#3496/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 96/10/ 6 19: 1 (200)
ヴォールの紅玉(40) 青木無常
★内容
ひとまわり増大したことを、アリユスは感じていた。
「悪夢だわ……」
ひそかに、そうつぶやいていた。
げぷ、と赤ん坊は満足そうに音を立てて黒い煙を吐いた。
そしてゆっくりと四囲をながめわたし――いった。
「まだたりぬ」
と。
そして、その悪魔の視線を――マラクの顔上に固定した。
にたりと笑う。
「マラク。おまえも、わたしの力となれ」
告げられた言葉とともに、暗黒がゆらりとゆらめいて再度、その手をのばした。
「いやだ!」
赤い妖魔は叫び、接近する暗黒をはらいのけるようにして四本の腕をふりまわした
が――なんの効果も迫りくる暗黒に対してはおよぼせぬようであった。
均整のとれた巨体がかるがるとつるしあげられ、もがき狂うのにもまるで頓着せず
暗黒の翼はサドラ・ヴァラヒダのもとにマラクの肉体をとどけた。
「歓喜せよ」
憎悪の視線を投げかけるマラクに向けて、赤ん坊は傲然といいつつ笑いかけた。
マラクの誇り高き野蛮な美貌が、恐怖にひきゆがむ。
その美貌もまた一瞬後には――妖魔王の小さな口にのまれて、消失した。
むくりと、その邪悪な気配がさらにひとまわり巨大化する。
そうしてサドラ・ヴァラヒダはさらに視線を周囲にはしらせ、うめいた。
「ある」
そして――
ぎろりと、アリユスのいる方向にその邪悪な凝視を固定した。
「ある」
くりかえす。
ふ、う、う、と、とじた唇の両端から黒い息をもうもうと吐きだし、笑った。
「あるぞ。たしかにある。感じる。近い。ごく近くだ」
いいつつ、なおも凝視を投げかけ――
首をかしげた。
「だが、まだおぼろげだ」
そして、その視線をぎろりと、最後に残った妖魔、シャダーイルへと向けかけた。
が――
黒い巨魔は、マラクやレブラスのようにはみすみすとのみこまれるつもりはなかっ
たらしい。
妖魔王の睥睨が自分の頭上に固定される寸前――
弾かれた玉のようにシャダーイルは、地を蹴りつけてはしり出していた。
盛り上がった筋肉が強力にうごめいた。
たたきつぶすつもりらしい。
反応しきる間もなく、黒い巨魔は赤ん坊の小さなからだの前に立ちはだかり――そ
の右腕を高々とさしあげた。
ふりおろせば、ぐしゃぐしゃにつぶされた肉塊がその下に製造される――呆然と見
やりつつ、アリユスはその光景を思わず思いうかべていた。
ハンマーの一撃が頭上にふりそそぐ。
暗闇の中、石柱内部は血まみれになっていた。
びしゃ、びしゃ、と血の海をふんで近づく気配に、瀕死のエレアはうつろな視線を
投げあげる。
「エレアさま」
と、すずしげな声が抑揚を欠いた口調で呼びかけた。
答えようとしたが、うめき声が喉をよわよわしくふるわせただけだった。
地獄の激痛にすり切れ、麻痺した精神がかすかに、近づいたおのれの死を自覚する。
自分はやはり生け贄にすぎなかったのだ、と、苦々しい想念がおぼろにうかんだが、
それもまるで深い泉の底にゆらめいた水草の影のように、うつろで遠かった。
それでも、もやのかかったようなおぼろな視界にエレアはそのひとの顔を識別して
いた。
ソルヴェニウス、と唇の形がよわよわしく呼びかける。
紙のように白くなった頬に、青年はいとおしげに手のひらをよせた。
愛撫するようにして、指先をうつろにはわせる。
「お気の毒に、エレアさま……」
静かな声音で、そう告げた。
死神マージュの呼びかけを片方の耳でとらえながら、エレアは現実界の青年の言葉
に反応し、みずからの境遇と重ねてわきあがる悲哀に、涙をにじませた。
このまま死んでもいいのかもしれない。
そんな、意味のない諦念をかすかなやすらぎとともに感じた。
やさしげな思い人の――つぎの言葉を耳にするまでは。
「ですが、おかげでどうやら“紅玉”のありかもわかりそうです。感謝しますよ、エ
レアさま」
ソルヴェニウスはいって、淡く微笑んだ。
美貌の青年にその微笑みをうかばせるために、躍起になってあれこれ気を使ったこ
ともあった。
そんな微笑みであった。
怒りや憎悪はわかなかった。
ただ悲哀が、いっぱいにわきあがっただけだった。
自分は何のために生まれてきたのだろう、とひろがる悲哀の底で涙とともに思った。
元来、それほど強い娘ではなかった。
弱く、傷つきやすい、小さな魂の持ち主だった。
その魂が、愛する父に蹂躙され引き裂かれ――そして今またここで、かつての思い
人に非情な言葉を投げかけられて、ガラスのように粉々に砕けて落ちた。
悲哀もまたふりそそぐ瓦礫のような魂の破片に、うもれて沈んでいく。
そんなエレアの想いも知らぬげに、やがてかすむ視界の向こうでソルヴェニウスは
立ちあがった。
死にかけた娘に背を向け、暗闇の中から、淡い青の燐光でみたされた外の世界へと、
声ひとつかけることなく歩み去っていった。
このまま死んでいくのか、と、うつろに落下していく意識の中でエレアはかすかに
考えた。
悲哀も何もかも、わきあがってきた暗黒の中にのみこまれていく。
せめて、だれかわたしを見送って、とわずかにうかんだ切実な想いも、わきあがっ
た水泡がはじけるようにして消えていった。
その暗黒を――おしのけるようにして、野蛮な叫びが傍若無人に呼びかけてきた。
「エレア!」
と。
もう、そっとしておいて……と、おぼろな意識の底で考えた。
だが、そんなエレアの思いを無視して声は、さらに暴虐にひびきわたった。
「エレア! この、お嬢さま! 馬鹿野郎、死ぬな!」
心地よい暗黒からむりやりに意識をわしづかんでひきずり出そうとするその呼びか
けに、おぼろないらだちとそして――かすかな希望を抱く。
うすく、目をひらいてみた。
冷徹の仮面に鎧われていたはずの黒髪の少年の顔が――涙にぐしゃぐしゃにぬれな
がら自分を見おろしていた。
願望の生んだ錯覚なのかもしれない、と少女はかすかに思った。
錯覚でもいい。
心のかたすみでそうつぶやいて、かすかに微笑みをうかべる。
「無礼……者……」
自分の唇が奇跡のように言葉を発するのを、まるで他人事のように耳にしていた。
「わたく……しに……ふれても……いいの……は……」
そこまでいって、力がつきた。
最後にもう一度、かすかに、かなしげに微笑んで――
エレアは、その命の灯をとぎらせた。
「ダルガ……」
少女の小柄な亡骸を抱きしめるようにして抱えあげたダルガの背が、すべての動作
を凍結してぴたりと動かなくなった。
シェラの呼びかけにも、少年はまるで反応しようとはせず、見ひらいた目で頭をた
れた少女の、愛らしい顔をにらみつけるようにしていつまでも見おろしている。
そのかたわらには、ひび割れて裂けた空間のほころびから半身をはい出させるよう
にして、髭面の剣士のからだが倒れ伏していた。
その顔貌は――妄執をはらせなかった無念に歯をむき出しにして怨念を叫んでいる
とも、また、あらゆる苦痛のくびきからたたれるその瞬間にうかべた歓喜の表情とも
つかず――ただ見ひらいた目で虚空をうつろにながめあげているだけだった。
「ダルガ……」
もう一度シェラは呼びかけ、歩みよって少年の肩に手をのばした。
その手が、宙で静止する。
氷結していたダルガの肩が、小刻みにふるえているのに気づいたからだった。
ダルガ、と、出かかった呼びかけをのみこみ、シェラは顔を伏せた。
「お……」
と、ダルガは全身をふるわせながらうめいた。
「おお……おおおおおおおおおおおおお!」
そして――エレアの、力のぬけた小さなからだを抱きしめたまま、天をあおいで咆
哮した。
34 抗魔の戦士
巨大な黒いこぶしが、ハンマーのようにふりそそいだ。
怒涛のいきおいでふりおろされるその凶手を、サドラ・ヴァラヒダはにこやかに笑
いながら見あげている。
ごぶ、と、重苦しい異様な音がひびきわたった。
思わずアリユスは、顔をそむけていた。
反射的な行動だった。
そしてすぐに、おのれの行動が実質的にはまるで無意味な、本能的なものであった
ことに思いあたり、ハッと視線をあげる。
打ちおえた姿勢のシャダーイルの巨大な背中があった。
その下で、無邪気に微笑む赤ん坊の姿も、また。
見えぬ壁にはばまれでもしたかのように、黒いこぶしが潰されていた。
どす黒い液体がつたい落ち、赤ん坊の額にぴしゃりと打ちつけた。
つやつやとした額をすべり落ちて妖魔の血液は鼻わきをすりぬけて無邪気に笑う唇
へと達し――ぞろりと現れた十数枚の舌が、それを愛しげになめあげた。
満足そうに、にい、と笑う。
そして赤ん坊はその小さな口をいっぱいにひらいて――
吼えた。
咆哮とともに吹き出した暗黒が、巨魔の肉体を枯れ葉のように吹き飛ばした。
ひざをついて呆然と見守るアリユスの肩をかすめて、黒い巨体はさらに飛び――背
後の壁に、クレーター状の陥没を描きあげてめりこんだ。
ぐう、と巨魔の喉がよわよわしくうめきをあげる。
「すなおに、わが一部となればよいものを」
にこやかに笑いながら天使の笑顔が地獄の言葉を口にした。
その血走った双眸が――じろりとアリユスに向けられる。
「だが、どうやらその必要もなさそうだ」
暗黒を吐きながら、妖魔王はいった。
「“紅玉”は、おまえがもっているのだろう」
にたりと、笑った。
暗黒がぐらりとかたむき、再度、赤子の小さなからだを抱えこんで宙を滑空させは
じめた。
アリユスの眼前まできて妖魔王はそのままとどまり、黒い息を吐きかける。
「どうだ?」
アリユスは答えず、唇をかみしめた。
サドラ・ヴァラヒダは憎々しげにその小さな顔を歪め――
「どうなのだ!」
吼えた。
吼えながら、凶猛な暗黒をその口から吐き出した。
アリユスのからだが吹き飛ばされた。
「く……ユール・イーリアよ!」
吹き飛ばされながらアリユスは叫び、すばやく印形を結ぶ。
間一髪、四囲をかこった結界が緩衝となって激突の衝撃をやわらげた。
が、すべてを吸収しきる、というわけにはいかなかった。
痛撃を背中に受けてアリユスはうめき、崩れるようにして前方にたおれこんだ。
そのふところから――ごろごろと、まるいものがころがり出した。
拳ほどの大きさの、薄紅のゼリーのようなかたまり――
「おお!“紅玉”!」
叫び、滑空するサドラ・ヴァラヒダの眼前に――
黒い影がすばやく立ちあらわれ、ころがる淡紅色の球をひろいあげてかけぬけた。
怒気が暗黒の蒸気となって妖魔王の口もとからあふれ出す。
紅玉を抱えこみながらほくそ笑みをうかべてふりかえったのは――ガレンヴァール
であった。
「化物めが。おまえなどに不死なる存在の肉など、もったいないわ」
こずるく笑いながら告げ、くわ、と大口ひらいた。
吐き出された闇が、弾丸のように赤子を強襲した。
それをサドラ・ヴァラヒダは――真正面から受けとめた。
口をひらいて、のみこんでしまったのである。
げっぷ、と黒い煙を吐いてぎろりと邪法師をにらみ、にたりと笑った。
「これはいかん。息子たちよ!」
邪法師の叫びに答えてわらわらと現れた螺旋の金属塊が、その戯画のような手足を
せわしなく動かしながら浮遊する赤ん坊の背後の黒い影にむけて殺到した。
めんどうそうに妖魔王は小妖物に視線をめぐらし、ふん、と鼻をならす。
同時に、暗黒がひろげた翼をはためかせた。
たかりかけていた“ガレンヴァールの息子たち”はつぎの一瞬――ひきつぶされた
猫のように、まだらの臓物をはみ出させてひらべったく潰されていた。
だがその一瞬のすきをついてガレンヴァールは――手にした球をのみこもうとして
いた。