#3738/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 22: 6 (181)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(7) 横山信孔
★内容
食事の後片づけをして、岡田はひとりで図書室へ行った。室内の空気が少し湿
気臭い。岡田はそれを感じとってわざと大きく息を吸った。彼はテーブルの上に
誰かが置いていっただろう漫画を手にとり、表紙から一枚一枚一枚めくって眺め
た。
高柳が図書室に入ってきた。岡田はそれを後ろ向きで感じとり、手に持ってい
た漫画をすぐに閉じた。そして音をたてないようにテーブルの上に置きなおした。
岡田の手が僅かに震えている。いま漫画を読んで、笑ったり、興奮したりしたい
気分かどうかは別としても、そういう素振りを他人には見せたくなかった。
高柳がテーブルを挟んで正面に座った。
だからといって彼女は何も話さない。漫画の表紙を凝視している岡田も、何も
話さなかった。
客観的には滑稽に見えるだろう。ふたりの男女が誰もいない小さな室内のテー
ブルに座って向き合い、無言でうなだれているのだ。それでもふたりはそのまま
動かなかった。
岡田は居間のテレビを見ている隊員達の笑い声を聞いた。吉岡は「もうちょっ
とボリュームあげて」と要求している。他の隊員達の笑い声も聞こえてきた。
岡田は手元の漫画を見るわけでもなく、高柳の表情をとらえるわけでもなく、
ぼんやりとした声で「荒木は?」と聞いた。
高柳はちょっとビックリした表情で岡田の顔を見上げ、「専門家の西川さんと
食事に行くって言ってた」と目を伏せながら言った。
「西川さんと仲よかったもんな、あいつ..」
高柳はそれには答えなかった。手をもじもじさせながらうなだれたまま。
それからどれくらいの時間がたっただろうか。永遠のときが流れたかのようだ
った。居間から聞こえるバラエティー番組の軽快なエンディングテーマが、図書
室の中のふたりを一層独立した世界へ運んでいくようだった。
10時頃玄関が騒がしくなった。荒木が西川の車に乗せられて、隊員宿泊所に
戻ってきたのだ。玄関口で荒木が大きな声で「いやぁ本当に今日はご馳走様でし
た」と言っている。その声は叫んでいるようにも聞こえた。相当酔っているなと
誰もが分かる。
西川は国立の職業訓練学校の情報科の担当をしている専門家で、情報処理関連
のスペシャリストだった。野球が大好きで、荒木とは気が合いよく飲みに行って
いたことを、岡田は荒木本人から聞いていた。
図書室の窓から玄関口が見える。荒木の脚は、気持ちよさそうにふらついて、
右へ左へと体を泳がしていた。そして西川と肩を抱き合っては、お互いを叩き合
っている。随分と話が弾んでいるようだ。岡田はそんなふたりを窓越しからぼん
やりと眺めた。
高柳はちょっと目を動かすだけで、その方向には顔を動かさなかった。ずっと
うなだれたまま、その状態を続けていた。
岡田はふと誰に言うわけでもなく呟いた。
「あんな風に気持ちよくお酒が飲める日が、また来るのかな」
高柳はほんの少し顔を上げたが、彼に視線を合わせなかった。潤んだ瞳をきら
きら光らせながら、岡田の手元に焦点を置いた。
そして彼女本人とは思えないような気弱な口調で「いまは無理でしょ」と言っ
た。
岡田は少し拳に力を入れ、語尾を強調した。
「絶対に無理だよ」と..。
荒木が居間の方へずかずか入っていくと、井上が「荒木君、皆待ってたよぉ」
と岡田にしたのと同じように右手を挙げた。
「いやぁ、ごめんなさい、ごめんなさい。ちょっとどうしても今日は行かなく
ちゃならなかったんですよ」荒木は赤い締まらない顔で答えた。「..で、高柳さ
んとかは?」
「図書室じゃない?」と井上は目で図書室の方向へ合図した。
荒木は大きな欠伸をして、図書室に近付いていった。
その足音に岡田は吐き気を覚えた。
「どおーーも!!! ちょっと遅くなってしまいました..」
荒木の声は、岡田と高柳の雰囲気をすぐに察して言葉尻に力をなくした。
岡田はわざと荒木を見なかった。
高柳は人が分かるかどうかぎりぎりのため息をついた。
「大変なことが、ありましたね..。まぁ、うん..」
荒木は体裁悪く振る舞っているようだ。ドアの近くで立ったまま、どうしよう
かなぁと考えてる風で背中を掻いている。
高柳は「皆で決めたことなんだけど..」と話し始めると、すぐに岡田が「悪い
けど上に行って話してくれない?」やはり目をそらしたままぽつりと言った。
「荒木がせっかくいい気分になっているのに、俺がその気分をぶち壊しそうだ
から」
高柳は「上に行きましょう。さぁ」と言ってすぐに立った。
荒木は「はい..」と力なく頷いた。そしてちらりと岡田の顔を見た。
高柳は荒木の背中を押して出ていった。
岡田はふたりが図書室を出ていく姿を、手元の漫画に目を据えたまま想像した。
2階のソファで荒木は「カズさん機嫌悪いんスか」と囁いた。
「当たり前でしょう。岡田さんと赤井さんとは仲よかったじゃない。あなたも
もっと気を使いなさい」高柳はピシャリと強い口調で言った。
「ああ、確かにあのふたり..。そうですか。でもそんなにショックだったのか」
「とにかく、赤井さんの実家の方に弔電と花は送ってもらえるように頼んでお
いたの。皆の承諾はとらずに自分の判断でしてしまったけれど、それは荒木さん
も了承してくれるでしょう?」
「それはもちろん」
ふたりがこそこそ話している内容は、図書室にいた岡田にもすべて聞こえた。
漫画の本をもう一度ひろげ、1、2ページ読んだがほとんど頭に入らない。ただ
「ソンナニショックダッタノカ」という言葉だけが、頭の中をぐるぐる廻って悲
鳴をあげた。
†
次の日、岡田は朝9時頃に目が覚めた。ベッドから窓を通して見える風景をぼ
んやりと眺めた。そして訓練所で赤井達と過ごした日々をわざと思い出そうとし
た。いろいろなことがあった。走馬燈のように、ぐるぐる頭の中に甦っては消え、
信じがたい苦しみと、果てしない悲しみを味わった。
有志で訓練生活のアルバムを作る委員会をしていたとき、岡田は委員長で、赤
井もそのメンバーのひとりだった。訓練が後10日間を残すのみとなったある日、
アルバム委員会の盛大な打ち上げをした。委員の皆はバラバラに帰ったが、ほど
よく酔っぱらった岡田、赤井、菅谷、倉山の主要メンバー4人は、タクシーで駒
ヶ根訓練所に戻った。そして誰が始めたのか、訓練所前の駐車場で雪合戦をやっ
た。皆足もとがふらついて、滅茶苦茶に投げ合った。岡田は赤井や倉山にタック
ルし、相手を雪の中に何度も倒した。すると菅谷が彼らに思いっきり雪をぶつけ
た。アルコールで充分ほてった体には、雪合戦が世界中で一番手頃で熱狂できる
ゲームに思えた。
皆で雪の上に寝転がっているとき、倉山が言った言葉が忘れられない。
「皆で交換日記しない?」
岡田、赤井、菅谷、倉山はそれぞれ中米のグアテマラ、アジアのタイ、中東の
ジョルダン、アフリカのモロッコ、と世界中に散らばる。この4人のあいだで郵
便を使って交換日記をしよう、という案だった。岡田は涙が出るほど素晴らしい
アイデアに、倉山を抱きしめたくなった。
当然皆は賛成した。
「でもさあ、その日記ってこの2年間の任期で何周地球を廻るのかな」と菅谷
が呟く。
「すごいよねえ、その日記が世界をグルグル廻るんだから」と倉山。
菅谷が赤井に気を利かして「香山さんもメンバーに入れようか。彼女ブルガリ
アだから東欧のメンバーが入るよ」と言った。
「彼女、結構筆無精のようなこと言ってましたから」と赤井。赤井は酒が強い
ので、皆のようにそれ程取り乱してはいない。
「僕ら4人でやりましょう」赤井は星空を見上げて言った。
岡田は、あまり周りには動じない赤井の瞳をぼんやりと見た。その視線に赤井
は気付くと、岡田の方に振り返り微笑んだ。岡田はちょっと戸惑って目をそらし
た。そして赤井に対し幾分の嫉妬を感じた。岡田は赤井の静かな男っぽさに惹か
れていたのだ。
雪の中に皆で寝転がり、岡田は赤井に言った。「ちゃんと香山さんと続くんだ
ろうな」普通なら、彼は赤井にこんなことを聞かない。今夜の彼は酒の力を借り
ていた。
「先のことは分からないですけど..」白い息をほぉーっと吐いて、「帰国して
から、筑波のほうに来てくれるみたいなことは言ってたから」と赤井は少し照れ
ながら言った。
3人は「おぉーーっ!!」と叫び、赤井に雪を手当たり次第にぶつけた。赤井
は雪の上ではでに抵抗したが、3人とも容赦しなかった。
「いいなぁ、香山さんって素敵だよねえ。訓練所で一番人気じゃない?」倉山
が頬を真っ赤に染め、口の中が沸騰しているように、真っ白な息が次から次へと
絶え間なく出いていた。
「でもちょっとクールな感じの人だよね。赤井さんとは似合ってるかも。でも
ちょっと以外だったな。3つ年下の赤井さんとなんてね。皆噂してたよ」と菅谷
は意地悪っぽく言う。
「え? 香山さんっていくつ?」頬を真っ赤に染めている倉山が聞いた。
「26だよ」と岡田は言う。
「しかし悔しいけどその通りだなぁ」と岡田はもう一度大の字になって赤井の
横に寝ころんだ。「確かにお似合いだ。悔しいけど..」もう一度雪の玉をつくっ
て赤井の胸にぶつけた。「くやしい!!」
「みっともないなぁ」と倉山。「岡ちゃんには私がいるでしょ」
「ああ..愛してるよ、クラちゃん」と岡田は倉山に抱きついた。するとふたり
とも雪の上に尻餅をついた。岡田は倉山の腰を抱いたまま雪の上で横たわった。
酔いが回って動けなかったのだ。
菅谷は岡田の頭の上に、大きな雪の玉を乗せた。それでも岡田は倉山に抱きつ
いたまま動かなかった。倉山は照れて苦笑した。赤井と菅谷は岡田を指さして笑
った。岡田も雪まみれになりながら肩を震わせて笑うと、ぱらぱらと雪の欠片が
彼の頭から落ちていった。
なぜだかとってもおかしかったのだ。
4人が4人とも同じように笑った。お腹を抱え、何度も何度もこみ上げてくる
ものを遠慮なく受け止めていた。皆同じ気持ちだった。4人とも同じ空気の中を
生きていたのだ。
岡田はベッドの中で、同じように笑ってみようと試みた。するとあのときとは
違う、別のものがこみ上げてくる。岡田は目を開け、天井を見つめた。天井の隅
を少し大きめの蟻の群れがきちんとした列を作って這っている。その列は窓枠の
小さな裂け目へと続いていた。そんな情景がふと目に飛び込んでくる。そして大
きな大きな現実が、固まりとなって彼のお腹の上に落ちてきた。彼は歯を食いし
ばり、全身を震わせてそれを堪えようとした。
そんな彼の頭の中で、容赦なく皆の笑い声がこだましている。一瞬彼のひきつ
った吐息が声となって口から発すると、我慢ならない熱風が彼の体を覆っていっ
た。
誰かが寝室に入ってきて岡田は我に返った。薄暗い部屋に、廊下の明かりが入
ってくる。
「カズさん、まだ寝てる?」と荒木がドアを開けながら言った。
「起きてるよ」と岡田は無愛想に答えた。
「前から言ってたけど、きょう練習試合がキューバ人チームとあるんですよ。
それでカズさん、前に見たいって言ってたでしょ。どうかなと思って」
「前に行けないって言ったじゃんか」とげとげしい口調で岡田は答えた。
「でもあれは仕事があるから首都に来れないっていうことだったでしょ。理由
はどうあれ今日はここにいるんだから..。気晴らしにもなると思うよ。天気もい
いしさ」
岡田はほんの少し間を置いたが、答えは決まっていた。
「ゴメン、荒木」とすこし強い口調で言った。それ以上何も言わせない、とい
う迫力があった。
ほんの少し沈黙があった。
岡田は天井を這う少し大きめの蟻の行列を見ていた。
荒木は聞こえがちにため息をつき、「分かった」と言った。そして「じゃね」
と言ってドアを閉めた。階段をおりていく荒木のスリッパの音を遠くに聞いた。
岡田は窓からの景色に目を向けた。そして「ソンナニショックダッタノカ」とい
う声が、耳鳴りのように頭の中で弾けた。