#3815/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/ 4/ 3 23:43 (184)
【OBORO】 =第1幕・花鳥風月=(3) 悠歩
★内容
「あの、失礼ですが」
二人の会話に、別の人物が割って入った。
「え、何か?」
見ると三十代半ばくらいの、スーツ姿の男がいた。
「あなた、陽野優一郎さん……ですよね?」
「そう、ですけど。あなたは?」
「おっと、これは失礼。私、こういう者です」
丁寧に名刺を差し出した。
『沖田興信所所長、沖田和宏』
そう書かれている。
「興信所って、探偵さんですか?」
「ん、まあ似たようなもんかな。実はですね陽野さん。ある人に頼まれまして、あ
なたを探してたんですよ」
「はあ?」
誰かと人違いしているのではないか?
優一郎は思った。
物心がついてから、今日まで親戚というものと会った覚えはない。それどころか、
優一郎の両親は近所づきあいすら、あまりする方ではなかった。
人を雇ってまで、優一郎を捜すような物好きに、心当たりはない。
「いやいや、驚かれるのも無理ないですがね。亡くなられたご両親は、親戚とつき
あいが全くなかったでしょうから」
人違いでは無いですよ。
と沖田はつけ加えた。
「話、長引くのかな?」
田邊が口をはさんで来た。
「ああ、陽野さんの友だち? ごめんなさいね、これから陽野さんをお借りしたい
だけど」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ぼくはまだ何も………」
「まあまあ、陽野さん。実はそのあなたを探しているという依頼者が、いま私ども
の事務所に来ているんですよ」
「そんな、こっちの都合も訊かず………」
優一郎は抗議しかけて、止めた。
ここで沖田を追い返してしまえば、どこまで田邊に付きまとわれるか分からない。
いま一つ、この沖田という男の言葉を信じることが出来ないが、別に危険がある
とも思えない。
特に莫大な遺産を相続した訳でもない優一郎を、誘拐するなどという事は無いだ
ろう。
第一、他に家族のない優一郎を誘拐しても、身代金を要求する相手がいない。そ
んな事をするくらいなら、直接家に押し入った方が、よほど確実だ。
ここは沖田に従い、一緒に行った方が田邊と別れる良い口実になる。
「分かりました、行きましょう」
「ええっ」
驚きの声を上げたのは田邊だった。
「そんな、良く分からない相手について行って、大丈夫かい?」
「なーに心配ないさ」
優一郎は笑顔で返す。
『お前から解放されるんだからな』
と言う言葉を飲み込んで。
「では、早速。詳しい事は道すがら、お話しします」
そう言って、沖田は近くに停めてあった車を指し示した。
その言葉に従い、優一郎は助手席のドアを開いた。
「あ、じゃあこれ………」
ドアを閉めようとする優一郎に、田邊から一枚の紙、ノートの切れ端が手渡され
た。何やら住所と電話番号が書かれている。
「なんだよ、これ」
「ぼくの新しい住所」
「新しい住所? 引っ越ししたのか、田邊」
「いや、ぼく専用のマンションを貰ったんだ。受験のため、静かな環境で勉強でき
るようにね。そこの住所。夏休みは、ゼミ以外の時間はそこにいるはずだから」
「分かった」
もちろん連絡を入れるつもりなど毛頭なかったが、田邊が見ている手前、そのメ
モをたたみ胸ポケットに収めた。
「出しますよ」
沖田が車を発進させると、優一郎はやっとほっとした気分になった。
まだ何か言いたげな田邊を残し、車はその場を後にした。
「いやあ、私は運がいい。あなたを探し出すのに、依頼者は日本中の同業者に依頼
をしたらしいですから。そんな中で、私が見つけだせたんですから。いえね、もち
ろんあなたを見つけた見つけないに拘わらず、それなりの日当を頂いてますがね。
成功報酬が、この手の以来としては、破格でしてね」
興信所の人間と言うのは、皆そうなのだろうか。あるいはこの男が特別なのかも
知れない。
とくかく、沖田はよく喋った。
運転をしながら、優一郎が訊きもしない事まで話してくれた。
沖田の話によると、優一郎を探している人物は優一郎の親戚だと言う事だった。
薄々感づいてはいたが、やはり優一郎の両親は駆け落ちをしていたそうだ。
なんでも母の実家は大変な資産家だったらしい。
しかし母の両親、優一郎にとっての祖父母夫婦は男児に恵まれなかった。
そこで二人の娘の長女、優一郎の母に親戚筋から婿養子をとり、跡を継がすつも
りでいた。
ところがその長女は、どこからか連れてきた男と結婚をしたい、と言いだした。
当然祖父は強く反対をしたそうだ。
それで母とその男、優一郎の父は駆け落ちをしてしまった。
それを信じるなら、生前の両親の様子にも納得が行く。
父は真面目な性格だったが優一郎が中学に入るまで、何度も仕事を変えていたし、
その度に引っ越しを重ねていた。また母も必要以外の外出は、ほとんどしなかった。
母の実家に探し出される事を恐れていたのだろう。
「でも、ぼくの母はもう死んでますよ」
「ええ、先方もそのことは承知しています」
ハンドルを右に切りながら、沖田は応えた。
車は交差点を右折していく。
「それなら、いまさら俺……ぼくを探してどうするつもりです? 大事な娘を奪っ
た男の息子として、復讐するつもりか………それとも死ぬ前に、孫の顔を見ておき
たくなったとか?」
「さあ、あちらさんの腹積もりまでは、分かりかねますが………一言私に言えるこ
とは、依頼者はあなたのお爺さんでは無い、って事です」
「はあ?」
「あなたのお母さんのご両親………なんかややこしいかな、あなたの祖父母はもう
亡くなられたそうですよ。ついでにお母さんの妹さん、つまりあなたの叔母さんの
夫婦もね」
「そうですか」
祖父母と叔母がもうこの世の人ではない、と訊かされても、別段優一郎には何の
感慨も湧くことはなかった。
一度も会った事のない、数分前まで存在さえ知らなかった者たちへ感情の持ちよ
うもない。
それより、祖父母叔母ともに亡いいま、優一郎を誰が探しているのかと言う疑問
が湧いてきた。
「ああ、それはあなたのお母さんの妹さんの娘さん、分かりますよね? つまりあ
なたの従姉妹さんですよ」
「いとこ、ですか」
まだ疑問は解決しない。それどころか、深まるばかりである。
祖父母や叔母なら自分の娘、或いは姉の息子に会おうとする理由もあるだろう。
だが、見も知らぬ従姉妹に会わねばならぬ理由など、優一郎には思いつかない。
「そのへんの事は、先程言いましたように、私も訊いてませんので。ご本人の口か
ら、説明があるでしょう。あ、ほら、もう着きますよ」
車は砂利を敷き詰めた、路地の駐車場に停められた。
その向かいに有る雑居ビルの三階に、「沖田興信所」と看板が掛けられているの
が見えた。
「どうも、朧月さん。陽野優一郎さんをお連れしました」
事務所の扉を開け、その前に置かれた磨りガラスのついたて越しに沖田が言った。
向こうで誰かが立ち上がるのが見える。
ついたての向こう側にまわると、革を模してはいるがビニール製であることがはっ
きり分かるソファの前に、髪の長い女性が立っていた。
朧月………それがこの女性の姓なのだろう。
母の旧姓もそうなのだろうか。
ずいぶん珍しい名字だと、優一郎は思った。
「初めまして、優一郎くん」
女性の顔を見て、優一郎は二つのことに驚いた。
一つは、どう見ても女性が優一郎より歳上であること。
沖田から訊いた話しから、叔母が結婚したのは優一郎の母が駆け落ちしたのより
も、後になるはず。
そう思っていた優一郎は、当然は従姉妹を自分より歳下だと予想していた。
しかし思い返してみれば、母が駆け落ちした時に叔母は独身であったとは訊いて
いない。その時既に結婚していて、子どもが有ったのかもしれない。
或いは母が駆け落ちして優一郎を生むまで、何年かの間が有ったのかも知れない。
その間に叔母も結婚し、母より先に子どもを生んだと言う事も考えられる。
母の妹の子が自分より歳下と言うのは、単に優一郎の思い込みに過ぎない。
そうでない場合とて、いくらでもあり得ることだと納得する。
そしてもう一つ。
その女性が美人である事だった。
年齢は二十歳前後であろう。
身長は優一郎より僅かに高いが、ハイヒールを履いている事を差し引けばほとん
ど同じだろう。
緑の黒髪と言う言葉を実感したのは、初めてだ。
腰の辺りまで伸ばされた髪は、薄暗い部屋の中に於いても、僅かばかりの光を受
け、艶やかに輝いている。優一郎と女性の間には、一メートル半程の距離があった
が、そこから見る限り髪には全く痛みはない。まるで一流の工芸師の細工の様に、
一本残らず真っ直ぐと伸びている。だがそれが創り物でない証に、女性が少し頭を
動かすとその動きにあわせ、流れるように着いていく。
細面ではあるが、目鼻立ちはくっきりとしている。
切れ長の目尻はやや下がり気味だが、それが見た目に優しげな印象を与える。
鼻筋はすっと通り、唇は薄目であった。薄目ではあるが、優しげな目のおかげか、
それとも唇自体に浮かんだ笑みのせいか、冷たい感じは残らない。
何より、その微笑みにわざとらしさがないのだ。
実に自然に笑ってみせる。
愛想笑いではない、自然な笑み。
察するに、この女性は普段から笑っていることが多いのではないだろうか。
呼吸をするのと同じように、笑う事が無意識に身に付いてるようだ。
薄い明色の紫のスーツを着ていたが、それがよく似合っている。
着る者によっては、いやらしくなりそうな色なのだが、この女性が着ると清楚で
また高貴に感じさせる。伊達に資産家の家に生まれていない、と言う事なのだろう
か。
スーツからすらりと伸びた手脚は細く、白かった。白いと言っても不健康さは微
塵もない。
「どうも、陽野優一郎です」
優一郎は女性に右手を差し出した。
いままで初対面の人間に対して、握手を求めた事などない。しかしこの自分の従
姉妹だと言う女性を見ていて、考えるより先に手が動いていた。
頭からつま先まで、この女性は優一郎の理想に近かった。
いや、理想を上回っていた。
それこそ爪の一枚一枚、髪の生え際に至るまで。
あまりにも出来た存在のため、目の当たりにしながらもにわかには、その存在を
現実の物として信じることが困難だった。
直に触れることで、それを確認したいと言う意識が働いての行動だった。
差し出された優一郎の手を、女性は躊躇うことなく握り返した。
「朧月麗花です。よろしくね」
麗花と名乗った女性の手の温もりを感じ、優一郎は我に返る。
年齢に不相応な振る舞いに出たことに気づき、慌てて手を引っ込める。
顔が熱くなっていく。