#3822/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/ 4/ 3 23:46 (198)
【OBORO】 =第1幕・花鳥風月=(10) 悠歩
★内容
「ねえ、お兄ちゃん。釣りに行こうよ」
別段やることもなく、ぼおっと居間でテレビを観ていた優一郎を、真月が誘いに
来た。
「釣り? この近くなのかい」
「歩いて十五分くらいのところに、堤があるの。ねえ、行こうよ」
暇を持て余している優一郎に、断る理由もない。
人懐っこい真月と遊ぶのも楽しそうだ。
優一郎は、一も二もなく承知した。
「やった、じゃあ美鳥お姉ちゃんも誘おうよ」
「ま、真月ちゃん」
大袈裟に喜ぶ真月に、「美鳥とはウマが合わないから」とは言えなかった。
走り掛けて立ち止まった真月は、優一郎がなんでもないと応えると、すぐさま庭
の方へと急いだ。
優一郎も、ゆっくりとその後を追った。
美鳥は庭先で洗濯物を干していた。
ぱんと音を立て、白いシャツを広げ物干し竿に掛ける美鳥。
額の汗が強い陽射しに、きらきらと輝く。
真月の後ろで、優一郎の脚が止まる。
働いている美鳥の姿を見つめながら、「綺麗だ」と思ってしまう。
はっとして頭を振る。
『綺麗………美鳥が? ははっ馬鹿な』
「お姉ちゃん、美鳥お姉ちゃん」
真月が呼ぶと、美鳥は手を止める。そして腰を屈め、真月と目の高さを合わせた。
「これから堤まで、優一郎お兄ちゃんと釣りに行くの。お姉ちゃんも、いっしょに
いこうよ」
「優一郎と?」
美鳥がこちらを見た。目があって、優一郎は心臓が高鳴る。
「ダメよ、私は行けない。麗花お姉は出かけているし、音風が寝込んでいるから、
家を留守には出来ないでしょ? それに夏休み中に仕上げたい絵もあるの。二人で
行って来なさい」
美鳥たちの話を遠くに訊きながら、優一郎は心臓の高鳴りの原因を考えていた。
『そうだ、目があったら、またあいつが何か言いがかりをつけてくるんじゃないか
と、緊張したんだよ』
強引に自分の中で、そう結論づける。
「分かった………じゃあ、お兄ちゃん、二人でいこ!」
ととと、と駆け寄った真月が優一郎の手を取った。
「あ、ああ。道具はあるの? 真月ちゃん」
「ものおき」
優一郎は、真月に手を退かれて物置へ向かおうとした。
「ちっょと!」
後ろから声が掛かった。
「二人とも、用意が出来たら玄関で待ってて」
「わかったー」
元気に真月が応えた。
のべ竿とバケツを物置で見つけて、優一郎は玄関先に座り美鳥を待っていた。
「ほら、これ」
程なくして現れた美鳥は、竹の皮の包みを優一郎に手渡した。
「なんだよ、これ?」
「おにぎりだよ。いまから出かけるんじゃ、お昼までには帰って来れないだろ。だ
からさ」
「へえっ」
驚いて優一郎は、美鳥の顔を見上げた。
思い出してみれば、昨日初めて会ったとき、美鳥は掃除をしていた。今朝は洗濯、
そしておにぎり。
口が少しばかり乱暴なため、忘れていたが、美鳥はいつでも家族のために働いる
ような気がする。
優一郎は、美鳥を見直した。
が、その気持ちはすぐ失せた。
「なんだよ、私が作ったおにぎりじゃあ、不満なのかよ。なら返せよ」
優一郎が一言も言っていないうちに、美鳥は勝手に怒りだしておにぎりを取り上
げてしまった。
「ああん、だめ。いるいる、いるよぉ。美鳥お姉ちゃん」
そのおにぎりを、ぴょんと跳ねた真月が取った。
「さ、おべんとーも持ったし、行こう。お兄ちゃん」
「ああ」
二人は立ち上がり、玄関を出ようとした。
「優一郎」
「なんだよ、まだ文句があるなら、帰ってから訊いてやる」
これ以上美鳥に絡まれるのも面倒だと思いながら、優一郎は応えた。
「違うよ………真月のこと、よろしくね」
「えっ」
驚いて振り向くと、美鳥は優しく微笑んでいた。
「あ………ああ、分かった」
「もう、早くしないと、時間なくなるよ」
真月に手をひかれ、優一郎は玄関を出た。そして戸を閉めるとき、家の奥に戻ろ
うとする美鳥の首筋に、絆創膏が貼られているのが見えた。
「ああ、しまった!」
堤の前まで来て、突然真月が大声を上げた。
「どうしたの、真月ちゃん」
「釣りのえさ、忘れてきちゃった」
真月は泣きそうな顔で言った。
「あちゃあ………この辺に、えさを売ってる店は……ないよなあ。いつもは、何を
えさにしてるの?」
「わたし、ほんとはそんなに、釣りをしたことないの………でもいつもは、お友だ
ちがおいもをすりつぶしたのとか、用意してくれるから」
このままでは、本当に真月は泣き出しそうだ。
なんとかしなければ………そう思いながら、周囲を見渡す優一郎の目に、雑木林
が止まった。
「もしかしたら、あそこでキジが手にはいるかも」
「キジって鳥の?」
「そうじゃないよ。まあ、見てて」
優一郎は真月を連れて雑木林に入り、持っていた竿で地面を突っついてみた。
落ち葉による腐葉土。湿った黒土。都合がいい。
「うん、これならいるだろう」
優一郎は屈み込んで、手で土を掘りだした。
「ねえ、もしかしてキジって………」
真月は恐る恐る、優一郎の手元を覗き込む。
「そら、大当たり!」
土の中から掘り出したそれを、優一郎は指でつまみ上げて、真月の目の前へと持っ
て行く。
「いやああああっ!!」
くねくねとのたうつそれを見て、真月は悲鳴を上げた。立ち上がって、その場か
ら逃げ出そうとしたが、よほど慌てていたのだろう。
立ち上がったかと思うと、そのまま後方へ尻餅をついてしまった。
「ごめん、謝る。この通り………お願いだから、機嫌を直してよ、真月ちゃん」
優一郎は両手を合わせ、拝むようにして真月に許しを乞う。
すっかり機嫌を損ねてしまった真月は、背中を向けたまま、優一郎に一言も話を
してくれない。
「ねえ、本当に悪かったと思ってる。調子に乗りすぎた。まさか、真月ちゃんがあ
んなに恐がるなんて、思わなかったんだ」
ひたすら謝るしかない。
優一郎自身、酷く大人げない悪戯をしてしまったと思っていた。
「ほんとうに………反省してる?」
ようやく、真月が口を開いてくれた。
少し鼻声掛かっているのは、泣いたせいだろう。
「反省してる、本当に。あの、言い訳にしか聞こえないだろうけど、真月ちゃんが
本当に可愛らしかったから、ちょっとだけ驚かしてみたくなって………ほんっっっっ
っとうに悪かった。ごめん、ごめんなさい」
「もう、あんなことしない?」
「しない、絶対にしないよ」
「じゃあ、許してあげる。それに、わたしがお兄ちゃんを誘ったのに、えさを忘れ
たのが悪いんだもんね」
真月は振り向いて、にっこりと笑った。
けれどその目は、真っ赤になっている。
よほど恐かったのだろう。
優一郎は改めて、自分のしたことを反省した。
「ごめんね、真月ちゃん」
まだ頬に残っていた涙を、拭ってやろうと手を伸ばすと、真月はすっと後ろに下
がった。
「だめ、お兄ちゃん、まだ手を洗ってないもん」
堤に沿って敷き詰められたような砂利の上に、優一郎は道具を置いた。
幾つかある大きな石の中から適当な物を選び、腰掛ける。
「本当は、美鳥が作ってくれた、おにぎりのご飯粒をえさにしてもいいんだけど。
それじゃあ、美鳥に悪いだろ」
「うん」
「それに、ご飯粒だと針もちがしないからね。それで、こいつを使うんだ」
そう言いながら、優一郎はバケツに入れたミミズを掴み上げた。真月を驚かせな
いように、ゆっくりと。
それでも一瞬、真月は身体を退いた。
「わたし、こんなのさわれないよ」
訴えるような真月。
「だいじょうぶ、俺がちゃんと付けてあげるから」
優一郎は、真月の竿を取り、釣り針の湾曲に沿わせるようにしてミミズを付けた。
「どうして、これをキジって言うの?」
「釣りの用語だよ。そんなに詳しい訳じゃ、ないんだけどね。ほら」
優一郎は、針先のミミズを指さす。
「黄色い汁が出てるだろ」
「うん………」
「ミミズの黄色い血、だから釣りをする人は、ミミズのことをキジって呼ぶんだよ」
「ふーん、お兄ちゃんって、ものしりなんだね」
どうやら真月の機嫌も、だいぶなおってきたらしい。
いろいろゴタゴタしてしまったが、二人はようやく釣りを開始する。
「お兄ちゃん、競争しようよ」
あまり釣りをしたことがないと言うわりには、綺麗な型で真月は竿を振るった。
針は真っ直ぐに飛び、水中に没する。
「競争?」
優一郎も遅れて、針を投げた。
「どっちが、たくさん釣れるか、競争」
「競争か、面白そうだね、やろうか」
「でね、負けたほうは、勝ったほうのいうことを、一つだけぜったいにきくの」
「へえ、いいけど………って、ことは真月ちゃんは、なにか俺にやらせたいことが
あるんだ」
「へへっ、ないしょだよ」
「うーん、まあいいか。その話のった」
高校に入ってからすっかりご無沙汰だったが、優一郎は中学生の頃に、釣りに凝っ
ていた時期があった。
自慢するほどの腕前ではないが、小学三年生の女の子には負けない自信があった。
昼には公平をきすため、一緒におにぎりを食べた。来る途中に買った、烏竜茶は
すっかり温くなっていたが。
この時点での釣果は、優一郎がフナを三匹。三十センチ程のコイも掛かったのだ
が、これは逃げられてしまった。
一方真月は、十二、三センチのコイが一匹。
ここで打ち切りを四時と決め、釣りを再開した。
優一郎は勝利を確信していた。
まだ二匹の差ではあったが、一匹のコイが掛かり釣り上げるまでの真月の騒ぎぶ
り、致し方ないが、まるで素人だった。
ところが。
「ほら、もう四時だよ」
もう竿に糸を巻き付けて、帰り支度を整えた真月が、優一郎の腕時計を覗き込ん
で言った。
「ああ………もう時間か」
未練を残しながら、優一郎は糸を上げた。
「それで、結局真月ちゃんは、何匹釣れたの?」
数えるまでもないと分かりながら、優一郎は確認をする。
「んとね、十四匹!」
真月のバケツの中には、それこそ大きな魚はいなかったが、フナとコイが確かに
十四匹泳いでいた。
そして優一郎のバケツには、僅かに五匹。