#3612/5495 長編
★タイトル (RAD ) 96/12/24 0: 6 (187)
「雪舞い」(1) 悠歩
★内容
『 雪 舞 い 』
悠 歩
「それにしても、今年はやけに雪が少ないなあ」
男は必要以上に大きな声で、独り言を言った。
だが、後部座席に座る妻は何の関心も示さず、虚ろな目で窓の外を眺めていた。
『しくじったかなあ』
ハンドルを握りながら男は思う。
山間を縫うようにして延びる県道。車は山から街を目指して走っていた。男は妻
を伴い、自分の生まれ育った村を訪ねた帰りだった。
一ヶ月前、妻は赤ん坊を死産した。
それは男にとっても大変なショックであったが、妻が受けたショックは肉体的に
も精神的にも夫以上だったに違いない。
妻にとって今回の出産が、最初で最後の機会だったのだ。
妊娠してから出産まで、ひたすら母親になる事を楽しみにしていた妻は、死産と
言う結末を受けてから、すっかり鬱ぎ込んでいた。
せめてもの気晴らしにでもなれば………そう考えた男は、自分の村を妻に見せる
事を思いついた。
これが失敗だった。
十数年前、家族とともに村を出てから今回初めて村を訪れた。
他に親戚はなかったのだが、気さくな村人達ならかつて村に住んでいた子どもが、
大人になって訪ねて来ることを歓迎してくれるだろうと思っていた。
万一、誰も自分を覚えていなくても、素朴な田舎の雰囲気を妻にも感じさせる事
が出来れば良かった。
ところが、十年以上見向きもしなかった故郷の変わりようは、男の想像を超えて
いた。
その場所に、もう村は存在していなかったのだ。
人の住まない荒れ果てた民家と、雑草が伸び放題になった畑。
そこに男が少年時代を過ごした、村の面影は無かった。
帰り道に出会った人の話では、五年ほど前に廃村になったそうだ。
廃村となった村は、落ち込む妻の心に更なる影を落としてしまったようだ。村を
出てから、もともと少ない言葉数が皆無になった。
故郷の廃村に男も心を痛めたが、今はそれ以上に妻の身が心配だった。
或いは自殺をしてしまうのではないだろうか?
そんな不安がよぎる。
いや、自殺まではないとしても、このままでは病気になってしまう。なんとか妻
を元気づけなければ。
思案したところで、男にはその術を見つける事は出来なかった。
「本当に、今年は雪が少ないなあ」
車窓から外を眺め、男は再び言った。
「今年は」という言葉は正しくない。十数年間離れていた土地に、その間どれほ
どの雪が降っていたのか知らないのだから。
だが男の記憶の中には、毎年今頃の季節には見渡す限りの白い大地。家も畑も、
森も池も、全てが白い雪に埋もれていたという事だけが残っていた。
山を切り崩した影響だろうか。あるいは男の中で少年時代の記憶が誇張されて残っ
ていたのか。それは分からない。
しかし車から見える範囲では、所々まだ黒い土が覗いていた。そう言えばこれか
ら戻ろうとしているホテルの有る街にも、殆ど雪は積もっていなかった。
「くっ」
考え事をしていたため、何が起こったのかは分からなかった。ただ突然車の前方
に何かが飛び出して来たのを見て、咄嗟にブレーキを踏んだ。
しかし少ないとはいえ、雪の残る道。ブレーキを踏んでから停止するまで、車は
かなりの距離を進む。
「しまった」
人を跳ねてしまった。
男はそう思った。
後部座席を振り返る。相変わらず、惚けた様な妻の顔。
いまの出来事に気づいてないのか。とりあえず怪我は無いようだ。
妻の無事を確認し、男は車から飛び降りた。雪に冷やされた夜風が肌に突き刺さ
るようだ。
「………」
車の後方に駆け寄ってみたが、人影は見あたらない。まさか崖下に跳ね飛ばして
しまったのではないかと、恐る恐る下を見てみたが、それらしい姿は発見できなかっ
た。
「何かの見間違いだったのだろうか」
念のため、車の前方を念入りに調べて見たが、何かにぶつかったようなへこみも
無かった。
「どうやら、おれの勘違いだったようだな」
男は胸を撫で下ろした。同時に取り乱した自分がおかしくなり、照れを含んだ笑
いが浮かんだ。
「すまん、何でも無かった」
再び車に乗り込むと、答えの返ることは期待せず妻に声を掛け、運転席のドアを
閉じようとした。
「あの、すみません」
その声に、男は飛び上がらんばかりに驚いた。
見ると、いつの間にか車の外に白いコートを着た、若い女が立っていた。その手
には、白い毛布にくるまれた赤ん坊が抱かれている。
「は、はい………何か?」
鼓動の高まりが収まらない男の声は少し、震えていた。
「申し分け有りませんが、この子に………わたしの赤ちゃんに、お乳を頂けません
でしょうか?」
今にも消え入りそうな女の声。
その願いに、男は戸惑った。どんな事情にせよ、突然出会ったばかりの人間にそ
んな頼みをすることが、あまりにも不思議だった。
それ程、切羽詰まっていると言う事なのだろうか。
だが、初めて会う人間が、すぐその頼みに応じられる可能性は低い。まさか、こ
の女はこちらの事情を知っていたのだろうか? いや、それはとても考えられない。
「どうか、どうかお願いです」
なおも縋るように懇願する女。その姿はとても弱々しい。
なにか病に侵され、赤ん坊に乳を与えられないのかも知れない。
「いや、しかし、そんな事を急に言われても………」
女の願いに対し、男はどう応えていいものか迷った。確かに妻は死産した直後で、
乳は出るのだが、それを見知らぬ子に与える事を、承知するだろうか。いや、せめ
てそれが都合出来る街まで、女を車に乗せてやった方がいいだろうか………。しか
し、赤ん坊を抱いた女を乗せて、それが何か妻に悪い影響を与えはしないだろうか。
かと言って、このまま放っておく事も出来ない。
どうした物かと思案しながら、男は後方の妻に振り返った。その時、女の腕の中
で赤ん坊が泣き声を上げた。
「かして」
それは死産してから初めて聞く、妻の声だった。
それまで全く感情を見せなくなっていた妻が、両手を伸ばして女からそっと赤ん
坊を受け取る。
「可哀想に、お腹が空いているのね」
慈しむような妻の声。
赤ん坊を抱いたまま、妻は起用に服をめくり右の乳房を露にした。そしてその乳
首を、そっと赤ん坊に含ます。
「あらあら、慌てなくてだいじょうぶ、だいじようぶよ」
幸せそうな妻の姿にしばらくの間、男は見取れていた。ふと、まだ車の外に立っ
ている女のことを思い出す。
「外は寒いでしょう、さあ、あなたも車の中に………」
ところが、そこに女の姿はなかった。
男は再度車を降りて、辺りを見渡したが女の姿は発見出来なかった。
ほんの数秒の間に、完全に姿を消してしまったのだ。
「そんな馬鹿な」
まるで怪談話だ。しかし、妻の胸の中で乳を飲んでいる赤ん坊は確かに存在して
いる。 ふと気づくと、カーラジオからはクリスマス・ソングが流れていた。
街に戻った男は、妻と赤ん坊をホテルに休ませると、その足で警察に向かった。
あの女と赤ん坊の身元を調べるためである。
しかし該当するような女性の捜索願いはなかった。また各病院に問い合わせ最近
出産した女性や、行方不明になっている赤ん坊についても調べてもらったが、これ
も空振りであった。
「あなた、この子、女の子よ」
ホテルの部屋に戻った男を迎えたのは、赤ん坊のおしめを代えている幸せそうな
妻の笑顔だった。
男は不謹慎だとは思ったが、このまま赤ん坊の身元が分からないことを願ってし
まった。
その願いが通じたのか、赤ん坊の身元は分からないまま、一ヶ月が過ぎた。そし
て男は赤ん坊を正式に、自分の養子にした。
「ほら、外行くよ」
舞雪(まゆき)は、手にしたドッヂボールで男の子の頭をぽんと叩きながら言っ
た。
「いてぇなあ、お前もう給食、食い終わったのかよ」
「田崎くんが遅いだけだよ」
「ちっ、これで早食いは舞雪に三連敗か」
田崎努は、最後に残ったコッペパンを一気に口に押し込んだ。
「ほら、岡田くんも鈴木くんも、早く食べてドッヂボールしよ!」
教室中を飛ぶように駆け回りながら、舞雪はクラスメートたちに声を掛けていく。
その度に、ようやく肩まで伸びたばかりの髪がひらひらと宙を舞い、一定の形に留
まる暇がない。
「あら、結城くんはもう食べ終わってるじゃん。一緒に校庭に行きましょ」
舞雪は教室の一番前の席で、本を読んでいる結城仁史の腕をとった。
「いや、ぼくは………だって外は寒いだろ。風邪ひいちゃうよ」
「なに言ってのよ、子どもは風の子」
「ぼくの服は、ブランド品なんだよ。汚れたらこまるから」
「もう、ごちゃごちゃ言わないの」
舞雪の前では、仁史の抵抗は無意味だった。ずるずるとその身体を、教室の出口
にと引きずられて行く。
「はい、田崎くんパス」
そう言って、教室の外で待っていた努に仁史の腕を預ける。
「おい舞雪、なにもたもたしてんだよ。そんなんじゃ、給食を早く食った意味、な
いだろ」
努はじれたように言った。
「ゴメン、すぐ行くから」
舞雪はボールを投げた。努はそれを空いている片手で受けとめた。
「じゃ、先に行ってるから、すぐ来いよ」
「ぼくは、いやだって言ってるのに」
仁史が文句を言う。
「ま、舞雪に捕まったんだから、諦めるしかないだろ?」
努と仁史は、そのまま校庭へと向かって行った。その後を、数人の男子が追って
いく。
「紗紀ちゃんも行こうよ」
今度は教室の後ろの席で、給食を食べていた長い髪を一本に編み込んだ女の子に
声を掛ける。
「あ、ゴメン。まだ食べてた?」
見ると、紗紀の給食はまだ半分近く残っている。
「ううん、もうおなかいっぱいだから」
「じゃ、いっしょに遊ぼうよ」
「でも………わたし、とろいから………みんなに迷惑かけちゃうし」
そう言って、紗紀は大きな瞳を伏し目がちにする。本人が言うように、紗紀は運
動が苦手だった。けれど、決して嫌いなのではない。ただ内気な紗紀は、自分の入っ
たチームに貢献する事が出来ないのを、引け目に感じてしまうのだ。
その事を、親友でもある舞雪はよく知っていた。
「だいじょうぶ、紗紀ちゃんは、わたしが守るから。だから、ね」
「う、うん。それじゃあ」
「よし、決まった。じゃあ、これ、片づけていい?」
舞雪は紗紀の給食を指さす。
「あ、自分でやる」
手を付けていないコッペパンをビニール袋に入れ、紗紀は給食を片づけた。