#3128/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 8/30 8: 3 (198)
まだ死なれては困る 1 永山智也
★内容
早すぎるインサート
男は警部と対峙していた。狭い部屋、電灯がやけに明るい。
「まあ、座ろうや」
警部は、男の両肩に手を乗せ、着席するよう促した。
渋々といった様子で、男は腰を下ろした。大きな音がしたのは、男が故意に
立てたのだろうか。
「おまえが殺したんだろう!」
横でうろうろしていた、警部よりは若い男が怒鳴った。疑問文でなく、決め
つける口調である。
それに対して、容疑者たる男は、だんまりを決め込んでいた。事情聴取を始
めた当初は、怒鳴り返してきていたのだが、やがてほとんど口答えをしなくな
ってしまった。怒鳴り返すのに疲れたのか、それとも戦略なのかは分からない。
「どうした? 何を黙り込んでるんだよ、えぇ? 答えろ。何度も同じこと、
言わせるなよな!」
止まらない若い刑事の大声に、警部は顔をしかめた。それでも一応、正面の
男が答える気配がないことを確かめる。
それから、
「まあ、黙っていてくれ。ちょいとやり方を変えてみようじゃないか」
と、若いのに声をかけた。
「はあ」
納得できない顔をしながらも、若い刑事は素直に口をつぐんだ。彼にとって、
上司の命令は絶対なのだ。
「さて、お互い、少し頭を冷やそうじゃないか」
「……」
男は相変わらず、沈黙を守っていたが、そっぽを向いていた視線だけは、警
部へと戻してくれたようだ。
「それぞれ、自分の意見というものがある。それを言い合おうじゃないか、お
互いに。それが状況を整理する道だと思う。まずは、こちらから言っていいか
ね?」
警部の問いに、男は何の答もよこさなかった。
それを承諾の意に解し、警部は警察としての見解を改めて述べることに決め
た。茶を呷り、のどを潤す。
「気を悪くせず、聞いてもらおう。君は横澤紀子さんを殺した」
「知らないと言っているだろう」
冷静な返事だ。ようやく口を開いた容疑者の男。それが警部には、随分、久
しぶりのように感じられた。
「警察の考えだから、そのまま聞いてほしい。反論の機会はあとで与えるから。
それでだ……元々、君は、横澤さんの財産が目当てで、彼女との結婚に同意
した。幸い、相手は自分のことを信用しているらしく、気軽に金を出してくれ
る。ここまでは都合がよかった。思う壷という奴だ」
警部は言葉を区切り、相手の表情を見やった。
若干、いきり立ちかけているようだが、どうにかセーブしている。警部は男
の顔に、そんな印象を受けた。
「ところが、正式に結婚する直前になって、横澤さんは君の意図に気付いてし
まった。そして君を責めたことだろう。かっとなった君は、何らかの方法で彼
女を殺し、遺体をどこかに隠した」
ここに至って、警部の声のトーンは、わずかに落ちた。何故なら、彼の手元
に、ここまで言い切る材料は揃っていないのからだ。殺人事件を構成する、基
本的にして絶対となる『物体』がない……。
「警部さん。何らかの方法でとか、どこかに隠したとか、いい加減なことを言
わないでくださいよ」
こちらの心を見透かしたかのように、男は反駁してきた。唇の端のゆがみが、
嘲笑を示しているかのよう。
「しかし、考えてみてくれないか。横澤紀子さんが行方不明になって、何日経
っているんだかを」
「捜索願いを出したでしょう。夫として、他に何ができると言うんです。それ
とも、何かしろとでも?」
「そういうことじゃない。だがね……」
そう言ったものの、続ける言葉が見つからない。妻に行方不明になられた夫
にしては態度が冷静にすぎる、という思いを口に出す状況ではなかった。
「ともかくだ、五月中旬、君と横澤さんが一緒に旅したという旅館を訪ねて回
って、ちょっと興味深い証言が取れている」
「何ですか、それは?」
「残念ながら、今は伏せておきたいんでね。捜査上の策略ってやつだ。君に明
かすことはできない。ただ、その証言から、そのときの横澤紀子さんが本人だ
ったかどうか、怪しく思っている」
「……」
再び、男は沈黙した。
「おや、また黙ってしまったか。まあいい。もう少し、君らのことを詳しく見
ていこうじゃないか」
警部は煙草を取り出し、火を着けた。
1 変わる姓
彼女と彼のやっている儀式に対して、部屋は明るすぎたかもしれない。何年
も経っているのに、新築当時そのままと言っても通りそうな、整えられた空間。
白いレースのカーテン越しに、朝の光がまぶしいくらいに差し込んできていた。
自分の名前を書き終えると、彼女はペンを置いた。
「あとは印鑑だけか。これを捺せば、私、松本紀子から西澤紀子に戻れる訳ね」
彼女−−紀子は顔を上げ、目の前にいる男を見やった。男の表情に、何ら感
傷的なかげりはない。
「俺のような男と同じ姓じゃなくなって、せいせいしたってところか? はっ」
自嘲気味に言うと、男は、紀子に押印を急かすかのように、テーブルの端を
指で何度か叩いた。
「今日が十二月の一日だから、およそ四年と六ヶ月、続いていたことになるか
しら。どうでもいいけれど」
嘆息する紀子。印鑑を手にし、朱肉に押しつける。今度は印鑑の文字をはっ
きりと出すために息を吐いた。
「これで」
書類をひらひらさせてから、紀子は男の鼻先にそれを突きつけた。
「おしまい」
男は一瞬、忌まわしそうに目をぎょろつかせた。が、紀子を憎むよりも早く
独り身になりたいとの思いが勝ったらしく、書類を引ったくるように手にする
と、すぐに立ち上がった。
「……ふん」
笑いとも嘲りとも、あるいは強がりともつかぬ、紀子の吐息が残った。
一人を欠いた大きな邸。女性二人で使うには広すぎるかも。
街にジングルベルが流れる季節。女性二人じゃ寂しいかも。
「え?」
話し相手が驚いたので、紀子は満足していた。
「離婚……って、お姉ちゃん、松本さんと別れたの?」
「そう」
くすくす笑ってみせながら、ケーキを切り分ける紀子。
紀子の妹は口をぽかんとさせ、まだ驚きの顔を続けている。
「大きな口ね。ケーキ、食べさせて上げようか」
いたずらっぽく言ってから、ケーキ片にフォークを刺し、本当に妹の口に運
んでやる仕種を。
「ちょ、ちょっと」
慌てた様子で口を閉じる。唇をきゅっと噛みしめるところを見て、この子も
だいぶかわいくなったものねと、紀子は内心、うなずいた。
「そんな、ふざけないで。これ、ふざけて言うような話じゃないわ」
「冗談で言ってるんじゃないわよ。そもそも、どうしてそう驚くのかしら。佳
子、あんたが今日、来たとき、真っ先に言って上げたでしょ。『旦那はいない
の。だから気兼ねなく』って」
「あれは、今日はいない、という意味だと解釈してたの!」
ちょっと怒ったように、妹の佳子は声を高くした。
それがまたおかしくて、つい、くすくすと笑ってしまう紀子。
「こういう席で打ち明けたり聞いたりする話じゃないと思うな、私」
「こういう席って、クリスマスパーティ? それならお門違いよ。よその国な
らいざ知らず、少なくとも日本ではね、クリスマスは男女の色恋に大きく関わ
ってんの。だから、ふさわしい話だと思うけどな」
「お姉ちゃん……酔ってる」
「当たり」
にこにこしながら、隣の椅子に座らせておいたシャンペンを持ち出す。中で
大きく波打つ液体。半透明な緑色のボトルは、すでに半分が空気になっていた。
「あーあ、そんなに飲んで……」
「いいから、飲も。あんたも二十歳、大っぴらに飲める年齢になったんだし」
「違うわよ。お姉ちゃん、引き算もできなくなったの? お姉ちゃんの年齢か
ら十一を引いたのが、私の年齢」
「じゃあ……十五かしら?」
「お姉ちゃん!」
冗談に妹が素直に反応してくれて、紀子はますます上機嫌になれた。
「お姉ちゃんは三十二歳でしょうが。アンダスタン?」
「イエッサー! さあ、面倒が片付いたところで、始めよっか」
「片付いてないったら。いつ、どうして離婚したのよ」
「それはあとのお楽しみ。心配しなくていいから、佳子は。責任は向こうにあ
ったし、私も未練はないし。ただ、とりあえず、人並みに騒いで、憂さ晴らし
をしようと思ってるだけ」
空のグラスを佳子に握らせる紀子。
「その相手を私に勤めさせるつもり? しょうがないなあ、クリスマスの夜、
遊びどきの学生を拘束するなんて」
「許せ、妹よ」
芝居がかって、紀子は始めた。
「この世にたった二人の血縁しかいない私。離婚の話なんてできるの、妹のあ
んたしかいないんだ。分かって」
「分かった分かった。ともかく、シャンペンを注いでいただきましょうか、お
姉さま。空のグラスじゃ寂しいですから」
「気に入った!」
乗ってきた妹をかわいく思いつつ、紀子はシャンペンのボトルを傾けた。
「では、改めて……。信仰に関係なく、メリークリスマス!」
広い食堂に、グラスの合わさる音が、かすかに響いた。
「どう? 大学の方は?」
「まだ面白い」
「『まだ』とは?」
七面鳥の肉を切り刻みながら、紀子はどうでもいい調子で聞いた。
「嫌でも、四回生が卒論で苦闘しているのが目に入ってくるの。来年のことを
思うと、だーんだん、憂鬱になってしまいそうで」
頭を振る佳子。
「度が過ぎなければ、苦しむのも悪くない経験。そう思ってあきらめなさい」
「あっさり言うなあ。喉元すぎれば何とかって奴ね」
「そういうこと。そうだ、ついでに聞いておこう。クリスマスにも関わらず、
姉の願いに簡単に応じてくれたってことは、まだ彼氏はいないんだ?」
「……ぐさっ」
わずかの沈黙のあと、佳子は擬音を発した。いわゆる「心の痛み」を表現し
たのだろうと、想像できる。
「はっきり言ってくれるなあ」
「いいじゃないの。これから私の別れ話を聞くつもりなんでしょうが。だった
ら、これぐらいの心の痛み、我慢我慢」
「はーい。人生勉強の受講料と思って」
「馬鹿ね、あんたはうんと幸せになることよ。結婚したら、ずっと一緒にいら
れるような相手を見つけるの」
「じゃあ、反面教師だ」
ふふふっと笑った佳子。
その顔を見て、紀子は気持ちが安らいだ。聞き上手の妹を持つと、こんな場
面で気が楽になれる……。
「あ、最初に確かめておくけれど、離婚のこと、叔父さんは知っているのかし
ら? 浜田の叔父さん」
「報告だけはしておいたわ。返事がすぐに来てね、一言の相談もなかったこと
を怒っている気配もあったけど、総体として、私の意思を尊重してくれたわ」
「そっか。そうよね」
何かに納得したように首を縦に振った佳子。紀子は話の勢いに任せて、いき
なり切り出すことにした。
「別れようと思った理由は単純明快。彼が他にいい人を作っちゃったから。何
の説明もいらないでしょう?」
あっけに取られた様子の佳子。
「その……相手の人、どこの誰だか知っているの、お姉ちゃんは?」
「知っている。前々から知っている人だった。だからこそ、余計に許せない部
分があるのかもしれないわね」
自嘲を込めて笑みを浮かべてから、紀子は続けた。
「それでもさ、浮気を知って即座に離婚しようとは、さすがに思わなかったわ。
私って、人間ができてるから、言い分を聞いてあげようと……。まあ、心が広
いのを見せようとしたのが、仇になったけど」
「どういう意味?」
−−続く