AWC 【言い草】(3・完結)二羽岡 一彦


        
#3039/5495 長編
★タイトル (AZA     )  95/ 4/29   7:40  (145)
【言い草】(3・完結)二羽岡 一彦
★内容
「嶋本部長こそわが社の宝。すばらしき手腕と能力。次期社長はもうアナタし
かいない」
 時刻は二時五五分。二四時間表示でも二時五五分だから、夜中の三時前であ
る。
 さきほどから隣の部屋で、なにやら怒鳴りあう男女の声と、何かがぶつかっ
て割れる大きな音が響いてくるが、たいていの人間はこの時間は眠りについて
いる。一部を除いて。
 常日頃<一部を除く>というものは、本当に特殊な事情にあるものに充てら
れる言葉だと思っていた。が、おれのようなバカげた理由でただ起きている者
が、世の中にいま何人いるのだろうか。世の中は間違っている。
「嶋本部長こそわが社の宝。すばらしき手腕と能力。次期社長はもうアナタし
かいない……」
 おれの口は機械のように抑揚なく、同じ言葉を繰り返している。もし副社長
や専務がこれを聞いたら、どんな顔をするだろうか。
「嶋本部長こそわが社の宝……」
 こんなゴミ処理場のような部屋の中で、いったいおれは何をしてるんだろう?
 まどろむ意識の中、虚しさだけが激しく渦巻いている。眠りたい……すべて
を忘れたい……
「すばらしき手腕と能力……」
 おれの背中で、かさりと軽い物音がした。おれは振り返る。否、このときす
でに机につっぷして寝息をたてはじめていたから、そこに若い女の子の姿を見
たのも、物音が聞こえたのも、すべては夢の中だったに違いない。
 上条さん、とおれは呼んだ。
 彼女は応えず、微笑んでいる。
「次期社長は……」
 言いかけると、彼女はすこし顔色を動かした。その寂しそうな表情が、本当
に美しかった。
「あ」
 彼女の姿がふらりと揺らいだ。
 消えてしまう! 途端におれは激しい焦燥に駆られた。
「違うんだ……」
 だめだ。行かないでくれ。何か……何か言わなければ……彼女が消えてしま
うまえに伝えなければ……
 そう思った瞬間におれは叫んでいた。
 −−好きだ。君が好きなんだ。ずっと好きだったんだ!
 おれは右手を力いっぱい伸ばして、彼女の腕を掴もうと必死だった。だが夢
の中でも、空しくあがくばかりだった。妙に納得できた。どうせそんなものだ、
と夢の中のおれは自嘲していた。
 翌朝に目が覚めるとペン立てが机の上にはなく、向こう側にばらばらと散乱
していたから、手を動かしていたことだけは現実のようだった。
 ペン立てとともに倒れて横を向いた置き時計の針を見、しらじらと明けてき
た窓の外を見やった。頭が重くてはっきりしないが、会社に行かなくてはなら
ない時刻であることは分かった。
「もう朝か……」
 額にじっとり浮かんだ冷汗を手で拭うと、おれはのろのろと立ち上がった。
今日が<納品>の最終指定日だった。

 そして、いま目の前に<言い草>がある。
 部長のデスクの上で、こいつは鉢に収まっていた。
 嶋本部長。山根係長。同僚の東田。伊吹。狭川。そして、おれ。みんながこ
いつを取り囲むように集まっていた。
「まだしゃべらんのかね、これは」
 部長がつぶやいたが、誰も反応しない。もう一五分もこうして待っているが、
言い草は一言も言葉を発していなかった。
「また失敗作かね」
「もうちょっと待ってください」
 こればかりは焦っても仕方がない。言い草はしゃべるときにはしゃべるし、
そうでないときはそうでない。おれは自分で自分を落ち着かせようとして、ち
らと腕時計に視線を落とした。
 針は九時一九分を指している。
「もうちょっと待ってください」
 と、おれは繰り返した。
「待ってて何とかなるの?」
 狭川が言った。
「なる」
「ほんとかよ」
 東田が笑った。「いままでそれでダメだったんだろう?」
「今度は違う」
 何が違うのか説明できなかったが、部長の手前、気弱なことは言えなかった。
「大丈夫かね。最後ということで期待しとるんだが」
 そう言った部長の顔には、どうせ無駄だろうと書いてあった。
「とにかくもうすこしだけ待ってください」
 しかし一五分が経ち、三○分が過ぎると、同僚たちは一人、またひとりと姿
を消していった。最後の伊吹があきらめ顔で自分の部署に戻ると、デスクのそ
ばにはおれと部長と言い草だけが残った。
 嶋本部長は、苛立ちと嘲りの入り混じった表情をしていた。おれはただ微動
だにせず立ち尽くしていた。
<あれほどおれが……>
 もう何百回となく心の中でつぶやいた台詞を、また繰り返していた。<寝る
時間も惜しんであれほど……>
 おれの殺人的な眼光と、沈黙を続ける言い草とを交互に見比べながら、部長
はいつ言葉を切り出そうかとしばらく迷っていた。
「お茶です」
 秘書がお盆にのせた湯呑を運んできた。ゆっくりとふたつめの湯呑がデスク
の上に置かれたとき、部長の心は決まった。
「西野君」
 と、部長は言った。リミットだ。その先は聞くまでもなかった。
 不思議と肩の荷が下りたような気分になった。部長命令という重圧から逃れ
られることより、今日からゆっくりと眠れるんだという歓びが、一気に怒涛の
ように押し寄せてきて、おれの躰をいっぱいに満たした。充実感さえ感じた。
そもそも何というバカげた理由で、これほどに神経を削らなければなかったの
か。今やっと正常な自分を取り戻したような気がする。
 同時に、言い草に対してすまなかったという気持ちも湧き上がってきた。望
むように育たなかった怒りだけで、言い草の命を幾つも奪ったのだ。植物だか
らといって許されることではない。
 声を無理に憶えさせることはなかったはずだ。普通に、自然のまま飾らず、
育ててやればよかった。言い草にとって本来それがいちばんいいことなのだか
ら。
 目の前の言い草に罪はない。おれの育て方が悪かっただけなのだ。こんなお
れをどうか許してくれ−−
 ほとんど出来の悪い父親の心境だった。おれは右手を伸ばした。残る余生、
おれの部屋でいっしょに生きていこう。静かに手を鉢にかけた。
 そのときだった。
 いままで沈黙を守ってきたスペルナート・カデン・アルカスは、その独特の
声帯を震わせた。
「上条さん」
 と、空気は振動した。
 一瞬何が起こったのか分からなかった。次に、誰が言ったのだろうかと、お
れはあたりを見廻していた。
「上条孝子」
 言い草はもう一度呼吸をした。信じられないほどはっきりとしゃべった。お
れは思わず耳を疑ったが、それは三人とも同じだった。
 部長は「うっ」と息を呑み、秘書は思わず「はい」と小さく応えていた。
 次の瞬間、おれはあることに思い至っていた。おれの癖−−知らず独り言を
つぶやく悪癖−−
 何百となく繰り返した台詞を満足に憶えられなかったのに、ただ一度、夢の
中でつぶやいたような小言を記憶したというのか、こいつは……? まさか、
そんなことがあるのか……?
 すると……。
 おれの躰を電流が走った。びくんと反応したほどの衝撃だった。
<まさか……>
 ごくりと唾を呑み込んだ。<夢で別な台詞を、おれは言わなかったか? 確
かそれは……>
 おれの視線がゆっくりと動き、言い草の<唇>の上で止まった。微妙に開閉
するそれを、スローモーションで見るように眺めることができた。止めること
はできなかった。
「好きだ」
 と、言い草は告白した。「君が好きなんだ。ずっと好きだったんだ」
 見えなくても、部長の顔が硬直するのが分かった。場の雰囲気はそれ以上、
もはや完全に凍っていた。
 言い忘れていたが、おれの在籍部署は総務部人事課といった。嶋本部長は直
属の上司で、役職は取締役総務部長に収まっていた。しかも恣意的に人事権を
行使することは、社内では周知の事実だった。これが何を意味するかは、もう
疑いようのないところだ。
「……西野」
 絞りだしたような部長の声を聞き、おれは顔を上げてまっすぐ見つめ返した。
部長ではなく、上条孝子の視線を。
 突然爆発したように嶋本部長が大声で何かをまくしたてはじめたが、そんな
ことはもうどうでもよかった。会社が何だ。そんなものはたいして意味のない
ことだ。それよりももっと大切なものを、おれは見つけた−−
 部長の後ろで、上条孝子は可愛いくらいに頬を紅く染めて、困ったように上
目づかいにおれを見つめていたが、やがてその形のいい唇がゆっくり動き、声
にならない返事をつくった。

<FIN>




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