#3783/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/ 3/11 18:39 (182)
そばにいるだけで 4−5 寺嶋公香
★内容
スタートのときは寒さに震えていたのが、今では、身体が火照ってきている。
乱れ気味の呼吸を整えながら、前を見た。人影が二つ。
(頑張って、あの二人を抜こう)
そう決めて、足を高く上げようと心がける。
前を行く二人は、すでにペースが落ちてきているらしくて、どんどん距離が
縮まった。
(あれは)
近付くにつれ、前の人影は見覚えのある後ろ姿を形作る。
(郁江と久仁香じゃないの。最初、とばしすぎるから……)
純子は一瞬、並んで走ろうかとも考えたが、すぐにやめた。練習できるのは、
今日のこれが最後だ。あとは校内マラソン大会当日を待つしかない。
「先、行くよ」
一声かけて、抜きにかかる。その際、「あー」とか「置いていくなぁ」だの
の応答があったが、気にせずに行く。
その後も二人を抜いてから、ゴールである校庭、朝礼台に戻って来た。
「全く。無茶して追っかけるから、こういうことになるのよ」
さっさと着替え終わっていた純子は、だいぶ遅れて教室に戻った富井と井口
に、少しばかり意地悪く接した。
「だって、相羽君と一緒に走りたかったんだもん。ねー」
井口が言って、富井と顔を見合わせる。
「でも、悲しいよー。これまでスピードを合わせてくれてたのに、今日は行っ
ちゃった」
「分かってたことでしょ。あいつだって、練習できるのは今日が最後だから、
本気で走るって」
「うん。そんなこと、言ってた」
あっさりと答える富井に、純子は内心、がくっと来た。
(ほんとに分かってたんなら、自分のペースで走れっ)
思ったことを口に出そうとしたとき、廊下側の窓枠が、ごんごんと打ち鳴ら
された。突然だったので驚いた上、窓際の席だけに、耳に響く。
「まだ終わんねえのかあ」
「早くしろよなあ」
隣の教室で着替えていた男子が、待ちかねているようだ。
富井達へ文句を言うきっかけを失った純子は、矛先を廊下の男子に向けた。
「少しぐらい、待ちなさいよ!」
間があって、男子の声。騒がしくて分かりにくいが、多分、清水だ。
「迷惑なんだよなー、おまえらがのろまなせいで! 走るのが遅けりゃ、着替
えもとろいっ」
怒鳴るのと同時に、窓枠を再び、がたがたと揺らした。磨りガラスを通して、
何人かの影が分かる。
「うるっさいわねっ。ガラスを割ったって、知らないんだから!」
「割れるかよ、このぐらいで」
と、清水らしき声の主は、拳をじんわりと押し付けるようにしてガラスへ当
てた。すると。
「あーっ」
呆気なく、ガラスにひびが。ほぼ垂直に、一本、亀裂が走る。長さは、子供
の手の平を広げたほどか。
「わ、割れた……」
廊下で、声を震わせているのは、間違いなく清水だった。
(全く、もう。だから言ったのに)
純子はため息をついて、ガラスにできた割れ目を眺めた。
「完全に割れなくて助かった」
純子の後ろの席の相羽が、真面目な調子で言った。
ひびが入った窓ガラスは、セロハンテープで応急処置がしてある。内側から
張った部分が透けて、廊下の模様が見えるようになっていた。
「ひょっとして、そっちの人の心配をして言ってる?」
いくらか冷やかし気味に口を挟む勝馬。その指は、純子の方を示していた。
気配を察知した純子は、きっ、と振り返った。
「変なこと言わないでよ、勝馬君」
「あ、聞こえた?」
片手を頭にやり、ばつが悪そうな勝馬。代わって、相羽が口を開いた。
「うーん、心配もあるけど、もっと差し迫った理由が大きい」
「差し迫った?」
「もし完全に割れてたら、すーすー、風が吹き込んで、寒くてたまんない。し
ばらく震えて、すごさなきゃな」
「そだな。ここ、寒いもんな。まるで冷凍庫の中だべ」
わざとらしい方言を使い、腕を抱えてみせる勝馬。きっと、純子からさっき
の発言を追及されたくなくて、ごまかしに出たに違いない。
当の純子は呆れて、再び前に向き直った。まだ福谷先生が現れないので、そ
のまま、相羽と勝馬の会話に、何気なしに耳を傾ける。
「それよか、相羽。マラソンも結構、早いよな。どれぐらいを狙ってるんだ?」
「分かるかっての。他のクラスの男子とは、一組を別にしたら、一緒に走って
ないんだから、順位なんて想像もつかない」
理屈にあった返事である。
「そうか、こっちでマラソン走るの、初めてだっけか。おまえ、馴染んじゃっ
てるから、勘違いしたぜ」
「嬉しいよーな、悲しいよーな」
相羽の話し方が、ふざけた調子になった。が、それも一瞬で、次にはもう元
に戻っている。
「でも、ペースを保つのに、いい目安を見つけたから、結構行けるつもりだぜ」
「目安? 何だ、それ」
「ここ三回の練習は、本番と同じ時刻にスタートしただろ? たとえば、どこ
そこの電柱の横を通過するとき、工場のサイレンが鳴り始めれば、ペースを守
れているっていう風に」
聞いていた純子も、なるほどと思う。
(私も何か、目印を作っておけばよかったな。あ、でも、練習のときはいつも、
男子のスタート時刻だったっけ。意味ないわ)
校内マラソンの本番では、男女別に行われるのだ。
「へえ、そんなことまで考えて走ってんのか。俺なんか、全然。−−あ、いっ
つも、学校近くの角で赤い軽四とすれ違うなってのだけ、意識してたけど」
赤の軽四については、純子もたびたび見かけて、覚えていた。
(サングラスをかけた、髪の長い女の人が運転してたっけ)
「それ、僕も気付いた。測ったみたいに同じ時間だったから、不思議だったん
だけど、あの車、幼稚園に子供を迎えに行った帰りだって分かった」
「へえ。何で分かるんだ?」
不思議そうに、声のトーンを上げる勝馬。
「簡単。助手席に、小さな子供が乗ってたんだ。その子、L**幼稚園の帽子
を被っていたし」
「よく見てるよなあ。走りながら、そんな余裕があるのが不思議でたまらん」
「そうじゃなくて、乗用車の子供が、こっち向かってやたらと手を振るんだ。
だから、印象に残ったってわけ」
「へー、俺には振らないぞ。ちびっ子の人気者だな、こいつ。うらやましい」
「何だよ、それ。あんまり嬉しくないなあ」
相羽が、息をもらすようにかすかに笑ったところで、前の戸が音を立てた。
先生がやって来て、教室に入るなり、言った。
「清水君。ガラス代は学校の備品購入費から払うから、安心なさい。それより
も、今後は気を付けること。いいですね」
校内マラソン大会の当日は、朝からよく晴れ渡っていた。浮かぶ雲は数える
ほど。でも快晴であるが故に、放射冷却現象が起こったとかで、寒い。
「私達は午後からだからいいけれど、一年生、二年生辺りは大変だったろうね」
などと、給食時にのんきに話していた純子達であったが、その言葉は自分達
にも当てはまると分かったのは、スタートの直前であった。
あれだけ輝いていた太陽が、いつの間にか灰色がかった雲に隠されてしまい、
日の光が期待できない状態に。しかも、風まで出て来た。体感温度は急降下。
(冷たいーっ)
声もなく、手に息を吹きかける。「非情」にも、マラソン中の手袋の着用は
禁じられているのだ。
(子供は風の子と言われても、これはきついよぅ)
かように、出鼻をくじかれた形の中、スタートが切られた六年生女子の部。
ペースを守って走っていると身体がなかなか温まらないので、つい、スピー
ドを上げてしまう子が出て来る。大勢がペースをアップすれば、他の子達も引
っ張られる。そんな状況になり、レースの前半はハイペースで進んだ。
その反動は後半にもろに噴出。一転して、誰もが苦しい展開に。
(か、顔の皮膚の感覚がない。鼻を触っても、冷たいだけだわ)
強張る肌を手でこすりながら、純子は空を見上げた。雨か、悪くすると雪が
降り出して来るんじゃあ……そう思わせるほど、黒い雲がある。
それからも、へとへとになりながら、どうにかゴールした。純子が受け取っ
た番号札は、三十三番。六年生の女子は全部で百二十人前後。これまでの五年
間、最高で四十五位、たいていは五十〜六十番台だった純子にとってかなりい
い順位である。荒れた展開が、純子には吉と出た。
「涼原さん、意外と遅いんだ」
タオルを羽織って、他の女子達と一緒になって、運動場の隅っこに座り込ん
でいると、男子達がやって来た。話しかけてきたのは相羽だ。
「仕方ないでしょ。こ、これでも今までで一番、いいのに」
「あ、ごめん。そう言う意味じゃ……。涼原さんは、体育、何でもできるよう
に思ってたから」
「マラソンは苦手なのよ」
短く言って、膝の上に額を乗せた。まだ疲れが残っている。
「クラスの女子で一番早かったの、誰だった?」
立島が聞くのへ、元気よく手を挙げたのは町田。
「はいはい! 私なのだっ。ほら、三位」
と、自慢げに番号札を見せる。
「へえ、凄いな」
そんな風に感心したのは相羽一人で、他の男子達は、一様に考え込む様子。
「やっぱり、町田さんか。三位……それじゃあ、せめて二位に入らないといけ
ないわけか」
立島が、眉をやや寄せ加減に、厳しい顔になって言った。
「頑張ってねー、無駄な努力になると思うけど」
町田が言い返す。純子も続こうとしたが、邪魔が入った。
「何で、そういう話になるんだよ」
相羽の質問。自分一人が状況を知らない不満からか、口を尖らせていた。
「相羽は知らなくて当然だけど」
説明を始めたのは勝馬。
「五年のときも、クラスは同じだったんだ、俺達。それで、一年前のマラソン
で、賭をしたんだよな」
「賭って、男子と女子の最高順位を比べて、どっちが上かっていうこと?」
察しよく相羽が言う。
「そうよ」
話し手が入れ替わった。得意そうに、前田が口を開く。
「去年、私達が勝ったの。町田さんが四位に入ってね」
「ふうん。おいおい、男子の最高は?」
横の勝馬に聞く相羽。
「立島の五位。次が清水の七位、大谷の八位だったんだ」
「上位三人の合計なら、男子が勝ってたのにな」
握り拳を作り、今でも悔しそうな立島である。
「そんなこと言っても、意味ないわよ。最初にルール、決めたんだから。最高
順位が同じときだけ、二番以下で比べるって」
「あ、あのさ、負けたらどうなるわけ?」
今度は、立島に聞く相羽。
「一週間、掃除当番を引き受けるんだよ。去年は、大変だったんだぞ」
「うわ、それは結構、嫌だな。天気悪いから適当に走ろうと思ってたんだけど、
これで真剣になるね」
相羽が右の手の平を空に向けた。幸い、雪は落ちて来ていない。
そうこうする内に女子が全員帰って来て、今度は男子に集合がかかった。
「さて、やったるぜ」
やけに張り切って、清水がスタート地点に向かう。
目立つチャンスだもんねーというからかいの声が飛んで、笑いが起こった。
−−つづく