#3424/5495 長編
★タイトル (XVB ) 96/ 9/17 19:29 (187)
月狂いの夜2 $フィン
★内容
物質派、精神派どちらの月狂いにしても社会に疫病を巻散らかす鬼、得体の知れぬ
ものとして抹殺されていくのが当然の生物ですから、人間の手を煩わすことなく、さ
っさと自分たちから出てきて片付けて貰えば、社会も住みやすくなるってものでしょ。
そう思いませんか、マスター。おっと、グラスが震えていますよ。マスターは月狂
いとはまったく関係のない人間のはずですから、そんなに怒ることはないでしょ、ね。
月狂いの話は止めて、ルナティックの話に切り換えるのですか。ほう、マスターは
ルナティックたちの気持ちが少しはわかるような気がするのですか。おれは月狂いに
も、ルナティックにも、もうなれない身体になってしまいましたから、関係ないので
すが興味はありますよ。
ルナティックたちは月狂いには成れる資格は持っているけど、どこか心理的になり
たくないと思っているからなれない連中だって。ほうそれは初耳です。物質的には月
狂いになるには別に月の光に当たらなくてもなれるっていうのですか。ふうん、そん
なものですか。変ですね。月狂い、ルナティックのことを調べている政府の学者さん
は原始的な爬虫類脳が人間に残されていて、大脳中枢と爬虫類脳の調節が狂って月狂
いになるものだと云っていますよ。
あいた。今度はマスターのグラスが割れてしまいましたね。このグラスどうなって
いるのでしょう。弱いですね。これ欠陥品じゃないのですか。ああ、悪い、お店の物
にけちをつけるつもりじゃないですよ。あくまでこれも挑発、ゲームの一種と考えて
ください。
今度はおれが話す番ですね。さっきはどこまで云ったでしょうか。ああ、ルナ事件
まででしたね。
月への貢ぎ物をするつもりの馬鹿な月狂いがルナティックたちの中に爆弾を投げ込
んでくれて、おれはそのとばっちりを受けて一度は死んだのです。
その後、政府の調べでも、おれ独自の調査方法でも、あのルナ事件の犯人は捕まっ
ていないから、そのまま犯人は月に操られたルナティックたちと一緒にあの世行きと
云うところでしょう。ルナティックのようなやつらでもあれだけたくさん殺したもの
だから、犯人もきっと地獄にいってますよ。これも自業自得と云うものでしょう。
マスターもそう思いますよね。マスターはルナ事件の犯人はまだ生きているって云
うのですか、その根拠は? 月狂いはルナティックたちを殺したりはしない。ルナテ
ィックも月狂いもどちらも表では反目しあってはいるが、深層ではお互いに通じてい
るものがいると云うのですか。ふうん、そんなものですかねえ。おれにはどちらも月
にいかれきった連中にしか見えないのですけど。
とにかくおれの遺体は政府のちゃんとした研究室に運ばれました。おれのどこが政
府の役人たちに気に入れられたのかわからないのです。なんでもおれが生き返ったの
はいくつもの偶然が重なった奇跡だと政府の高官が云ってくれました。
本当に偶然って恐ろしいものですねえ。満月の夜にエリア8のロードに歩いていな
けれは、おれはルナ事件に合って死ぬこともなかった。次に肉片だけが散乱するロー
ドの中で唯一頭部だけが無事だったのもおれだけだったらしい。政府が研究開発して
いたものがおれが死んだ直後に完成したのも偶然の一致だと云います。それからこれ
以上おれの口から云うとくどくなってしまうのですけど、おれは政府が造ったものに
合いすぎるぐらい合っていたということなのです。
政府当局はおれのことラッキーボーイだと云ってくれましたよ。こんなに偶然の一
致が起こるのは珍しい特殊なことだって、一つでも狂っていたら今の君は生まれてな
いのだよって云ってくれたのです。
・・・どうしたのですか、黙りこんで、ラッキーと云ったのはおれにとってのラッ
キーではなく政府にとってラッキーだったのかもしれないって云われるのですか。ど
うなのでしょ。それに本当に偶然の一致だけだろうかって云うのですか、できすぎて
いるとでも? さあ、おれにはよくわかりません。あの政府が云ってくれているのだ
から本当のことなのでしょう。もし、もし何です。まだ云うことがあるのですか?
これが偶然ではなく始めから仕組まれていたものなら、つじつまが合うって? はは
は・・・そんな馬鹿なことないですよ。
おれがそんなに数千人ものルナティックの命を巻き添いにするほど立派な人物に見
えますか? 見えないでしょう。おれは昔防弾チョッキなしでは歩けなかったほど臆
病な若者だったのですよ。そんな臆病なおれに政府が目をつける理由なんてどこにも
ありませんよ。それにおれが政府だったら、満月の夜に、こともあろうにルナティッ
クたちと一緒にロードにいる馬鹿な若者なんて、そのまま見殺しにしてしまいます。
そんなおれを助けてくれた政府を、政府が与えてくれたものがどんなものであっても
ね、疑うことなんておれにはできませんよ。
おれの偶然はそれだけじゃないのです。おれの後も頭部が無傷の死体は何度もその
筋の研究機関に運ばれたと噂だけは聞いているのですが、未だにおれに続くものが現
われていないところをみると、おれを襲った偶然とおれの強運は非常に特殊だったよ
うですね。
おれは政府の研究室に運ばれ、頭蓋骨と脳髄を分離した姿で、ガラスの容器にぷか
ぷかと浮かんでいたのが約一日。正確に云うと25時間13分32秒の間ガラスの容
器におれの脳髄がぷかぷか浮かんでいたと記録されています。
おれの脳髄だけがぷかぷかガラスの容器に浮いている光景なんて結構シュールです
よね。マスター、青い顔してどうしたのです。何、吐き気がしてきたのですか。それ
はいけませんね。お酒がきつすぎたのかもしれません。トイレ行って吐いてきます?
大丈夫? 本当ですね。では続きを始めます。、
おれの脳髄がガラスの中で浮かんでいる間に移植の準備、移植ユニットの整備と術
者の捜索をたった一日で大勢のものがしたと云われています。
脳髄を収めているガラスの液剤は人間に含まれている成分とほとんど同じもので、
脳髄がその中に収められている限り永遠に意識体としての死は訪れることはないと云
われているのは現代の常識です。それなのに、おれの場合はたった一日しか、おれの
脳髄がガラスの容器にいられなかったのはいくつか原因があったようです。
各種の動物実験を経て、初めて移植を行なうのがおれの脳髄だったということもあ
ったかもしれません。それにどれぐらい脳髄のままでおれがぷかぷかと浮かんでいけ
るものか、政府の連中もわからなかったのでしょう。
どうせするなら生きのいい方が成功率も高い、おれじゃなくても無傷の脳髄さえあ
れば次の実験ができると考えて、簡単に処理を考えていたのかもしれません。
でもおれは政府にとって最初で最後の成功例だった。すでに死んでいる実験体だか
ら、どうせ失敗してもいい、成功してもたいしたものはできないと踏んでいた節があ
ります。おれが気づいてからの待遇もそんなにいいものじゃなかったですし・・・。
後にも先にもおれ以外の移植の成功例はまだ聞いたことがないのだから笑ってしま
います。
おれの顔に何かついています? マスターにそうやってじろじろ見られるとおれ恥
ずかしいですよ。気がつかないかって、何をです? 愛ですか。おれそんな趣味ない
です。違うのですか。マスターがじろじろ見てるからてっきり・・・おれに対する政
府の対応ですか。人間の権利を尊重すれば政府はそんなことするだろうかって、それ
じゃおれが月狂いだから実験体になったと云うのですか。冗談じゃないです。おれは
まっとうな人間だったのです。政府の役人もそう云ってました。おれを月狂いと一緒
にして欲しくないです。マスターが云うのが本当なら、政府はおれのこと馬鹿にして
いますね。
それによくは知らないのだけど、おれの移植の時期が早まったのはもう一つ原因が
あるようです。おれ、ある人からその頃の記録簿を見せてもらったことがあります。
何でも研究所でアクシデントがあったようです。設備、器具の損傷ではなく、人事
的なもので、研究所の関係者が何らかの事故、事件、もしくは月狂いではない昔なが
らの狂気に襲われるもの、最悪の場合は家族の者を道連れにした原因不明の死を迎え
たものがいたりして、その後の人生を棒に振った偶然も少ながらずいたそうです。
偶然がそんなに何度も起こるのはわからない? 首をひねってマスターでもわから
ないことがあるのですね。安心しました。今までのマスターは何でも知っているよう
な口ぶりだったので、おれ少し不安になっていたのです。このゲーム落とすのじゃな
いかと思って、おれがこんなにも気が弱くなったのは初めての経験だったかもしれま
せん。その癖いつまでもこの楽しいゲームを続けていたいような・・・マスターもそ
うですか。
おれには何故不幸なことが起こったのか簡単にわかります。それは奇跡的な偶然が
たまたま起こったからです。政府の役人の中には月狂いの襲撃とかおれを蘇生させよ
うとしたのが一番の原因だとか根も葉もない噂でおれを中傷した非科学的な役人もい
たようですが、彼らは皆不慮の事故、八割の者がそばに通りかかった車にたまたま偶
然に引かれて死んでしまったそうです。
とにかく、おれがルナ事件で遺体となって25時間13分32秒後に、高隙博士が
おれの脳髄をガラスの容器から出して移植をしてくれました。本当はおれの移植は高
隙博士ではなく、他の術者がたまたま偶然に死んでしまったものだから、政府は慌て
て北の僻地に隠れ住んでいた高隙博士を探し出さなければいけなかったそうです。
おれの脳髄とボディの移植がどんな複雑だったのかわかりません。おれの内部構造
はすべて脳髄から発せられる神経繊維と神経パルスを各ボディの節々に温点、冷点、
圧点、痛点、各感覚機能まで接ぎ、まったく普通の人間と同じ、いやそれ以上の感覚
を味わうことも可能にしてくれてます。
更に外見は目の光彩、内蔵器官にまで完全な生体人工物なのに特殊な機械で計って
ようやくわかるようなものを与えてくれました。昔のSF映画に出てくる機械仕掛け
の人造人間にでもされていたら、泣きたいときでも涙を出すこともできませんけど、
脳髄からの指令で涙腺の調節まですることができます。おれには余計なものですけど、
人間らしさを出すにはこれが一番だと高隙博士は云っていました。
おれの移植は成功して再びこの世に生を受けたとき、初めに聞いたのはおれの生命
維持装置の音でした。初めて眼に写ったのはある少女の顔でした。
このときの少女、高隙博士の娘、高隙香織はおれの目覚めるのを知っていたかのよ
うにおれの部屋で待っていたのです。
今でも覚えています。気の性かもしれませんが、おれは彼女の心臓の鼓動まで聞き
取ることができました。眠っているおれをよく見ようと彼女は大きな栗色の瞳で覗き
こんでいました。おれと眼が合うと彼女は微笑み、予め用意していた手鏡をそっとお
れに渡してくれました。おれは微調整も済んでいない身体をぎこちなく、ピノキオの
ようにね、おれはよくやく受け取ったもののそれをぐしゃと握りつぶしてしまいまし
た。彼女は少し困った顔をして、おれの顔を見ていました。ポケットから小さな携帯
用手鏡を出して、今度はおれに握らさないようにして、おれの顔を見せてくれたので
すよ。
彼女が見せてくれた鏡には、黒い髪、黒い瞳を持つ見知らぬ男が写し出されていま
した。おれは見知らぬ男の顔をどれぐらい見詰めていたのかわかりません。
横顔を見る。右から左を見る。それでも飽きたらす、下からも覗いたりもしました。
おれが次にしたことは頭を抱えることでした。こんな男知らない。こんなのおれじゃ
ない。だけど、目の前にあるのは鏡だという認識だけは残っていました。鏡に写って
いる見知らぬ男はおれだと認めるしかなかったのです。
おれの脳髄にまったく損傷がなかったとは云え、おれは一度死んでいるのですから、
脳髄が驚いて記憶喪失になるぐらいわけないことでしょ。少しずつ前の記憶を思いだ
せばいいと彼女は云っていたのですが、未だにおれの脳髄はルナ事件より以前の顔を
思い出すことができないのです。それにおれが以前どのような生活をして、どのよう
に生きていたこともね。
彼女もそんなおれのことを気にしてくれて、おれの過去をかなりやばいところまで
調べてくれていたようです。さっきからマスターに云っているルナ事件、防弾チョッ
キ、研究室でのアクシデント、すべて彼女が必死になって調べてくれたのです。政府
のものがおれの過去のことなんて一言だって云うはずないですか。考えてみればわか
るでしょ。
おれの記憶がないって、大変だろうって、そりゃあまあ、おれが過去どのようなこ
とをしていたかはまったく気にならないと云えば嘘になりますが、おれは過去のこと
より今のおれを大事にしていきたいと思っているのですよ。
おれそんなに強くないですよ。おれが嫌がっていることをマスターは何としてでも
こうやって、聞き出そうとしているじゃないですか。おれの過去のこと、特に彼女に
ついては本当は触れてほしくないのですよ。だけど、マスターは強いですから、おれ
は嫌々云っているのです。わかってくれます。
眼覚めたおれは彼女としばらく話をしていました。彼女はおれの眼が奇麗だと云っ
てくれました。でもおれ、この眼の色嫌いです。だってそうじゃないですか。猫の眼
のように夜になると光るのですよ。こういう眼は月・・・違う、そうじゃない。おれ
は・・・断じて、絶対に違います。
おれは微調整のため研究所にいた間、彼女はおれに今の名前矢尾惟を考えてくれま
した。前の名前はわかっているのかだって? 8号です。政府がつけてくれました。
その名前じゃないだろって? おれの正式な名前はそれですよ。ルナ事件前のですか。
知りません。関係ないでしょあなたには、おれの昔の名前聞いてどうしようと云うの
です? あなたがおれの友人だったとも云うのですか。おれはマスターとは初めてあ
ったと思いますよ。マスターも初対面だとさっき云ったじゃないですか。変な人です
ね。
彼女も俺の過去の名前を何やら探してくれてたようですけど、おれのルナ事件前の
名前は政府の極秘事項にでもなっているのか彼女でもわからなかったようです。
彼女の父親が術者だったせいもあって、彼女はおれ専用の看護婦みたいになってい
ましたよ。もっとも他のものはおれの周りに寄るのを嫌がっていたようでしたから、
必然的に彼女がおれの世話をしなければならない状況になっていたのですけどね。彼
女も父親が術者でなくてもおれの世話をしたがっていたみたいです。
おれは彼女のこと好きだったのかと云われるのですか。さあどうだったのでしょう。
おれのこと親身になって世話をしてくれてましたから、彼女はおれに好意を持ってい
たのかもしれません。おれは関係ないけど。
そんなおれの世話をしてくれた彼女ももういないですけどね・・・彼女とは別れた
のかだって、いいえ、彼女は死にました。おれ・・・これ以上云いたくないです。マ
スター・・・あなたって残酷ですね。薄々感ずいているのでしょ。彼女がどうなった
のかは、そうですよ。マスターの思っているとおりです。
おれが・・・おれが彼女を殺してしまいました。