#2961/5495 長編
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ダルガの心臓(19) 青木無常
★内容
くは史上はじめて、ドゥルガスの村のまっただなかから、ご神体を強奪して生還する
ほどの能力者さえ、ね。もしかしたらそれは――ちまたで声高に叫ばれているように
ふたたび世界の終末が――つまりはダルガの復活の時が近づいているせいなのかもし
れないわね」
冗談じゃない、とおれは身をふるわせたものだった。
いま、眼下に長大に、まるで永遠のように横たわる“大いなるもの”を目のあたり
にして、ふたたびおれは思っていた。
冗談じゃない、と。
あんなものが動きだせば、それこそ比喩でもなんでもなく一撃で地球が砕けてしま
うだろう。
いまや際限もなくわき出しあふれ出る恐怖のためにおれはなすすべもなくただよい、
見ひらいた目ではるか底の暗黒に広がる巨大な存在を眺めやるばかりだった。
そのときふいに――異様なできごとが、恐怖にふるえあがったおれの胸に、さらな
る打撃を喰らわせた。
握りしめた手のひらの中で――うごめいたのだ。
“心臓”が。
あまりの驚愕と――そして恐怖とに、あやうくおれはそれをとり落としてしまうと
ころだった。
かろうじてそうせずにすんだ。それが僥倖だったのかどうかは――今もってわから
ない。
そうするかわりにおれは、握りしめた物体が、まるで生きものででもあるようにし
てもう一度、びくりと、大きくふるえるのを感じていた。
畏怖と絶望とに、あらゆる想念が麻痺していた。
物体はさらにもう一度、ふるえた。
そしてもう一度。
そしてもう一度
そしてもう一度……そう。まるで、そう……まさに“心臓”そのものででもあるか
のように、どく、どく、どく、と、それは規則ただしく、そして力づよく――そう、
鼓動をはじめたのだ。
生きているのだ。
おれは感情の麻痺した脳内で、うすぼんやりとそんなことを考えていた。
そして、まるで意にそわぬあやつり人形にでもされてしまったかのように、のろの
ろと、手のひらの内部のものを眼前にさし出した。
赤い、血のような燐光を放ってそれは、おれの目の前で力づよく収縮をくりかえし
ていた。
――それがいかにしてなされたのかは、伝承にも残されてはいないらしい。瀕死の
体のアスラたちが、かろうじて、といった感じでどうにかなし得たことなのだろう。
ともあれ、地球をさえ破壊しつくすほどのダルガの暴走は、まさにその直前――回
復不能の半歩手前で、とめられたのだ。
猛悪にして大いなる存在の、生命力のかけらをもぎとることによって。
そのかけらは、強大なダルガという存在にとってまさにかけらほどのものでしかな
かった。だが、にもかかわらず――その活動のすべてを静寂の封印の下に閉じこめて
しまうほど重要な器官でもあったらしい。
人類が、文明を喪失し未開の煉獄へと逆行させられたとはいえ、その一部なりとも
生き延びられたことこそが、そのそもそもの証拠ともいえるだろう。
ともあれ――その器官は当初、ふれることさえおぞましい恐怖の象徴であったにち
がいない。
だが、人類というこの懲りない存在は、それほど原初的な悪夢にかかわる恐怖の記
憶をさえ、うすれさせていったのだ。
切りとられた超絶の器官は欲望の対象となり、時にそのそもそもの由来さえおぼろ
にかすませながら多くの手をわたり歩き――そしてさまざまな、信じられぬようなあ
またの紆余曲折を経た後に、聖なる神の遺物として、村の守護神に祭りあげられるこ
ととなったわけだ。
すなわち“ダルガの心臓”として。
だが、何千年、あるいは何万年もの時をへだててそれは復活のときを待ちつづけて
いたのかもしれない。
そしてそれはいま、おれの手のひらの上で、まさに心臓と化して動きはじめる。
呆然とそれを眺めやりつつ、麻痺した感情をおし破るようにして、新たな恐怖が近
づいてくる鼓動のようにおれのこめかみを、胸を、全身を、どくどくと浸食していっ
た。
あくことなく、地獄の拷問のようにしてこんこんとあふれ出る恐怖のために、おれ
はもしかしたら気が狂っていたかもしれない。
あの打撃が――唐突におれの背中をうちのめしていなければ。
ど、と左胸をねらってうちこまれた打撃におれは、一瞬わけもわからずうめいてい
がぼ、と口をわって泡沫が液体中にに浮きあがり、情け容赦なく肺臓ふかく侵入し
てきた黄色い水が、さらに狂おしくおれをせきこませた。
身をおり、粘液の中で苦しみもがくおれを冷徹に眺めやりながら景清は、哀しげな
笑みをうかべた。
哀しげで、自分に酔いしれた笑みだ。
その唇がうごき、なにかを云った。
もちろん苦痛にもがきまわるだけのおれに、ヤツがなにを伝えたかったのかなどわ
かるはずもない。
おれの手のひらから転げ落ちた“心臓”は、どくどくと明滅をくりかえしつつゆっ
くりと底深い闇黒にむけて沈みはじめた。
すばやい動作で景清はそれに追いつき、脈動する固まりを手にとった。
むせびながら、おれは焦慮と怒りとにわれを忘れた。
追跡のために、水を蹴った。
が――そんなおれの眼前に、黒い固まりが割って入った。
煙のようないくつもの血の筋がそれを追った。
どうして生きていられるのだろう、とおぼろな感想を思わず抱いていた。
首すじの肉をごっそりと喰いちぎられ、盛大に血をまきちらしながら篭女は、力に
あふれた動作で、まるでサメのように獰猛に、景清にむけてまたたく間に肉迫した。
執念にかんしては、篭女のもう一方の首にかじりついたドゥルガスにしても負けて
はいない。
四肢が、もぎとられていた。
その褐色の背中や首すじに無数のかきむしり跡がはしり、そこかしこから猛烈ない
きおいで血流があふれ出していた。
そしてそれでもなお、ドゥルガスは悪鬼の形相で篭女の首すじに噛みついたまま離
れないのだ。
唖然とした思いでそんな感想を抱き――ふいに、まったく別種の驚きに行き当たっ
ていた。
呼吸ができるのだ。
訂正しよう。
呼吸といっていいのかどうか、おれにはよくわからない。
なぜなら、おれがいるのは液体のまっただなかだったからだ。
たしかに、この濃密で鈍重な液体をおれは肺にむけて深く吸いこみ、そして吐き出
していた。その意味においては呼吸、という言葉はそれほどおかしくはないのかもし
れない。鰓呼吸という言葉もたしかにある。
だが、感覚的に、呼吸の対象物は気体である、との観念がおれの意識にはこびりつ
いずれにしろ、肺の中に液体がぎっしりとつめこまれ、しかもそれを吸ったり吐い
たりする、という感覚はかなり異様で不気味だった。
まあ死ぬほどの息苦しさに苦しめられつつ死なずにすんだだけ、ありがたいことな
もうひとつ。さっきよりはわずかではあるが、周囲にある水の抵抗が増しているよ
うな気がした。これならば、篭女ほどの人間離れした動きはともかく、泳ぐことくら
いはできるかもしれない。
というようなことをおれが考え、感じているわずかな間に、篭女は景清に追いつい
ていた。
目を見ひらきつつくり出される景清の迎撃の拳を、いとも軽くわきに流して篭女は、
無造作に景清の首をわしづかんだ。
もがきまわる景清の手足があちこちを叩くのにもまるで頓着することなく、篭女は
恍惚とした微笑で口もとを歪めた。
音は聞こえなかった。
ただふいに、景清がびくりと全身を痙攣させ、その目を白くでんぐりがえさせただ
けだった。
同時に篭女の全身もまた、絶頂にびくびくと大きくふるえていた。
首すじを喰いちぎられ、さらにもう片方の首すじを強烈に圧搾されながら、サディ
スティックな快感に酔いしれているのだ。
化物だ、とおれはあらためて思いつつ、背筋をふるわせた。
篭女はそんなおれの思いも知らぬげに、恍惚としたまま、景清の手から“心臓”を
無造作にむしりとっていた。
やがて、黄色い液体の中を無数にたち昇る血流の中に、景清の口からがぼりとあふ
れ出た血塊が毒々しく加わった。
そして、その血流の幕をおしのけるようにして現れた二つの影が、勝利と倒錯に酔
いしれる篭女を強襲した。
上下からたたきこまれる蹴りを、二本の白い繊手がうけとめた。
うち捨てた景清の死骸が、ゆっくりと暗黒の海底むけて沈んでいくのには見むきも
せずに、篭女は強襲者たちをはじき飛ばすようにして、そのまま力づよくおしかえし
た。
ぐわりと、水棲動物のように自在な動作で、小柄な肢体が反転した。呼応するよう
にして鏑丸の巨体が、その背後にまわる。
笑いながら篭女が手をさし出した。
その凶悪な掌が首すじを握りしめる寸前、尚美は優雅に旋回して軌道をかえた。
そして背後から出現した鏑丸の、野太い手をあてがわれた口中から――壮烈な振動
がほとばしった。
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黄色い水が凶悪に渦をまいた。悪魔の咆哮だ。
が、水塊をおしのけて疾走する円柱形の死のおたけびが殺到するよりわずかに速く、
篭女は水を蹴りつけて軌道をかえていた。
それでも、鏑丸の“声”の方が速かった。
左わき腹から胸骨のなかばまでが、ねじれるようにして無数の肉塊と化し、真紅の
粒となって水中に溶けた。
篭女が、絶叫の形に大きく口を開いた。
目を見ひらいて苦痛にみにくく顔をゆがめる篭女を目にして、おれは金切り声が脳
髄をかきまわしたような錯覚を覚えていた。
驚愕すべきことに、篭女の首すじにとりついたドゥルガスもまた半身をねじりとら
れていたのに、それでもかじりついて離れなかった。おそるべき執念だ。
そしてもうひとつ。
腸と肺臓、そしておそらくは心臓さええぐりとられていながら、なおも篭女は生き
ていた。
生きているのみならず、苦痛と怒りに顔面を真っ赤に膨れあがらせながら、握りし
めた両の拳をふりあげて水を蹴りつけた。
驚愕に目を見ひらきながら、鏑丸が身をおよがせて難を逃れる。
同時に、みごとな連携を発揮して篭女の背後から尚美が、痛烈な蹴りをたたきこん
だ。
たたきこんだ反動を利用してすばやく離脱する。般若の形相の篭女がふりかえった
ときにはすでに、尚美は攻撃圏外に逃れ出ていた。
同じタイミングで、鏑丸が篭女の死角から攻撃を加えた。
ねちねち攻めることにしたらしい。篭女のような化物が相手なら、理にかなった攻
撃方法かもしれない。
いずれにしても、おれの出番はすでにない、と見ておれは小春の姿をさがした。
下方、死闘の場からはやや離れた位置に、いまだパニックにわしづかみにされてじ
たばたとみっともなくもがきまくっているのを発見した。
バカ、この水は呼吸できるんだ、と心中でいっただけでは通じる道理もない。
おれはちらりと頭上を見やり、無数の芋虫型の下腹部が水中に投下された泥の固ま
りのようにゆらゆらと降下してくるのを確認してから水を蹴りつけた。
浮上しようとする動きはおれにかぎっていえばまったくの徒労でしかなかったが、
どうやら下降するのは容易そうだ。浮力がどう働いているのやらいないのやらよくわ
からんが、とりあえず好都合だった。
さほどの苦労もせず、激戦をくりひろげる真っ赤に染まった戦場を回避しつつ小春
のもがいているところまで潜水した。
目をシロクロさせてじたばたしている。
目の前にいるおれなんぞには、目もくれやしねえ。夢中になってやがるのだ。まあ
ムリもない、といえばそのとおりだが。
あのーもしもし、と肩でもたたいてやろうとして――
気配を感じて、上を見た。
最初に目についたのは、もやる血の壁をかきわけるようにして落下してくる、赤い
明滅をくりかえす小さな固まりだった。
ぎくりと、身をこわばらせた。
すべての元凶だ。
ゆらゆらとたゆたいながら“ダルガの心臓”は、不吉な鼓動を不断につづけつつた
だよい寄ってくる。
ドゥルガス、安倍、芦屋、そしてイヒカども。ろくでもない化物ばかりを魅きつけ
招来する、不幸の固まりだ。
が、それだけの化物どもの欲望をさえかき立てる、唯一無二のお宝であることもま
たまちがいない。
手をのばせばとどきそうなところにまでただよい降りてくる“心臓”を前に、おれ
は激しく躊躇した。
と、まさにそれを追って、強烈ないきおいで篭女がどば、と姿を現した。
ひ、とおれは喉をならす。
つづいて尚美と鏑丸とが相前後して、血の壁をおしのけた。が――とうてい間に合
わない。
“心臓”のことなどどうでもいい。
パニックにおちいりつつ、暴れまくる小春の手をつかんだ。