AWC 空からの告発 1   平野年男


        
#2869/5495 長編
★タイトル (AZA     )  94/11/30  20:59  (194)
空からの告発 1   平野年男
★内容
1 断片

「何だ、おまえか」
 久海峻は、目の前にいる男に向かって、吐き捨てた。そして、乗用車のドア
を、勢いよく閉めた。
「待っていたんだ、ずっと」
 男の方は、夜の寒さにようやく耐えられるような、古びたジャンバーを着て、
両腕をポケットに突っ込んでいた。
「相変わらず、浮き沈みの激しい、いい加減な生活を送っているようだなあ」
 嫌みを言った峻はネクタイをいじりながら、さっさと歩き始めた。
「待ってくれ。話があるんだ」
「ん? 赤の他人が、何のようかねえ?」
 まだ嫌みな言い方をしつつ、峻は立ち止まった。
「……金、貸してほしい」
 何かをこらえているかのような態度で、男は言った。よく見ると、ポケット
に突っ込まれた両腕が小刻みに震えていた。
「金? 金だって? よくそんなことが言えるもんだ。この家を飛び出し、親
父の遺産を放棄したおまえが、今ごろのこのこやって来て、金を貸せだって?」
 罵声を浴びせられた男は、下を向いたままになっていた。
「どうした? 一応、金額を言ってみたらどうかな」
「……千九百万……」
「は! 話にもならん。十万かそこらなら考えてもいいと思ったが、千九百万
だと? どうせ、ろくでもないことに手を出して、借金を作ったんだろう。全
く、ちゃんとした仕事をしろってんだ」
 峻がそう言ったとき、男は急に顔を上げ、掴みかかって来た。何かにとりつ
かれたような、険しい顔。
「な、何をする!」
 身の危険を感じ、峻は必死に両手で相手を振り払おうとする。が、そんな行
動をとる必要はなかった。
「分かったぜ。もう、おまえなんかに頼みやしない」
 峻の胸倉を掴み、凄んでみせた男は、すぐに手を放したかと思うと、足早に
立ち去って行った。
「……け、金か。金、金、金っ! くそっ」
 峻は唾を吐くと、再びネクタイを正してから、家の入口へ足を向けた。

 久海寛はアルバイトと実習とを兼ねて、野原を前に立っていた。片手には虫
取り網、もう片方の手は首から下げた双眼鏡を持っている。腰の虫かごには、
少しばかり雑草が入っている。
 子供の頃から昆虫の研究に憧れていた。ファーブルが、寛の心の師匠だと言
ってよい。だが、時が経ち、彼の気持ちとは裏腹に、決まり切ったサラリーマ
ンとしてのレールに乗り、仕事をこなす大人になっていった。寛の勤める企業
の社長は寛の父親でもあった。ある意味でサラリーマンとして有利な立場にい
る寛だったが、あくせく働いているほんの一瞬、ふと、窓の向こうを行く昆虫
を認め、かなわぬ夢を脳裏いっぱいに広げたものである。
 転機はほんの一年ほど前にやって来た。父が亡くなり、寛は暮らしていくに
充分な財産を得ることができた。この金の力により、寛は初めて自分の意志を
通そうと、行動を起こしたのである。会社を辞め、九州にある大学院で勉強す
る道を選択した。
 今日は研究対象となる昆虫の収集のため、そして当地域の環境汚染度調査用
サンプル採取(これがアルバイトなのである)のために、虫取り網を片手に繰
り出した訳だ。
 彼には遺産があり、別にアルバイトの必要はない。だから正確には、実習へ
の比重が大きいとなろう。
「取りかかるとするか」
 一人ごちて、寛は網を構えた。まず、目の前をいく白い蝶に目を着けた。
(ああ! 何て珍しいんだ。いきなりこいつに出会えるとは、幸先いいぞ)
 寛は声を殺して感激していた。

「また来てるわよ、あのおじさん」
 同輩の女の子に声をかけられ、森松由起は振り向いた。ふわりと髪が浮く。
髪先からは、激しい運動の後だったせいか、少量の汗が飛んだ。
「久海さんのこと?」
「そう。あなたに興味あるの、見え見えのおじさん」
 ぞっとしない様子で、相手は言った。もっとも、俳優を目指す者のこと、ど
こまで本気の身ぶりなのか分からない。
「親切でいい人よ。お金持ちだし」
 由起は正直なところを言って、タオルで汗を拭った。
「そう言えば、そうだったわねえ。いくらか知らないけれどものすごい大金、
うちの劇団に寄付してくれたこともあったっけ」
「そうそう。天下の神さんも目を丸くしたってね。見たかったなあ」
「そういう意味じゃあ、由起はいいわ。もし一人前の役者になれなくても、あ
のおじさんに養ってもらえばいいんだから」
「パトロンも悪くないかもね」
 冗談なのか本気なのか、自分でも分からぬまま答えてから、由起は肩に大き
なタオルを羽織り、久海の待つ方へと向かった。
「やあ」
 由起が近付いていくと、壁にもたれていた久海は、バネ仕掛けのおもちゃの
ように姿勢を正した。
(かわいい)
 由起はそう思って、密かに笑った。

 海から引き揚げて間もない溺死体を見下ろしてから、今村は軽く目をつむり、
黙祷した。
「被害者の身元は」
 もう慣れてしまっているのだろう、今村刑事は遺体を前にして、抑揚のない
声で言った。眼鏡が知的な雰囲気を増している。その奥には、広げた手帳を見
つめる目。
 彼の部下がすぐさま答え始めた。
「まだです。ご覧の通り、ひどく腐乱しており、身に着けている物も潮に流さ
れたらしくて、何も。男とだけ」
 聞きながら、今村は遺体に白いシートをかけ直した。
「真っ先に、行方不明者のリストを用意しなければならんな……。事故死か自
殺か、それとも他殺か、そこらもはっきりしていないんだな?」
「鑑識のもぐらの話では、まだ何とも言えないと」
 若い刑事は鑑識員をニックネームで表現した。
「それでも、死後どれくらい経っているかぐらい、大まかな見通しが出ている
はずだ」
「聞いております。一週間ないし十日といったところらしいです」
「そうか……。アリバイの線からは、さほど網が絞れそうにない」
 嘆息する今村。が、それほど困ったのでもないらしい。表情をほとんど変え
ずに、彼は続けた。
「発見者の話は聞いたか?」
「聞いています。カップルで夜景を楽しみに来たんですね。それがとんでもな
いモノを見る羽目になりましたが……。で、そこの岸壁から」
 と、部下はしっかりと海の方向を指し示した。
「海面を覗き込んでいたら、白い塊を見つけ、どうやら人らしいと分かったの
で通報したというのがいきさつのようです」
「その発見者らが特に何かを目撃したという話はないんだな」
「残念ながら。殺しだとしても、犯行は一週間以上前ですから、なかなか難し
いのじゃないでしょうか」
「ああ、そうだな。……よし、じゃあ、近所の聞き込みを始めるか。とりあえ
ず、一週間〜十日前より向こう、見慣れない者が姿を現していなかったか、だ
な」
 今村は大きくうなずいてから、手帳を閉じた。ぱたんと音がして、気持ちが
切り替わった。

「どうだった?」
 机に向かっていた夫が、こちらを振り返る。よい結果を期待してやまない、
すがるようなその眼差しを見て、この人はこんな表情もできたんだと、祐子は
思った。
「……」
 胸にしまっておいた答を、首を横に振ることで伝える。唇はまっすぐに結ん
でおく。言葉にして伝えるには、あまりにもつらい事実だったから。
「……だめなのか?」
 覚悟はしていたのだろうが、それでも夫の声は震えているように感じられた。
わずかな望みが途切れる瞬間を味わった者特有の、表情の激しい変化が見て取
れる。
「今は、薬で、持たせられても、早く、治療、しないと、いけないって。命に、
関わるって」
 ほんの一時間ほど前、医者から聞かされた検査結果を、噛みしめ、区切りな
がら言う。
「そうか、やはり……」
 夫の視線がかすかにずれた。祐子の背後の、開かれたままのドアを通して、
赤ん坊の寝ているベッドに目をやったようだ。
「手術をしないといけないのか」
 改めて、手術という言葉が重たく感じられる。
 −−あれは一月のことだった。世間は昭和から平成に時代が変わったと、何
かと大騒ぎしている頃、生まれて一年になった赤ん坊の心臓が正常には機能し
ていないことを告げられた。一〜二年はどうにか持つだろうが、なるべく早い
内に手術を施さなければ、危ないと。
「とにかく、どうあっても手術費用、捻り出さないとな」
 夫は、机に向かい直そうともせず、こちらを向いたままである。
「そんなこと言っても……当て、あるの?」
「何とかしてみせる。やるしかないんだ」
 低いが、しっかりとした声が空気を伝わった。

 私が入っていくと、流次郎の事務所には先客がいた。もっとも、私・平野年
男は流に事件の依頼をしに来たのではないのだから、何の支障もないが。
 間の悪いことに、受付の秋子さんは席を外していた。カウンターの上にその
旨を告げる札がある。彼女が戻ってくるまで、まだ少しかかるようだ。
 仕方がないので、流が依頼人の話を聞くのに使う部屋を見やる。扉を細く開
け、私は小さな声で部屋の中に聞いた。
「いいかね?」
「平野君か。うむ、今、聞き終わったところだ」
 流は視線を私に向け、すぐに依頼人へと戻した。
「日野さん、全力を尽くします。元気を出して」
 流の言葉が効いたのかどうか、正にさめざめと泣いていた婦人は、ハンカチ
を手にしたまま立ち上がった。背は高くなく、丸っこい印象だ。
「どうか、よろしくお願いします。私、本当にあの子のことが心配で……」
「とにかく、最後まで責任持って解決に当たらせていただきます。日野さんも
ご協力ください。いつまでも途方に暮れていてはいけません」
 それからも何度か似たようなやり取りがあって、ようやく婦人は退出してい
った。
「なかなか大変そうな依頼人だね」
 私は流に向かい合うように座った。
「ま、分からないでもないんだ、あんな風にうろたえるのもね」
 流は身体を背もたれに預け、髪をかき上げた。
「どういう事件か、話してくれないか?」
「今さら君を信用しない訳じゃないが、依頼人の秘密は守らないといけないか
らな。差し障りない範囲で答えると……さっきの婦人の息子が行方不明なのだ」
「誘拐か?」
 思わず、叫んでしまった。が、流は落ち着いたものだ。片手を軽く振りなが
ら、
「いや、そうじゃない。少なくとも、誘拐と断定できる根拠はない」
 と言う。何のことか分からないので、重ねて尋ねた。流は守秘義務を考慮し
てか、まだ思案顔であったが、やがて口を開いてくれた。
「息子の年齢は二十歳なんだ。日野圭三といって、鹿児島のD私大に通ってい
る」
「鹿児島? あの婦人、鹿児島から来たと言うんじゃないだろうね」
「まさか。元々はこちらにいたんだが、学力並びに財力と相談の結果、圭三は
鹿児島で下宿生活さ。親には感謝しているらしく、週に二度は連絡をよこして
いたそうだ。ところが先日、親の方から下宿へ電話してみたら、応答がない。
たまたま留守だったのかと思って、時間帯を変えて何度かかけ直したが、やは
りつながらない。心配になって、まずは下宿の管理人に電話で当たってみるも、
そこの管理人は住人への関心が薄い。何日も見かけていないとだけ言ったそう
だ。次に大学へ問い合わせるが、ま、当然ながら、大学側は学生一人一人の動
向を把握してはいなかった。息子から教えてられていた圭三の友人宅に聞いて
みると、ここ二〜三週間ばかり見かけていないという返事だ。親の心配は極致
に達し、鹿児島まで飛んで行きたいぐらいだそうだ」
「飛んで行きたいぐらいとは、つまり、さっきの婦人、あるいは父親が自ら行
くつもりはないのか」
 あきれながら私は確認した。流も仕方なさそうにうなずいてから、続ける。

−−続く




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