#2935/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 1/28 8: 6 (156)
死者からの伝言(2) 平野年男
★内容
「もちろんです。そのりんごには、返り血が着いており、少し形がつぶれて
いて、中心に穴が開いてました。ちょっと変なのは、血がりんごにあって、テ
ーブルにはなかったことです。あと、皮の剥き方からみて、剥いたのは左利き
の人間ですね。但し、被害者も左利きだから、証拠にはなりませんがね」
「それで犯人が、手にケガを負わなかった理由がわかりましたよ。犯人は果物
ナイフでそのりんごを貫通させ、鍔の代わりにしたんです。これなら手にけが
はしないし、りんごだけに返り血が着いていたことも、説明がつく」
流は続けて、次のように聞いた。
「それから警部、森香代子のことは、もう知っているんでしょう」
「当然です。近道を恨んでいることも」
「それなら結構です。次に、被害者はどこを刺されたんですか」
「左胸です」
「ということは、犯人は右利きの可能性が強い訳ですね。決め手にはなりませ
んが」
「そういうことになりますかな」
「最後に一つ。被害者は左利きなのだから、右手に腕時計をしていましたか」
「ええ、確かにしていましたよ。ダイバーズウオッチを」
「ははあ、被害者はスキューバダイビングをやっていたのですか。どうもあり
がとうございました」
流はそう言って、警察を出た。
探偵事務所に戻ると、意外なことに、大島敬子が来ていた。
「ぜひ、お話したいことがあって、待たせてもらいました」
と、彼女は切り出した。
流は、優しい目で見つめて応じる。ただ、その眼差しの裏に、どんな意図が
潜んでいるのかは、私にも分からない。
「お待たせして、すみませんでした。どうぞ、お話ください」
「夫が残した『三十』という文字ですが、私、これは三千万と書こうとして途
中で息が絶えてしまったんだと思いますの。だから犯人は、夫に三千万の借金
をしていた黒田……」
敬子は恐る恐るといった感じで、こう言った。流は目をしばらく閉じて、ま
た開き、答えた。
「なかなか興味深い推理です。しかし、事実ではないでしょう。三千万と書こ
うとして、途中で息絶えたとしたら、あの文字は『三千』となるはずです。ま
さか、千という文字の書き順を、十文字から書くというようなことはないでし
ょう。それとも勇さんはそういう癖でも?」
「……そう言われると、そうですわね。どうも、お手間を取らせてしまって」
「いえいえ、何でも聞いてみないとね。それより森香代子さんをご存知ですか。
御主人の学生時代の友人の方なのですが」
「いえ、主人からは聞かされていませんわ」
「それならいいです」
そうして私達は、敬子を送り出した。その後、流は、『三十』のことを、ず
っと考えていたようだった。
翌日、流と私は再び警察に出向いた。流は『三十』の意味がわかったらしい。
「『三十』の謎が解けたというのは、本当ですか」
と、吉田刑事は驚いたように言った。流は、
「謎と言うほどでもありませんよ。ただ、これは被害者が暗号を残そうとして
途中で息が絶えてしまったため、難しく見えたのです。被害者は『三木』と書
こうとして途中で息絶え、『三十』となってしまったんだと思います。三木の
意味は文字通り、三本の木を表していて、つまり、森という文字を示すものだ
と思います」
と言った。吉田刑事の目が、丸くなる。
「では、犯人は森香代子?」
「いや、わかりませんよ。動機が見当たらないようだし。警部、犯人の目星が
ついたら、ウチの方にきて、謎解きをしませんか」
流が言うと、吉田刑事は顔はしかめながらも、受諾した。彼も本当は、謎解
きが好きなのだろうが、警察としての体裁もあって、こんな表情をしたのだろ
う。ともかく、そこで私達は、戻った。
次の日の昼頃、目星がついたと、吉田刑事が電話で言ってきたので、午後二
時から事務所で、関係者を集めての謎解きとなった。
黒田は自分が疑われていないか心配なのか、おどおどしている。近道と森は
互いに目を反らし、黙ったままだ。敬子は、早く犯人を見つけてほしいという
表情か。
そんな中、吉田刑事が発言を始めた。
「では、私の推理を聞いてもらいたい。反論があれば、後でまとめて聞きます
から、しばらくはご静粛に。
まず『三十』の意味ですが、被害者は『三木』と書こうとして途中で息絶え
たのです。さて、『三木』とは何か。これは文字通り、三本の木です。つまり、
森を表しています。この考えは、ある人の推理を借用した物ですが」
「それじゃあ、私が犯人だって言うの」
森香代子が憮然とした顔で言った。
「いえ、動機がありませんので、断定はしません。そこで考えられるのは、被
害者ではなく、犯人が『三十』と書き残した可能性です。黒田さん、近道さん、
敬子さんの中で、森さんのことを知っているのは、近道さん、あなただけです。
つまり犯人はあなたです」
「何だと。何で俺が、あいつを殺さなきゃならないんだ!」
と、近道は荒っぽい口調で叫んだ。吉田刑事はにやっと笑い、自信満々に続
けた。
「動機は、あなたはライバルの大島勇氏を殺したかった。しかし、ただ殺した
んでは、自分に疑いがかかるから、ダイイングメッセージを残すことにより、
第三者を犯人に仕立てようとした。その第三者には、これもあなたが嫌ってい
る森さんを選んだんです」
近道は、言い返せずにいるが、認めたようなところはない。
元妻の森は、近道を、恐れと軽蔑の入り混じったような目付きで見ている。
黒田と敬子は、ただただ驚いている様子だ。
流は目を閉じたまま、何か呟いていたが、急に目を開け、しゃべり始めた。
「警部、途中で申し訳ないが、言わせてください。何故、初めに相談してくれ
なかったんです。犯人は、近道氏ではありませんよ」
「何ですと、この推理に間違いがあると言うのですか。それなら、言ってくだ
さい」
吉田刑事は、半分怒り、半分驚きの色で言った。
流次郎はすっくと立ち上がると、推理の披露を始める。
「それでは、僕の推理を聞いてください。まずは『三十』の件ですが、あれは、
吉田刑事の言った通りです。でも、これを書いたのは、やはり、被害者の勇氏
です。また、黒田さんが犯人だと言った人もいましたが、僕がその誤りを示し
ました」
これを聞いた黒田は、ちょっと驚き、すぐに安心した顔付きになった。
流が続けて言った。
「吉田刑事の推理のどこがおかしいのかと言うと、もし、近道さんが森さんに
罪を着せたいのなら、三木とは書かずに、はっきりと森と書くでしょう。僕は
消去法はあまり好きではないのですが、この場合、残った敬子さんが犯人です」
「ど、どうして私が主人を殺さなくちゃ……」
大島敬子はこう言おうとしたが、震えて、途切れてしまった。
そんな彼女に対し、流は珍しくも、冷たい感じで言った。
「この事件は、死者の意志によって、非常に難解なものとなりました。それを
今から説明します。
最初に動機ですが、敬子さんは勇氏の借金の取り立て方に、大変不満を持っ
ていたそうですね。いや、不満と言うよりも、恐れと嫌気と言った方が的確だ
と思います。とにかく、事件当夜、敬子さんはついに我慢できなくなり、勇氏
を殺してしまった。恐らく、りんごをむきながら口論している内に限度を知っ
て、ナイフにりんごを固く突き刺し、自分は怪我をしないようにして、刺した
のでしょう。
しばらくしてから、敬子さんは自首するつもりだったのだと思います。とこ
ろが血等の始末をし居間に戻ってみると、勇氏が血文字で『三十』と書いてい
た。敬子さんには、自分と『三十』が、どう関係あるのかわからなかった。人
間とは不思議なもので、自首するつもりでも、少しでも逃れる可能性があれば、
逃げようという気持ちになるんでしょうか。敬子さんは、さらにアリバイ工作
をした。幸いとすべきか、犯行のときに勇氏の抵抗にあい、勇氏のダイバーズ
ウオッチによって、後頭部に怪我を負った。これなら、別に犯人がいるように
も見えます。そして、自分は眠っていて、物音で起き、殴られたことにした」
「楽しい作り話ですわ。でも、どうして主人が『三十』なんて書いたのか、説
明が着きませんわ」
敬子の喋り方は、落ち着かせるためか、語尾の「わ」に、やけに力が入って
いるように感じられる。
「そこです、問題は。僕が最初に言った死者の意志が関係して来るのです。勇
氏は、あなたに刺されたときは、思わず殴って防御を試みたようですが、死を
覚悟したとき、あなたにだけは疑いが向けられないようにと、血文字を残そう
としたのです。しかし、はっきりと他人の名前を書くのも、良心がとがめる。
そこで、たまたま思い出した学生時代の友人であり、近道氏の元の奥さんであ
る森さんの名を、三木と組替えたのではないか」
「どうして、どうして主人がそんなことをしなきゃならないの?」
敬子は本当にわからない、といった感じだ。
「さっきも言ったはずです。御主人はあなたをかばおうとしたのです」
「嘘よ! 主人は私には見向きもしないで、お金儲けのことばかり考えていた
わ」
「それは、あなたの思い違いです。御主人は自分のことを注意してくれるあな
たを、思い続けていたのだと思います。血文字が何よりの証拠でしょう」
流が言い終わると、敬子は感極まったように、わっと泣き出した。
そして−−全てを認めた。
「本当に、人間の感情なんて、解らないものだね。お互いのことを心配し、愛
し合っていたのに、ほんのちょっと、心の行き違いがあったばかりに、こんな
事件になってしまうとは」
こう言った流に、私は聞いてみた。
「それにしても、今回は随分早く、決着がついたな」
「そりゃそうさ。元々は衝動的な殺人だったのが、被害者の加害者を思う気持
ちが複雑にみせただけだからね。僕の両親も、そんなだった」
「えっ、何だって?」
「いや、何でもない」
「何でもないこと、無いだろう。差し支えなければ、話してくれないか、流」
「その内、話すよ。今はまだ、早過ぎる。ただ、両親は共にいないとだけ、言
っておこう」
流は、それっきり黙ってしまった。そのときは何もわからなかったが、後で
聞いた彼の話は、驚くべきことであった。
了