#2943/5495 長編
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ダルガの心臓(1) 青木無常
★内容
青木無常
林田が死んだ夜、おれは呑んだくれていた。
べつにヤツの死を悼んでいたとか、そういうわけじゃない。
へべれけに酔っぱらってあちこちにからんでまわり、前後不覚になったところを誰
かの世話になる、またはどこかへ放り出される、といった状態もいつものことだった。
ではその夜、なにが特別だったかというと、林田の死がきわめて残念であったとい
うことと、それにもうひとつ。
林田の死はたしかに、おれにとってきわめて残念な事態だった。ヤツには過去いろ
いろとセコい貸しがあったし、何よりも十五万相当のペテンに対する返礼も宙づりの
ままだ。何もかも中途半端のままにして逝っちまった奴の位牌に対して「やい、この
野郎、十五万かえせ」と毒づくわけにもいかず、おきみやげの借金まみれで路頭にほ
うり出された奴の女房から銭カネをもぎとってくるほどには悪党にもなりきれない。
不愉快のタネは他にもあった。
たとえば、いつも酔ったときにだけ懇意にしている易断の姉ちゃんの不吉な予言。
今日は駅裏にはいかない方がいいったって、とりあえず借金とりに追われる身には
ほかにいくところはない。家でおとなしくしてろ? そこがいちばん危ないんだ。が、
占い好きのおれとしちゃ、不吉な予言はいつまでも頭にへばりついて離れない。
そしてたとえば、他人の金をあてにしてちゃっかり同じボックスにくっついてきや
がった、歓迎すべからざる連れへの嫌悪感。
名まえは斉藤。おれの経営する店の名義人だが、まさに名ばかりの名義人店長で真
正の役たたず、そのうえひがみ根性とゲスの勘繰りばかりが得意の最低野郎だ。
もともと、店とその近辺に顔を出せないために昨日までの売上を届けさせるよう指
名したのは、ボーイのひとりだったはずだ。にもかかわらず、この斉藤がしれっとし
た顔で現れたのだ。いいわけとして口にするセリフがまた腹立たしい。
のはほとほとうんざりなんですよ。たまにはいい思いさせてくれたっていいじゃない
ですか。さ、いきましょいきましょ、駅裏あたりの店ってあんまり入ったことないし、
楽しみだなあ」
云いつつ勝手にずんずん先に立って歩きだすのだ。無視するわけにいかなかったの
は、売上入りの封筒をヤツがしっかりふところに入れたままだったからだ。
ほかにも不快の原因は山ほどあった。借金とりの飽くなき追求ももちろんそうだし、
店の人間はどいつもこいつもボンクラばかり、使ってる女どもは生意気でへらず口ば
かり達者な上に、肝心なところじゃちっとも働こうとはしないし、路地裏じゃ犬まで
吠えやがる。
それやこれやが重なってのことだから、おれがちょいと悪質な酔いかたをしたのも
無理はなかったはずだ。
あげくのはて、べろべろの状態で店をほうり出されたのは、ほとんど馴染みのない、
知り合いのひとりもいない縄張り外の一軒であったことを考えれば、まあしかたのな
いことだったろう。
売上入り封筒を取り上げて「延長料金は自分でもてよ」と宣言したとたん、ワンセ
ットぎりぎりまでねばりつつ繰り言をならべたてたあげく、とっととどこへやら退散
した斉藤への腹立ちも、べつにいつものことにはちがいなかった。
と――かように寛大にものごとを受け取ることができたのも、けっこうな幸運がお
れにはついてまわっている、とあの時には思えたからだった。
じっさい、早番だから送ってあげる、見ちゃいられないとても一人じゃ帰せないと
足もとさえ定まらないおれに肩を貸して立ちあがらせてくれた「安倍尚美」と名乗る
パブの女は、化物屋敷通りとして名高いそのあたりの人種とは比較にならない、整っ
た容姿をほこっていた。
こんな可愛い娘がいると知っていたら毎日でも通ったのに、とお世辞ぬきで告げる
と、きのう入ったばかりの新人なの、と自己紹介する。それならおれの店に移籍しろ、
となかば本気で口説くのへ、どうしようかなーと首をかしげるのは単なる社交辞令だ
と思っていたが、初対面のおれにこうまで親切とくれば、一目ぼれしやがったかおれ
もまんざらじゃねえなくくくくく、と多少いい気になるのも無理はあるまい。
とにかく酔ったふりして小柄だが肉づきのいい肢体によりかかり、さんざあちこち
手を出しまくる。
もっとも、尚美の方もそこいらへんの対応は慣れたものらしく、たくみにおれの攻
撃を避けながら、愛想と艶気だけは絶えもあふれもしない宙ぶらりんな態度を維持し
つづけ、おれの劣情と下半身とを煽り悩ませつづけていた。
右に左によろよろ歩きつつ、それでも借金とりに所在をつかまれかねない方角だけ
は注意ぶかく避けて居酒屋を三、四軒追い出されたのは、午前四時をまわろという頃
合いだったろうか。
ボーイッシュに短くまとめた頭を大きくのけぞらせて、遠慮なしの大声で快活に笑
う尚美にのせられておれはさんざっぱらしゃべりまくり飲みまくった。慣れたしぐさ
と態度で口説きやちょっかいを軽くかわされていながらもおれは、ひどくいい気分だ
った。
だから、真夜中よりもなお暗い通りに肩をならべて歩み出したとき、なんとはなし
に薄気味の悪いものを感じたのは、いつまでも明けぬ夜のせいだと思っていた。
冬の夜明けの遅さに加えて、天をおおいつくす今にも破れて落ちてきそうな厚くた
れこめた暗雲の舞台効果。
始発電車が動きはじめるまでには、まだ少々間があった。
これからどうする? と問うおれに、すこし歩いていようよ、と尚美はしなだれか
かったままおれの胸にむかってつぶやき、ふと顔をあげて――
そう、口にしたのだ。
もちろん、なんのことだかさっぱりわけもわからず、はあ? とおれは間抜けな顔
で可愛らしい顔を見かえすだけだ。
「もってるはずよね、峠達彦。ダルガの心臓。どこにあるの?」
つ、とおれから離れつつ、重ねて問う尚美の顔には、もう微笑の名残りさえ浮かん
ではいない。
「おれの名まえを誰から聞いた?」
名のった覚えがなかったので、とりあえずそうきいてみた。もっともへべれけのま
まあちこち二人で移動していたからには、どこかで名のったのだと強弁されれば反論
のしようもない。
ところが娘は、
「調べたのよ。峠達彦。三十一歳。風営法違反の前科あり。二軒のピンクサロンを経
営。業績は――中の下、といったところかしら。独身。住居のマンションで髪が長く
てグラマーな、美人の十九娘と同棲中。二人のあいだの関係は――なかなか良好のよ
うね。うらやましいわ」
ときた。いったいどうなってやがる?
「戸籍調査員か? それとも警察? どっちだかしらねえが、最後のセリフだけは大
はばにまちがってる。もう二年以上も前から、どうやって追い出そうか思案中なんだ」
「ふつう、二年もそんなこと思案したりはしないわ。口ではどう云おうと、気があっ
「冗談だろう? あいつはたぶん、貧乏神だ。小春がおれの部屋にいすわるようにな
って以来、やることなすことひとつったりともうまくはいかねえ」
と、そう口にしているおれは、よほど苦々しげな顔をしていたのだろう。針のよう
な目つきでおれを見つめていた、いまや正体不明となった女が瞬時、蜜月の時間をと
り戻したようにぷっとふきだし――そして次の瞬間には、炎の双眸をぎらりと光らせ
「よう、いったいどういうことなんだよ」
と訊きかけるおれのセリフをさえぎるようにして、
「静かに……!」
低く、鋭くささやきながら手を眼前にさし出す。
なにごとかと眉根をよせながら彼女の視線を追い、一拍の間をおいておれも見つけ
た。
インド人を。
べつだんアジア系の彫りの深い褐色の顔など、キョービ珍しくもない。のだ、が、
炎のような色のターバンで頭をつつんでいる姿は、この東京では見なれない姿ではあ
った。ダークグレーの高価そうなスリーピースと紺無地のネクタイ、白いYシャツと
いうちぐはぐなかっこうも、珍妙きわまりないのはたしかだ。
が――なによりも異様だったのは、その男の眼の色だった。
赤い瞳も、うさぎの目を思い出せば見なれないものでもないと、いえないこともな
い。が、その赤も――噴き出す血のような、という形容つきとなると、どう考えても
尋常ではなかった。
こぼれ落ちそうなほどむきだされた白目部分の充血具合も異様だが、なによりもそ
の奇怪な両眼から、どうやらおれにむかってらしい、吹きつけるようにして放たれて
いる眼光は、お世辞にも友好的な雰囲気とはいいがたい、奇怪にして剣呑なシロモノ
きわめつけが、男がニタアとうかべた、裂けるような笑顔だ。
裂けた口もとからぞろりとならんだ牙の列でものぞいていれば、かえって納得でき
たかもしれない。
現実にはそんなものなどなくとも充分以上に、背筋をそそけさせた。
なぜなら――そのインド人がきわめて唐突に、しゃがみこんだからだ。
奇怪な姿勢で。
背骨など存在しなかいのように、逆エビに腰を曲げて頭上をまたいだ両脚。そして
これも、関節の構造を無視するようにして、逆方向におり曲げた両の手で、怪奇な四
つんばいを構成した全身。
……ヨガか何かの写真を考慮にいれれば、さして見なれない芸当でもないのかもし
れない。
だが、おり曲げられた首が半身ぶん後方にのび、百八十度回転してなお心底おかし
げにニタニタ笑いをうかべているのは、物理的にどう説明をつければいいのかアイン
シュタインでも途方にくれてしまうにちがいない。
すくなくとも、単なるヨガ道場のデモンストレーションではなさそうだ。それにし
ちゃどう考えても観客が少なすぎる。
「なんの冗談だ」
しぼり出した強気も震える声に裏切られているおれを、かばうようにして背中で押
しやりながら尚美は、
「冗談でも映画の撮影でもないわよ。とっとと逃げたほうがいいわ」
と告げた。
逃げたほうがいい、という彼女の意見に異論はなかったが、だからといって渦まく
疑問に、決着がついたというわけじゃない。
「いったい、なにがどうなってやがる」
なかば一人ごとめいたおれの質問に、尚美は短く返答をよこす。
「ダルガの心臓よ。あなたのお友だちも、それが原因で死んだはずだわ」
おれが歯をむき出しにして目をすがめたのが、さらなる疑問と不審のためであるこ
だがくわしく聞き出そうと口をひらくより速く――インド人の化物はごう、と虎の
ような声を立てて、歯をむき出しにしつつ襲いかかってきた。
特大のバッタが、獣のうなりを上げつつ飛びかかってくる場面を想像するがいい。
「うひゃ」
とぶざまな声を立てつつ頭かかえて逃げだした醜態も納得してもらえるはずだ。
あげくのはて怪物インド人は、勇敢にも迎えうつ構えの尚美を無視し、ことのつい
でに物理法則まで無視して、空中でくるりと向きをかえ、逃げるおれの後頭部にむき
出しにした歯を立てようと、弾丸の速度で急迫してきたのだから、いまだに命ながら
えているのはまったく信じがたい事実だ。
「峠達彦!」
悲鳴に近い警告の叫びと、そしてぼんのくぼに疾りぬけた不快な冷気が、そのとき
おれを救ったものの正体だ。
ほとんど反射的に上体をひねって身を沈めつつおれは、無意識のまま脚をくり出し
ていた。
尖塔のような黒い靴先が化物の反転したわき腹に食いこみ、そのまま宙をえぐるよ
うに半回転するのを、おれはまるで映画の場面でも見るような気分で眺めやっていた。
小気味いいほどかたい感触で、やわらかい肉体もろともおれの足先が地にたたきつ
けられる衝撃が来たのは、ほんの一瞬の後のこと。だがその一瞬でおれは、永刧を体
感していた。
無我の境地、というやつかもしれない。
そう思いつつ、ぎゃっ、と梅図かずおばりの悲鳴を化物があげるのを耳にして、お
れはかなり得意になっていた。
だから、
「逃げなさい! はやく!」
と切羽つまった口調で尚美が発する警告に対しては、不満感さえ抱いていた。
現実におれの眼前では、地にたたきつけられてゴムまりのようにバウンドする化物
が、アスファルトの路上に血の固まりを吐き出しているのだ。
「まあ、まかせとけよ」
軽口をたたきつつすばやく身を起こし――その時点ですでに後悔していた。
ほんの一瞬、目をはなしたすきに化物の異臭ただよわせる顎が、おれの眼前に肉迫
していたからだ。
こいつ、ぜったい内臓いかれてるぞ。
避けようのない破滅を目の前にしながら、吐きかけられる息のあまりの臭さに鼻頭
にしわをよせつつ、呑気にそんな感想を抱いたことを覚えている。
かわりに、どうやって化物の襲撃が阻止されたのかはまったく記憶になかった。気
がついたら尚美の小柄な背中がおれの前に立ち、そのさらに前方をインド人の妖怪が
しゅうしゅうと煙をあげながらのたうちまわっていたのだ。
「どうなってんだよ、いったい」
途方にくれたような口調だったにちがいない。
尚美はちらりとおれをふりかえって苦笑した。
「なにか格闘技やってるの?」
すぐに油断なく身がまえつつ、背中ごしにそう訊いた。
「いいや」おれはずずと、右手でおさえながら鼻をすすりあげる。「我流だよ。師匠
はいちおういるがな」