AWC 『早春賦』 第八章(2) ・峻・


        
#3202/5495 長編
★タイトル (NFD     )  96/ 2/18  20:48  ( 87)
『早春賦』 第八章(2) ・峻・
★内容

 みんなでそろって学校を出た。
 校庭の桜は、うす赤いつぼみをいっぱいにふくらませて、長く道路の上まで枝をの
ばしている。ぼくたちはその下をならんで歩いた。
 ぼくはバイオリンをやめる。
 いま練習しているソナタをしっかり仕上げて、それを最後にしよう。こんどの土曜
日、先生にそう言おうと思う。
 八年間ひとつのことをやってきたことは、むだだったとは思わない。これからのぼ
くの、きっとなにかの役に立つはずだ。
 妹の麻里が、去年からバイオリンを習っている。麻里は自分からやりたいと言って、
教室に通い始めた。あの負けずぎらいなら、ぼくがはたせなかった両親のゆめをかな
えてくれるかもしれない。
「きょうは、彰くんもやるんでしょう?」
 先を歩く智子が、ぽんぽんとボールをたたきながらぼくをふり返った。
「うん」
 雄介と千春がもどってきたら、空き地でドッジボールをしようと、みんなで決めて
いた。
 さっき智子からそれを聞かされたとき、ふたりともちょっととまどったように顔を
見合わせたが、反対しなかった。
 みんなでだらだら坂を上っていく。昼の坂道は、春の日ざしでゆらめくように暖か
い。
 行き止まりの路地のおくで、中学生にけりつけられたあざは、まだぼくの背中に残
っている。
 あのときのめまいのような感覚は、けがのことを両親に知られないようにふろに入
り、暖められたきずの痛みに思わず声を上げそうになったときにも、ふとんの中で歯
をくいしばって、やっと寝返りをうったときにも続いていた。
 いま、ぼくの体はここにある。
 雄介のように、思い通りに自分の体を試しているものには、あたりまえのことのは
ずだ。
 小さいときから、体の具合を気づかいながら育ってきた博史も、きっといつも感じ
ていることだろう。
 でも、こんなことに、ぼくはあのとき初めて気づいた。
 雄介がぼくの背中をとんとたたいた。
「永瀬、こんどちゃんと野球を教えてやる」
「ありがとう。バイオリンを教えようか」
「いらねえよ」
 雄介が笑ったとき、先を行く女子たちの足が止まった。
「トラックが来ている」
 女子のだれかが言った。
 空き地の中に、大きなトラックが二台乗りつけられている。
 なにが起こっているのか、ぼくにはすぐにわかった。
 ひと月前、トタンべいが消えて境がなくなっていた道路と空き地のあいだには、ふ
たたびくいが打たれ、針金のさくが張られていた。その中で、おおぜいの作業服の男
たちがいそがしそうに立ち働いている。
「四階建てのアパートができるんだって」
 クンチが、さくに取りつけられた工事の看板を見上げた。
 ベニヤ板のホームベースも、ぼくが作った風よけのダッグアウトも、もうどこにも
なかった。
 雄介が名誉をかけて戦い、ぼくやフンチたちがあの恐怖を味わって取り返そうとし
た空き地は、二度と手の届かないところに消えてしまった。
 ぼくたちは無言で、トラックの荷台から、大きな機械がつぎつぎに運び下ろされる
のを見ていた。
 博史がぼくの横に立った。
「なくなったんだね」
 ぼくは博史の声の明るさに気づいた。
「そうだね」
 ぼくにも悲しいという気持ちはなかった。心のどこかに、確かに満たされたものが
ある。きっと、ぼくたちがほんとうに取りもどそうとしたものは、この空き地ではな
かったんだ。
 ぼくは目で雄介をさがした。
 雄介は一番うしろにいた。両手を首のうしろで組んで、女子たちの頭ごしに男たち
の仕事をじっと見つめている。
 そのとなりに、かたを寄せるようにならんだ千春の目が光っている。
「もう野球、できないのね」
 前を見たまま小さくつぶやいた。
「まあ、いいか」
 雄介は片手で頭をかきながら、苦笑いをする。
 千春は、雄介のふだんと変わらない表情を確かめると、安心したようにほほえんで
から、カーディガンのそでで目をふいた。
「そうよね。もともとここはなかった場所なんだから、前と同じと思えばいいのよね」
「同じじゃないさ」
 雄介はのびをするように、春の青い空に向かって両うでを広げた。
 きのうと同じじゃない。
 ぼくもそう思う。
 学校の桜は、来週きっと一せいに花を開く。
 そして、四月になる。
 ぼくはいつのまにか、自分の中のなにかが、少し変わったような気がする。
 春のある日、かたいからを破ってサナギが羽化するように、ぼくたちにもそんな日
があるのかもしれない。
 智子が赤い目をして、ぼくのひじをつっついた。
「ここがなくなってしまって、春休みどうするの?」
 ぼくはちょっと考えてから言った。
「さか上がり、教えてもらおうかな」
「いいよ」
 智子の笑顔が、なぜかとてもまぶしかった。

        (完)




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