#2962/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 95/ 2/ 6 1:27 (200)
ダルガの心臓(20) 青木無常
★内容
ムリヤリ引きよせようとして――唖然とした。
空気を求めてやみくもに開閉をくりかえす小春の口の中へ――まるでねらいすまし
たように、すっぽりと、明滅する“心臓”がのみこまれたのだ。
ぎょっとしたように小春が目をむいた。
うんぐ、と嚥下した。
シロクロさせた目をよせる小春の喉がぷっくりとふくらみ、そしてそのふくらみが
しずしずと胃にむけて移動するのをたしかに見た。
見ひらいた小春の目が、問いかけるようにおれを見た。
唖然と見かえし――とほうにくれて、頭上の凶人どもに視線を転じた。
尚美も、鏑丸も、そして篭女も、ドゥルガスの男でさえ、目の前で起こったことが
信じられぬように、バカみたいにあけっぴろげな驚愕を、その顔面にはりつけていた。
あまりの情けなさとばかばかしさに、おれはわれしらず笑いをうかべていた。
恐怖の発作のような、笑いだった。
伝染したように、尚美もまたおかしげに笑った。
笑いながら、水を蹴った。
ほとんど同時に、鏑丸、そして篭女もまた、弾丸のように前進した。
ひい、と喉をふるわせつつおれは、呆然とした小春をぐいとひきよせ、足をかいた。
夢中で前進した。
いまだ恐怖の化身そのものであるおぼろなダルガの流れは深く遠いままだったが、
暗中になお暗いシミのようにうかぶ無数の黒い球のいくつかが、かなり近いところに
ただよっているのが見えた。
それはまさに、この深い地の底の海にうがたれた、さらなる奈落への落とし穴のよ
うに見えた。
ダルガの横たわる地獄へと直行するよりは、その穴をでも目ざした方がいいかもし
れない。
全面的にやけくそでそう決めつけ、漆黒の球めざして針路をさだめた。
たどりつくよりはるかに速く、ぐいと強い力で引き戻された。
歯をくいしばりつつふりかえる。
全身のあちこちに、喰い破られたような円形の傷口をつけた篭女が、小春の足首を
がっきとつかんで裂けるように笑っていた。
小春、と水塊を吐き出しつつぽちゃぽちゃした二の腕と肩口をつかみ引き戻そうと
する。
むろん、いうまでもなく篭女の人間離れした膂力に、このおれが対抗すべくもある
はずがない。
いまやその胸わきに攻撃目標を移動させた褐色のドゥルガスをかじりつかせたまま、
篭女は笑いながら小春のふくらはぎへと手をのばした。
わきから現れた尚美が、その手にむけて強烈な手刀をふりおろした。
打たれた腕が、くの字におれ曲がった。足場のない水中だってのに、とてつもない
威力だ。
ほぼ同時に、鏑丸の野太い脚が、鉈のようにもう一方の腕にむけてくり出された。
衝撃が一瞬、小春とおれとを上方におし流す。
支点である篭女は、腕を異様な角度におり曲がらせていながら、なおもつかんだ小
春の足首をはなさない。
絶望がどす黒くおれを染めるのと同時に――鏑丸の、極端に収束された“声”が、
篭女の二の腕に襲いかかった。
渦まく血とともに繊手は分断された。
歯をむき出した般若の顔面が、とり逃がした獲物を追って、獣のようにくり出した。
おれはといえば、情けないことにパニックに思考も反射も奪いとられたまま、身動
きひとつできない有り様だった。
灼熱の焦慮が爆発すると同時に、こりゃダメだ――と、他人事のように感想を抱い
た。
奇跡が、しぶしぶといった感じで割って入った。
すなわち――ついに力つきたドゥルガスが、うつろな表情でうきあがったのだ。
篭女の、針路上に。
獰猛に首をもたげた生への希求に衝き動かされておれは、思いきり水塊を蹴りつけ
――
怒りにみちてものすごい形相でドゥルガスの肉体をおしのけた篭女の首すじに、一
瞬の隙をついた形で尚美の手刀がたたきこまれていた。
ドゥルガスの執念にみちた攻撃にほとんどちぎれかけていた首の、むき出しになっ
た頚骨のつらなりが強烈に粉砕された。
水の抵抗におし流されて篭女の首はかくんと後方にもぎとられた。
残された肉体は驚くべきことに、まるでなにごともなかったかのように力づよく水
をかきわけて前進した。
が、どうやら単なる反射行動にすぎなかったらしい。あるいは首をうしなって盲目
のまま、やみくもに獲物を求めて泳ぎつづけたのか。
いずれにしろしどけなく着物を着崩した穴だらけの白い肉体は、力にみちた動作で
機械のように水をかきわけ、深い暗黒へと泳ぎ去っていった。
追うように、なおも憎悪と呪詛にぎらぎらと眼を光らせた篭女の首が、執拗におれ
たちにむけて視線を固定させつつ、歯ぎしりの聞こえてきそうな形相のまま沈んでい
った。
そしてさらに、思慕の念さめやらぬごとく、うつろな目をしたドゥルガスの、ダル
マみたいな無惨な残骸が篭女の首の後を追う。
おれたちはずいぶん長い間、唖然とした思いでそれを眺めやっていた。
が、四囲を無数の仏像人間に囲まれているのに気づき――とほうにくれたように、
目を見かわした。
近くにいるイヒカどもは、じゅうじゅうと音が聞こえてきそうに、その皮膚の表面
をとろけさせていた。見ると、ぬけ目のないことに鏑丸の腰につるされたいくつもの
水筒の蓋がぜんぶ、開けられている。桃の果汁の作用が、イヒカどもを襲撃している
というわけだ。
ただし劇的に、というわけにはいかなかった。溶解しているのはおれたちのすぐ近
くにいる、ごく一部の仏像どもにかぎられていた。離れた位置にいる妖怪人間どもは、
あいかわらずの奇怪な微笑をうかべつつ、慈愛にみちた視線をおれたちに投げかけて
いやがる。
どうあれ、いつまでもこうしてイヒカどもに見まもられながら、ダルガの待つ暗黒
にむかってゆっくりと落ちていくわけにもいかないのは、たしかだった。
どうしたものかと尚美は、心臓をのみこんだバカ娘とおれ、そして鏑丸とに困惑の
体で順に視線をめぐらせ――
決心したようにひとつ、うなずいてみせた。
そして鏑丸にむけて、短い手ぶりでなにごとか合図をおくった。
うっそりとうなずくや鏑丸は――おれと小春の襟首を無造作にわしづかみにした。
驚愕と不信に呆然と目を見はり――ハッとわれにかえって、なにしやがると声にな
らない声でわめきながらもがきまくった。
なだめるようにポン、ポンと肩をたたかれ、目をむいた。
鏑丸と尚美……ふたつの顔がならんで、笑っていた。
なんのつもりだてめえら、と問う間もなく――おれと小春は二人そろって思いきり、
ネコの子のように無造作に、放り出されていた。
重い水塊をおしわけて一直線にすっ飛ばされるその先には、無数にひらいた暗黒の
底なし穴のひとつが、ぱっくりと口をひらいていた。
あらがう間もなく、おれと小春はその穴の中に吸いこまれていた。
その寸前に投げ出された方角にちらりとむけたおれの視線の先に、淡い光にうかぶ
無数の影が像を結んだ。
どれが尚美でどれで鏑丸なのかなど、もちろんさっぱりわからなかった。
どれだけの間、暗黒をただよっていたのかはわからない。もしかしたらそれは、ほ
んの一瞬のことにすぎなかったのかもしれない。
とにかくおれたちは暗黒にすっぽりとのみこまれ、上下左右もわからぬままに流さ
れた。
そして、きわめて唐突に、ぽっかりと水面に浮かびあがったのだ。
ただよっていた水中とまったくかわらず周囲は暗黒につつまれたままだったが、空
気のあふれる外界に浮上した解放感は、信じられぬほどの安堵を胸の中にもたらした。
歓声をあげようとして――げべがぼごぼと、地獄のような苦しみとともに肺の奥か
ら水塊を吐き出した。
二人して気界と水界との界面にしがみついたまま、膨大な量の粘液を、延々と吐き
ちらしつづけた。
永遠とも思われるほどの長い時間を、嘔吐と、そして呼吸困難の苦痛にさいなまれ
たあげく、まさに這々の体でおれたちは、半身を水にひたしたまま、かたい地面の上
につっ伏した。
たがいに対する泣き言恨み言を無気力怠惰につっ伏したまま、胸奥に残った水塊と
ともにげほげほと吐きまくり、さらに長い時間を呆然と横たわったまま浪費した。
あげく、あきれ果てたことにあれだけの紆余曲折を経てなお手放さずにいたヴィト
ンのバッグから、おなじみのペンライトを小春に出させて点灯した。
洞窟の中だった。
それからなお、気が遠くなるほど長い間、おれたちは呆然と無言のまま、照らし出
された灰色の天井を眺めあげていた。それから無気力にずるずると這い出し、長い時
間をだらだらとかけて小春のヴィトンの内部にひそんだ、たっぷりと水をふくんだチ
ョコ入りビスケットをもそもそと口にし、かろうじてペンライトのスイッチを切って
から、力つきて眠った。
あいかわらずの小春がらみの淫夢にうなされて目をさますと、しがみついて眠りこ
ける小春があいかわらずの手つきでおれの陽根をもてあそんでいるのに気づいてあき
れかえった。
もっとあきれたことに、これだけ疲れはてているにもかかわらず、おれの息子は律
儀に隆々と、反応していやがった。シャクティってヤツだ。
そうしてなおも、とほうもなく長い時間を呆然としてすごし、空腹と、そして太陽
の光への渇望にせっつかれて、嫌々ながら重い腰をあげた。
ほとんどの場所を、遅々とした速度で這って進んだ。腰をかがめて歩く以上に天井
の高い場所はめったになかった。
どれだけの時間を歩きつづけたのかはわからない。ペンライトはしばらくもいかな
いうちに電池が切れて輝きを失い、おれたちは言葉すくなに闇の中を這いずりつづけ
た。
時おり、思い出したように小春が口にするバカげた泣き言も、なんの感興ももよお
させはしなかった。
気が遠くなるほどの機械的な進行の後に、ななめ下方に見まちがえようのないまば
ゆい光を見つけた。
感動の場面、といいたいところだが、残念ながらすり減り麻痺した感情は、いっさ
いの情動を呼び起こすことなく怠惰に、疲労をのみ想起させただけだった。
波音がきこえてくるのを、おぼろげに耳にしていた。
海の近くらしい。
大月や甲府あたりに海があるはずがない、という当然うかぶべき疑問もうかばなか
った。
なおもうんざりするほど長い時間をかけておれたちはのろのろと光目ざして這いお
りた。
尚美も鏑丸も、ついに追いつくことはなかった。
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結論をまずいおう。
おれたちが出たのは江ノ島だった。
なぜそんなところに出たか、などと訊かれてももちろんおれには答えようがない。
とにかくおれたちは岩と岩の間から唐突に地上界へと這いずり出し、黄金色に海面
を照らしだす、まばゆい午後の陽光にしばし目を細めていた。
洪水のような光の洗礼を浴びて呆然とおれたちはただそこに腹這いになり、うちよ
せる白い波を眺めやっていた。
ふたたび立って、半身をはみ出させた海洞から身体をひきずり出す気になったのは、
太陽も山の端に隠れた夕暮れどきになってからだった。
あちこち痛み、疲れはてた身体に鞭うって四囲を調べまわったあげく、けわしい崖
が壁となって立ちはだかる以外にはうちよせる白い波とむき出しの無骨な岩ばかりし
かないことを思いしらされた。
凍え死にせずにすんだのは、僥倖というべきか、あるいはゴキブリのようにしぶと
く頑健な体力というべきなのか。
とにかく、おれたちは荒れ騒ぐ波涛をよれよれの体でのりこえ、どうにか舟つき場
のある島の裏側までたどりついて力つきた。
この寒いなか海風に吹かれてもの好きにも江ノ島見物に来ていた観光客には、この
ときばかりは感謝しなければならないと思った。もし連中がいなければ、おれたちは
夜をむかえていよいよ寒気の吹きつのる海岸の岩上で、氷結した死骸を無惨にさらす
ことになったにちがいない。
ともあれ、近くの民宿に運びこまれて暖められ、どうにか息を吹きかえすことがで
きたのだった。
後で知ったことだが、江ノ島の岩屋洞窟と富士山西麓にある人穴、という名の洞穴
とはつながっているという伝説があるらしい。
もっとも、海蝕洞窟と溶岩洞穴とがつながっているなどと考える方がそもそもバカ
げているらしく、この伝説は科学的にはまるで根拠のないこととして一笑に付されて
いるようだ。
どうあれ、そもそもおれたちがハマった洞穴が富士山の北側、青木ヶ原であったと
いう事実からして、西南より、ほぼ正反対の方向にある人穴やらと結びつけることか
らしてどうにもありそうにない。
だが、もっとありそうにないできごとに、おれたちは遭遇してきたのもたしかだっ
た。
地の底の、あるいは異次元の世界を経めぐってきたなど人に話しても狂人あつかい
されるだけなので、おれはその数日のできごとを(そう、ただの、三日ほどのできご
とでしかなかったらしい。まさに、狐につままれたような気分だ)だれにも話さずに
おいた。
世話になった民宿の人たちには、裏っかわの駐車場をまわって岩場づたいに遊んで
いたら、帰れなくなって海に飛びこんでおぼれたのだと情けないつくり話をでっちあ
げておいた。
どのみち、おれ自身が自分の身の上にふりかかった事実を、どうにも信じられない
気分でいるのだから。
もっとも、小春の方はじつにストレートに、出会ってきた数奇な体験を大部分は自
分の都合のいいように解釈し妄想をつけ加え、ほとんど創作といってもいいほどいい
加減に脚色した上でべらべらとしゃべりまくっていた。
本人は大マジメだが、かたわらで苦笑するおれを見て安心しつつ、宿の人たちは困