#3739/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 22:10 (191)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(8) 横山信孔
★内容
†
10時頃ベッドから身を起こして下に降り、冷蔵庫から自分の牛乳を取り出し
飲んだ。とても気怠い。そして誰かと顔をあわせたくないと思った。
そんなとき、玄関から足早に高柳が入ってくる。
「あら、起きた?」と高柳。
「ん..」と岡田は中途半端な返事をする。
「ちょっと話があるけど、いまいい?」高柳が早口で尋ねた。
ちょっとためらってから、「何ですか?」と返事した。
玄関先の下駄箱の近くでふたりは立ち話をした。
「今日の早朝、山木さんと電話で話したのよ」
山木というのは、モンゴルに派遣されていた同期隊員だ。赴任してから職場の
ごたごたなどがあり、半年で任期短縮して日本へ帰っていた。岡田は詳細を知ら
ないが、高柳は訓練時代、仲がよかった。
「え? 山木さん?」
「うん..。私考えたんだけど、もしできるなら、彼の葬儀にグアテマラ隊員一
同の名で花を送りたいのよ。日本だけでなく、彼の任地であるタイのナコンラチ
ャシマへ。赤井さんの葬儀は明後日行われる予定で、グアテマラ時間で明日早朝
にご遺族の方々が日本を発つらしいの。そこで山木さんも茨城でしょう? 山木
さんに適当に花を見立ててもらって、もしよかったら彼女が彼の家まで運んで持
ってってもらおうと思ったの。それで彼女に電話してみたんだけど、快く引き受
けると言ってたわ。他の同期にも聞いたんだけど、皆賛成してた。でもやっぱり
彼に一番親しかったのは岡田さんなんだから、岡田さんがどう思うかが一番気に
なってたの。それで岡田さんの意見を聞こうと思って、まだ山木さんには正式に
返事してないんだけど..」
岡田は高柳がそのことについて、昨夜あれこれ真剣に考えていたのだろうと想
像した。
「山木さんには悪いけど、もしそうしてくれれば..。自分も名案だと思います
よ」
岡田は何についても俊敏に考え行動する高柳を目の辺りにし、自分の小ささを
感じた。
「それじゃ、いま日本は真夜中だから、夕方の4時になったら山木さんに連絡
するつもり。その頃向こうは朝の7時かな..」
「分かりました。また何かあったら自分も協力させてください。何でもやりま
すよ。それと山木さんへの電話代は自分も払わせてくださいね」
いまからちょっと事務所に行ってくる、と高柳。「夕方の4時前には帰ってく
るから」
岡田は何も言わずペコリとお辞儀をした。
高柳は前日随分と落ち込んでいた。日頃の高柳の調子ではなかった。それでも
一日経ってみると、元通りなんでもてきぱき行動する彼女に戻っていたことに、
岡田は驚いた。昨日は自分に気を使っていたのだろうか。岡田の中で高柳の見方
がどんどんと変わっていった。
岡田は高柳が山木に電話したことをふと思い起こした。そして自分も菅谷や倉
山に電話してみようと思った。何もせずにぼぉっとしているより、はるかにいい
だろうと思ったのだ。
岡田は慌てて協力隊の手帳を取り出し『世界時差表』を見た。現在グアテマラ
は11時なので、菅谷がいるモロッコは夕方5時。倉山がいるジョルダンは夜7
時だった。
ちょうどいい時間じゃないか..。
岡田はちょっと焦る手で手帳をめくり、モロッコのJICA(国際協力事業団)
事務所の電話番号を調べ、電話してみた。さすがにちょっと緊張し、手に汗をか
いた。
菅谷からはしょっちゅう手紙が来ていたが、まさか任期中に電話で話をするこ
とになるとは、想像したこともなかった。彼女の声はどんなだったかな、と思い
出すよう努力した。
JICA事務所の秘書が電話に出た。最初の言葉から最後の言葉まですべて何
を言っているのか分からない。たぶんモロッコなのだから、フランス語なのだろ
う。しかし菅谷の職場で働いているほとんどの人がアラビア語を話していると、
手紙には書いてあった。アラビア語だろうか..。まぁそんなことはどうでもよか
った。
岡田は焦って片言の英語でコーディネーター、プリーズ..と繰り返した。彼女
は何となく分かってくれたのか、モロッコの調整員に電話をまわしてくれた。岡
田は緊張しながら「私グアテマラの隊員の岡田と申しますが、隊員宿泊所の電話
番号を教えてくれませんか」と言うと、「ちょっと待っててくださいね..」と電
話番号を探す素振りが受話器を通して伝わってきて、しばらくして快く教えてく
れた。
すぐにモロッコの隊員宿泊所に電話をした。さっきよりももっと緊張して、番
号をまわす指が震える。よく分からなかったが目頭が少し熱くなって、まつ毛が
焦げるような気がした。
残念ながら菅谷はいなかった。6時くらいに帰って来ると言われた。
何だかちょっと肩すかしをくらったようだが、それでも宿泊所に来るというこ
とが分かっただけでも救いか..。岡田はちょっと心の中で肩をすくめ、行き場の
なくなった迷子の子供のように、少しのあいだ電話器を眺めて立ちすくんだ。
岡田は倉山に電話してみようと思って受話器をとってみたが、やはりまず菅谷
と話したいと思った。倉山より菅谷の方が大人で、途方にくれている岡田の心を
少しでも落ち着かせてくれる気がした。もう少し待ってみようと思った。
昼の12時半に、もう一度モロッコの隊員宿泊所に電話した。はじめに電話を
とった人が「はい、さっき帰ってきたところです」と答えたときは、心臓の鼓動
が激しく乱れた。最初になんて話そう..。岡田は何も考えていなかった。そして
ちょっと焦って受話器を持ち直した。
菅谷は受話器をとって「もしもし」と低い声で答えた。明らかに彼女の声だっ
たが、いまだかつて聞いたこともない声のトーンだった。
「お久しぶりです」
「ん..。元気?」菅谷は岡田の声を聞いても、まったく動じる様子はなかった。
まるで岡田が電話してくるのを予想していたかのようだった。
「うん..元気じゃないかな、やっぱり」
「そう..」国際電話特有の声のずれを感じた。少し間をおいて「ビックリした
ね..」と彼女は言った。
「はい」岡田はまだ緊張がとれなかった。「それで、なんとなく菅谷さんの声
とか聞きたくなって..」
「ありがと。でも..」菅谷は唾を呑み込んだ。「何を話したらいいか、わかん
ないね」
岡田は少し動揺した。
「はい..」
「協力隊の人が任地で亡くなったの、3年振りだって知ってた?」
「あ、そうなんですか」岡田はちょっと驚いた。「それは知らなかったな。う
ん、聞いてなかった」
「それなのにさ、私達の大事な仲間じゃなくてもいいよねぇ」
岡田はその言葉を静かに聞いた。
「実はさ」少し間を置いて菅谷が話し始めた。何か含みのある言い回しの予感
がした。
「はい..」岡田は恐る恐る探るような口調で答えた。
少し沈黙があった。
次の言葉がなかなか聞けない。
「どうしたんですか?」岡田はたまりかねて、せっかちに尋ねた。
「いやぁ、皆あまり知らないことなんだけど。岡ちゃんはホント優しいから教
えてあげるよ」
「え、何を?」ちょっと岡田はドキリとした。胸の中の暖かい空気がすぅーっ
と上がっていく感覚を味わった。
「私と赤井君、訓練始まってからすぐ、ちょっとのあいだだけ付き合ってたの」
「ええっ!!」岡田は驚いた。「それは知らなかった..」岡田は本当に知らな
かった。
「同期でもほとんど知らないよ。2週間くらいだったからね」
「.....」岡田は返す言葉がない。
「アルバム委員を作るとき、岡ちゃんが赤井君を誘ったんでしょ。そしたら彼
が私を誘ってきたのよ。一緒にやろうって。でもあのときはもう、香山さんと上
手くいってたから、どうして彼女を誘わないの?って聞いたの。でも菅谷さんと
一緒にやりたいって..。わけ分かんないとこがあるんだよね。ふった相手を誘う
なよって思った」
「それでもさ、若いわりに結構ニヒルでしょ、彼。まだ惹かれてたんだな。まだ
可能性あるかな、なんて思ってて..。それであのアルバム委員をやることに決め
たの」
岡田はあの頃のことを思い返した。あの駒ヶ根で、毎日毎日雪に囲まれた訓練
生活を。赤井と菅谷はそんな素振りを微塵も見せなかった。ふたりとも大人だっ
たのだ。あのふたりがお互い信頼し合った目で語っていたのが瞼の裏に甦ってく
る。銀世界の早朝を走っていたときも、訓練所のロビーの休憩時間も、晴れて白
く光る日曜日も、白い息とともに交わした言葉ひとつひとつが自然だった。
彼女に返す言葉を必死に探した。探しても探しても言葉が上手くみつからない。
岡田は瞬間的に受話器を耳から遠ざけ、首を2、3度振って目をつむった。
「ざまぁみろって感じ。いまは..」
岡田は電話越しに菅谷の吐息が乱れるのを感じとった。菅谷の暖かい息使いが
受話器の向こうから伝わってくるようだった。岡田はぎゅうっと電話のコードを
握り、彼女の腕や肩に触れてあげたい気持ちを指先に感じた。
数秒の沈黙と菅谷の鼻をすする音が岡田の胸を締め付けた。
「こんな私をふってさぁ..」菅谷はまた鼻をすすった。「可愛い彼女残しちゃ
ってさぁ..。いい気なもんね」
菅谷の涙声が岡田の体を震わせた。
「23だよ、まだ彼..」
「うん」大きなため息とともに、やっとのことで岡田は相槌をうった。
「命を無駄遣いしちゃって..」
菅谷の言葉に岡田はいい気分がしなかった。そして岡田は反射的にこう言った。
「でも..でも、彼だって自分から死に行ったわけじゃないでしょ..」
そしてすぐに後悔した。言うべきことではなかった。
「そんなこと..」菅谷の震える声が叫ぶ。「そんなこと、私だって分かってる
わよっ!!!!」
菅谷の絶叫が岡田の胸の中で何かを爆発させた。激しい鼓動が体の芯まで響き
わたっていく。爆発して弾け飛んだ何かが体の中で粉々に砕け、岡田の体が熱く
熱く燃え上がった。
岡田は何も言わずうなだれた。
菅谷は泣きじゃくり、すがりつくような声で謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい..。岡ちゃんがせっかく電話してくれたのに。
どうしたら..どうすればいいのかわかんない。どうしたらいいのか..。だってこ
この同期も周りの先輩達も、赤井君が死んだってまるで何事もなかったように振
る舞って..。悔しいのよ、そういうのが。赤井君の存在は何だったの? って聞
いてやりたい。私ひとりで苦しんでたのが辛かったのよ..」
岡田は何となく客観的にそれを聞いた。自分がそこにいることも、彼女の声も、
皆うそっぱちのような気がした。そして体が外側からどんどん冷えていった。
「本当にごめんなさい..。岡ちゃんだから、岡ちゃんだからこんなことを言っ
てしまったの。他の人には言えない。きっと分かってくれない。私達がどんな気
持ちで赤井君の死を受け止めたのか。気が狂いそうな悲しみを胸に留めていくと、
周りの普段通りの生活が許せなくなってくるの。いっそのこと爆発して取り乱し
たい。誰に何と言われようと、思われようと..。空に向かって叫んだり、水をか
ぶって走ったり..やってみようかと思った。気が違ったフリでもなんでも。やっ
ちゃえば一瞬だけでもすべて忘れられると思った..」
一層涙で詰まったしゃがれ声で、菅谷は暗く呟いた。
「でもできなかったわ」
「まだ理性があるのよね..。それは寂しいことだわ」
「俺も同じ気分ですよ」
「ごめんね、ごめんね」菅谷は心の中で支えていた、何かがぷつりと切れたよ
うに泣き始めた。
「謝らないでください。俺、菅谷さんの気持ち、痛い程分かりますから..」
取り乱して訳の分からないこと、何でもいいから叫びたくなる気持ち..。それ
は岡田も持っていた。菅谷がいま少しでも取り乱せたことに、羨ましささえ覚え
た。
菅谷が泣き止む前に、「私さぁ..。それでも結構寂しくないんだ、いま..」と
言った。
「どうしてですか」
「あれからいっつもあの4人で撮った写真を持ち歩いているの。そして彼にい
つも話し掛けるんだ。そしたらなぜかすぐ近くにいるような気がしてきた」彼女
はかすれる声で言った。「ただそれだけ」
「あのアルバム委員の打ち上げの後、訓練所の前で撮った写真?」
「そう。あの雪だらけになって撮った写真。赤井君は格好よく写ってるけど、
岡ちゃんは酔っぱらって泣いちゃってひどい顔だった..」
「あの後なぜか泣いたなぁ」
岡田は今朝思い出した情景と、その写真の情景とを重ね合わせてみた。何だか
ほんの些細な偶然に、ひとかけらの暖かさを感じるのだった。