとしたことに忌まわしい姿が目に入ることはな
かった。
教室に入るにはさらに勇気が必要だった。美奈代はつとめて平静を装うとドア
を開けた。
「おはよう」
「おはよー」
「藤澤、おーす」
何人かがあいさつを返してくれる。昨日のように、囁きながら美奈代を盗み見
ているクラスメイトもいるが、大部分は別の話題で忙しそうだった。
席につくと、時田あゆみが声をかけてきた。
「おはよ、藤澤」
「おはよう」
「昨日、掃除当番さぼったでしょ」
「あー、ごめん」美奈代は妙に嬉しくなって、必要以上にはしゃいだ声を出した。
「ちょっち、身体の調子が」
「とかなんとかいって。デートだったんじゃないの?」
「なーに言ってんのよ、ばーか」
さらに何人かが、話しかけてきた。美奈代を特別扱いしている様子はみられな
い。
これで大丈夫だ。まだ、すっかり安心したわけではないが、美奈代はそう思っ
た。やっぱり、先生の言ったとおり、学校に来てよかった。後はあたしが忘れる
だけなんだ。
三時限目は数学だった。休んでいる間に2回授業があり、美奈代は遅れを取り
戻そうと、授業に集中していた。数式に没頭している間は、あの悪夢のようなで
きごとを忘れていられる、という理由でもあった。
残り20分足らずになったときだった。
不意にけたたましい音が、学校中に鳴り響いた。教師も生徒たちも、一様に驚
きの表情を浮かべて顔を上げた。非常ベルの音だった。
「な、なに?」あゆみがうろたえて叫んだ。「か、火事?」
生徒たちはざわめいた。
数学の教師も、生徒たちに負けないぐらい動揺していた。避難訓練の予定はな
いし、抜き打ちで訓練をやるはずがない。
「みんな、落ち着きなさい」教師は落ち着きのない声で叫んだ。「すぐに止まる
かもしれないから……」
教師の声にかぶせるように、放送が入った。
『火災報知器が作動しました』事務職員の声だった。ややうわずっている。『念
のため、校舎の中にいる生徒は、校庭に避難してください。繰り返します。生徒
は校庭に避難してください。先生方は、避難の誘導をお願いします。火や煙は見
えていませんので、慌てないように』
「よ、よし。全員起立」教師は具体的な指示を与えることができたせいか、落ち
着きを取り戻した。「上履きのまま、校庭に移動しろ。慌てないように。カバン
や荷物は持っていくな。順番に、非常階段から降りるんだ」
生徒たちは、半信半疑ながらも席を立つと、非常階段の方へ歩き始めた。
美奈代も驚いたが、内心ではかすかな喜びを感じてもいた。こんな事件があれ
ば、美奈代の噂への関心がそれるのではないか、と思ったのだ。いっそ、本当に
火事になればいいのに、などとも考えたりもした。
教室が高い階にあるため、校庭に出たのは三年生の各クラスが最後だった。生
徒たちは、クラスごとに固まり、校舎の方を見ている。美奈代もそれにならった
が、校舎はいつものとおり、無表情な灰色の壁を生徒たちに向けて立っていた。
一筋の煙すら上がってはいない。
「やっぱ、誰かのいたずらかね」隣に立っていたあゆみが言った。
「じゃないの」美奈代は答えた。「ま、でも、授業さぼれてラッキーだったね」
「そーね。あ、消防車だ」
その言葉通り、消防車のサイレンの音が、星南高校に近づいてくる。
「午前中の授業は中止かもね」
「四限、西田の地理だもん。ラッキーじゃん」
校内を調べていたらしい何人かの教師が出てきた。美奈代は由希がその中にい
るのを見た。
消防官が、固まっている教師たちの輪に加わり、何やら言葉を交わした。まも
なく、二、三人の消防官と二人ほどの教師が校内に戻っていった。それを見届け
た二年の学年主任が朝礼台に上がると、ハンドマイクで話し始めた。
「あー、みなさん。校内を調べた結果、火災報知器が鳴ったのは、機械の故障か
何かだったようです。今、消防署の方たちが、念のために校内を調べています。
調べ終わるまで、グラウンドで待っていてください。校門から外へは出ないよう
に。担任の指示に従ってください」
生徒たちは一気に緊張を解いて、がやがやとおしゃべりを始めた。中にはあか
らさまに、火事が起きなかったことを残念がる者もいる。
「なんだったんだろうねえ」
「ほんと」
あゆみの言葉に頷いた美奈代は、由希の姿を目で追っていた。由希は他の数人
の教師と一緒に、校舎の方に戻っていくようだった。
「お弁当、どうなるのかなあ」
美奈代は答えようと、あゆみの方を振り向き……急激に身体を強ばらせた。
校門の前に三人の男が立っていた。
少し遠いが、顔が見えないほどではなかった。美奈代は顔から血の気が引いて
いくのを感じた。
くらっと視界がぼやけた。
「藤澤?」あゆみのいぶかしげな声が聞こえる。「どうかした?」
美奈代は悲鳴をあげそうになるのを、懸命にこらえた。ふらつく足元を、なん
とか踏みしめると、他のことに気を取られていたような顔であゆみに向き直った。
「え?なに?」
心臓は激しく高鳴っていたし、声も少し震えていたが、あゆみは気がつかなか
ったようあった。
「もう。昼間から寝ぼけないでよね」
「あ、ごめんごめん。もう、お腹空いちゃって」
「朝、食べてこなかったんでしょう」
「ああ、うん。実はそうなんだ」
「ったく……」
何も知らないあゆみのおしゃべりに、適当に相づちを打ちながら、美奈代はあ
りったけの勇気を総動員して、もう一度校門の方を見た。そこにはすでに、あの
三人の男たちの姿はなく、集まってきた近所の野次馬がうろうろしているだけだ
った。
結局、生徒たちが教室に戻れたのは、あと10分で昼休みになるという時間だ
った。当然、四時限めの授業は中止である。ただし、年間の授業時間数は決めら
れているから、中止となった授業は、来週の月曜日の放課後に、臨時に時間を設
けて行われることになった。生徒たちは不満の声を上げながら、教室に戻った。
「あーあ。放課後に補習なんて」あゆみは文句を言い続けた。「全く、はた迷惑
だわ」
美奈代は適当に相づちを打ちながら、机の上に出しっぱなしになっていた数学
の教科書とノートをまとめた。机の中に入れようとしたとき、下敷きの下に一枚
の紙がはさまっているのに気付いた。
首をかしげながら指でつまんで裏返した。とたんに、美奈代は激しいショック
を受けて呼吸を止めた。
標準サイズのカラー写真だった。写っているのは、両手両脚を大きく広げてベ
ッドに寝ている全裸の美奈代だった。顔は横を向いているが、美奈代であること
は、はっきりとわかる。
嘔吐がこみあげてきた。美奈代は写真を握りしめポケットに突っ込むと、下を
向いて口を押さえた。心臓が破れそうなほど、激しく脈打っている。
「藤澤、大丈夫?」
あゆみが驚いたように声をかけてきたが、美奈代は答えるどころではなかった。
「ちょっと、藤澤。先生、呼んでこようか?」
美奈代は由希の言葉を想い出した。これでは、また噂の種をまき散らしている
ようなものだ。何度も生唾を呑み込むようにして、ようやくこみあげてくるもの
を押し戻した美奈代は、顔を上げてあゆみに言った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとお腹がね」
「あの日?」
「うん。まあ」事実ではなかったが、他にうまい説明が見つからなかった。「ち
ょっとずれこんだから」
「いつも、そんなにひどかったっけ?」
「ああ、うん、たまにね」
美奈代は何とか笑って見せた。そのときチャイムが鳴って、昼休みを告げた。
弁当は、いつもそうしていたように、教室であゆみと食べた。食欲がなく、何
を口にしても紙と砂を食べているようだった。それでも美奈代は、何とか弁当箱
を空にした。普通にしていなくては。それだけを考えていた。他のこと----たと
えば写真をノートにはさんだのは誰なのか、とか----は極力考えまいとしていた。
教室内では、そうそうに弁当をたいらげた何人かの男子たちが、隅の方に固ま
って何かを見ていた。時々、卑猥な笑い声や、おーすげえ、といった叫びが上が
る。グラビアばかりの雑誌を見ているようだった。
あゆみが、しきりにそちらを気にしていることを、自分のことばかり考えてい
た美奈代も、しばらくしてからだが知った。不思議なのは、いつもなら「やーね、
すけべどもが」といった軽蔑の言葉を吐くあゆみが、今日に限っては何も言わな
いことだった。やがて、美奈代は、あゆみの注意が男子たちだけでなく、同じぐ
らいの回数で自分にも向けられていることに気付いた。
「あ、あゆみ」美奈代はさりげなく訊いた。「あんたも見たいの?」
「え?」あゆみはびくっと振り向いた。「な、なに?」
「やけに、あっちが気になるみたいじゃない」
「そんなことないよ」
固まっている男子たちが、ひときわ大きな声をあげた。
「おー!」
「きくー!」
「これ、すげえじゃん」
「ほとんど見えてるよ」
さすがにあゆみも、鼻を鳴らした。
「ばっかじゃないの、あいつら」
そのとき、興奮したらしい男子の一人が、つい口を滑らせた。
「でもよ、藤澤のあれなんか、もっと……」
美奈代は凍りついた。
「ばか、てめえ!」
隣にいたクラスメイトが怒鳴り、その男子は、はっと気付いて口をつぐんだ。
周囲の男子が、さっと美奈代を見て、すぐに目をそらす。
一瞬、教室が静まりかえった。全ての目が、美奈代に集中した。
視線はすぐにそらされ、会話が再開した。だが、その短い瞬間は、美奈代にと
っては永劫にも等しかった。
「な、なーに言ってんのかしらねえ、あいつら」あゆみが不自然に笑った。
「ねえ」美奈代は小さな声でそう答えるのがやっとだった。