AWC ヴォールの紅玉(42)       青木無常


        
#3498/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  96/10/ 6  19: 8  (200)
ヴォールの紅玉(42)       青木無常
★内容
 実体があるともないともつかぬ、小山のようなまぼろしの獣が、そのつぶやきにこ
たえるようにおだやかに視線を向ける。
 もはやそこには――妄執も邪悪も存在してはいなかった。
 ただ、とてつもない危険があるだけだった。
 無垢ゆえの危険、とでもいえばいい。
 それはすでに、おのれが何のためにどのようにして生まれてきたのかさえ自覚して
はいまい。
 ただまさに生まれたての赤ん坊のようにうつろに、ひたすら無邪気に、そこにある
だけだった。
 問題は、その無垢な存在が世界を震撼させるほどの力を内包していることだろう。
 見えぬその体内で、いましもあふれ出んばかりに逆まき荒れ狂う強大な力を感知し
て、ガレンヴァールは背筋を凍らせる。
 この存在が外界にまろび出せば、暗黒神のめざめを待たずして世界はゆっくりと、
滅ぼされていくにちがいない。
 赤ん坊のはいずったあとに残された廃虚を思い、邪法師はごくりと喉をならす。
「よかった……あんなもん飲まなくて……」
 心の底から、そうつぶやいた。
 そんな邪法師にむけて――
 出現したまぼろしの獣は、ゆらりと前進した。
 姿さえさだかならぬおぼろな存在の、圧倒的な力が噴きつけてくる。
 焼けるような熱風とも、凍って砕け落ちそうな冷気とも思えた。
 おぼろに吹きつける吐息のようなものでさえ、それだけの力を内包しているのだっ
た。
 冗談じゃない、とうめきながらガレンヴァールは、そのころころとしたからだを手
だけでいざらせる。
 無垢の視線でそんな邪法師のぶざまな姿を追いながら――まぼろしの獣は、さらに
一歩をふみだした。
 あまい芳香が、ふ、と邪法師の鼻先をかすめて過ぎた。
 それが前哨であったかのように――臓腑をうらがえすほどに強烈な腐臭が、どっと
襲いかかってきた。
 たまらず、げぼ、と反吐を吐いた。
 刺激に粘膜が反応して、涙と鼻水もふき出した。
 荒れ狂う狂気の兵隊が粒子と化して体内に侵入したかのような悪寒が、腹の内部で
暴虐の嵐を吹かせた。
 凶悪な悪寒であった。
“息子たち”で顕現した不快感とは、比ぶべくもない壮絶さだった。
 これは研究課題だ、と呑気な感想を抱きつつ、邪法師はなすすべもなくのたうちま
わった。
「ひどい。死んだほうがましだ」
 のたうちながらうめいた。
 答えて心地よいひびきの声音が耳にとどいた。
「だったら、ぜひ死んでいただきたいわね」
 身をおしもんで吐きつづけながら、邪法師は視線をあげる。
 悪夢の風をおし戻す見えぬ壁をはりめぐらせて、アリユスとシェラ、そしてダルガ
がそこにいた。
「ひどいぜ、風のアリユス」
 必死のていで通り名を口にし、ずりずりと小太りの道士は結界めがけてはいずった。
「わたしも入れてくれ」
「かわいそうだけど、ダメ」
 と、うれしげに笑いながらアリユスが宣告した。
 情けなげに涙と鼻水まみれの顔をゆがめるガレンヴァールを、シェラだけが気の毒
そうにながめやる。
 ダルガは一瞥さえくれず、額に縦じわを刻んで瞑目したまま、結跏趺坐して微動だ
にしない。
 何かを懸命に念じているような姿であった。
 すずしげに笑いながらアリユスがいう。
「お気の毒だけれど、いまはあなたなんかにかまっているヒマはないの」
 あなたなんか、の、なんか、にとりわけ力をこめた。
「それに、あなたのような人だって、あのはためいわくな化物同様いなくなってくれ
たほうが世の中のためだという気がするわ」
「冗談じゃない」
 うめき、からえずきを吐きながらガレンヴァールはいった。
「あんなのとわたしをいっしょにしないでくれ。あれは断じて神などではない。まし
て――真理などでは」
 最後のセリフだけは、底知れない苦渋をこめて口にした。
 そんなガレンヴァールをアリユスは、一瞬だけ真顔で見やり――そしていった。
「とにかく、おとなしく見物していることね。可能なら、できるだけこの場からはな
れたほうがよさそうだけど」
 むりをいうな、と苦情をのべ立てる邪法師にちらりと微笑を向け――真顔に戻って
アリユスはいった。
「では、そこで見ていなさい。忘れられた太古の神――ヴァルディスの炎を!」
 口にし、瞑目するダルガの背後に立ってひざをつく。
 そして呪文を口にしながらアリユスもまた目をとじた。
 ず、ず、と、巨大な圧迫感が、呼ばれた犬のように前進した。
 吹きつける存在感が、アリユスの見えない壁をゆるがす。
 真正面に受けて魔道士と少年は瞑目したまま、一心に念じつづける。
 力を。
 すべてを灰に戻す、強大な炎を。
 そのかたわらでシェラは、祈るような思いで見守るばかりだった。
 シェラの水の属性が炎のいきおいを削ぐおそれがある、とアリユスが告げたからだ
った。
 が、アリユスにはさらにべつの目算もあった。
 ともあれ、そうして見つめるシェラの眼前で――異様な内圧を秘めた光が、ダルガ
の体内に膨張しはじめた。
 あの、圧倒的な力にみちた炎の幻像であった。
 同時に――呼応するようにして、まぼろしの獣がずずずと壁めがけて一気に前進し
た。
 興味深い物体をそこに見つけたようにして、小山のような半透明のその巨体をアリ
ユスの“壁”にのしかからせた。
 じゃれるようなしぐさだったが――受けるほうはそれどころではなかった。
 く、と、アリユスの眉間のしわが深まった。
 同時に“壁”がゆらめいた。
 懸命に呪文をとなえつづけるが、力がいやおうなしに分散される。
 まずい、と稲妻のように思考がかけぬける。
 結界が破られて、この圧倒的な存在がのしかかってきては、すべてがおわりだった。
 だが“壁”を維持しつづけるには、おおいかぶさってくる存在の圧迫感はあまりに
も巨大すぎた。
 これまでか、とほぞをかむ底から――
 わき出るようにして、力がふくれあがってきた。
 ちらりと片目をひらいて視線をやる。
 祈るシェラと――ガレンヴァールであった。
「一蓮托生だからな」
 苦しげに軽口をたたき、片目をつぶってみせた。
 微笑を唇の片端に刻みこみ――アリユスはふたたび瞑目する。
 ダルガの内側にふくれあがった火球の内圧はいまや臨界ぎりぎりで、いまにも弾け
飛びそうだった。
 だが――まだたりない。
 頭上にのしかかる巨大きわまりない存在を吹き飛ばすには、まだ圧倒的にその力が
不足していた。
「賭ね」
 小さくつぶやき、アリユスはいっそうの念をダルガの精神世界に向けて凝集した。
 遠い、遠い時の彼方に封印された、大地の底に渦まく大いなるうねりにさえ匹敵す
るほどの力を秘めた存在がそこにはうごめいていた。
 深い。
 あまりにも底知れない。
 狂気のように野放図で、地獄をも焼きつくすほど獰猛だった。
 制御しきる自信は、まるでなかった。
 それでも、ほかに手はない。
 みしみしと盛り返した結界がふたたびきしみはじめるのを感知する。
 力を送りこんでくる太った邪法師の念が、はやくせんかい、と焦慮にみちた督促を
投げかけてきた。
 かすかに微笑み――呼びかける。
 暗黒の底に向けて。
 そこに燃え盛る、凶猛なる炎に向けて。
 ダルガの底に眠る存在がわずかに首をもたげ――
 つぎの瞬間、爆発した。
 ぎりぎりまで膨れあがっていた内圧が一気にはじけて“壁”を一瞬にして破り――
 おぼろで強固な悪夢の獣を、その光圧でぐばりと圧しかえした。
 小山のような巨体が大きくはねあがり、苦鳴が世界をゆるがせた。
 のたうつ。
 そこに向けて暴虐な炎が、怒涛のようにおしよせる。
 一瞬にして――神にも比すべき力を秘めたまぼろしの獣は、光塵と化して消失した。
「やった!」
 思わず快哉を叫び――すぐにそれは抑えようのない焦慮に、とってかわられた。
 膨張する強大な炎は、瀑布のように荒れ狂いながらなおもあふれつづけた。
 暴走だった。
「シェラ!」
 叫び、アリユスは今度はすばやくシェラの背後にまわった。
 属性の水を暴走するダルガの炎に向けるためだった。
 呼応してシェラもすかさず印を結び、爆発する炎の流れに意念を集中する。
 魔道にはまるで無頓着なダルガとはちがって、多少とも行をおさめているシェラの
力はすぐにわき出した。
 だが、圧倒的に力がたりなかった。
 アリユスは歯がみする。
 ガレンヴァールの力を借りる手もあるが、いずれにせよ焼け石に水だった。
 ヴァルディスに匹敵するほどの存在でなければ、この暴走を抑制することなどどだ
い不可能なのだ。
(ヴァルディスに匹敵する存在……)
 苦渋にみちた思考の内部で、めまぐるしく考えた。
 あった。
 ひとつだけ。
 しかし、それを呼ぶことは、シェラの破滅を一歩近づけることでもあった。
 絶望感にさいなまれつつ、アリユスは薄目をひらく。
 シェラの瞳が、真正面から見つめていた。
 ゆるぎない決意がアリユスに向けてうなずいてみせる。
 苦渋をかみしめて――
 アリユスは印形を結んだ。
 虚無からとらえて悪夢で鍛えた、七本の無窮の剣はそのまま世界をおおう暗黒の薔
薇の図像でもあった。
 印の意味するところは疾く、底知れぬ暗黒へと警報を発し――
 そして――夜よりも、宇宙よりもなお深く、底知れぬ闇が顔をあげる。
 天界よりいたりて暗黒神と同列にならぶ者。
 時を支配する神ガルガ・ルインを、時の壁の彼方でひきつぶした大いなる力もつ貴
公子。
 かなわぬ恋を追いつづけ、永遠と無窮とのあいだを放浪する存在。
 地獄の公爵スティレイシャ。
 ――後継者争いにまきこまれてシェラは、実の兄の手によってその祭壇に捧げられ
た。
 それが、シェラのもって生まれた宿命でもあった。
 イシュールでも有数の魔道士、アリユスの尽力によって暗黒の王の手にかかり永遠
の顎のもとにくわえさられることこそ免れたものの、大いなる存在の影はつねにシェ
ラの背後につきまとっている。
 それが手をのばしてこないのは、アリユスの設けた結界のせいであるよりは、気ま
ぐれな公爵の気分によってである可能性のほうが大きいだろう。
 それでも、このまま遠ざけておける希望はあった。
 ――みずから呼ばわらぬかぎりは。
 救援を求められれば守護神然とかけつけることは充分に予想できたが、そのあとに
どう動くかはまるでわからなかった。
 最悪の場合、シェラの魂は闇の鉤爪にかけられて地獄の底へと運び去られるだろう。
 それでも、シェラはうなずいたのだ。
 世界のために。
 そしてあるいは――ダルガのために。
 発現点たるダルガ自身を焼きつくすいきおいで膨張する、凶猛なヴァルディスの炎
に向けて、黒い闇をマントのようにひろげた大いなる存在がふわりと接近する。
 闇と炎とがからまりあい、暴風のように荒れ狂った。
 竜巻のように虚空をまきあげ、悪夢のように重く果て知れない闘争を展開する。
 魔神は炎に焼かれ、古代神は闇にまかれた。
 このままでは、この闘争自体が世界を滅ぼしかねない――苦渋とともにアリユスが
思いをかみしめたとき――
 さらにべつのものが、反応した。
 ダルガの中で。
 目をみはる。
 この上、この少年の内部にいかなる存在が眠っているのか。
 そして、思い出した。
 ダルガの属性。
 炎と――そして、空。
 空は闇。
 ダルガ――暗黒の龍!
 スティレイシャが降臨するはるか以前から、バレースの空をかけめぐりバレースの
闇を支配してきた存在だった。




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