AWC 『転校生』 第8章 ・峻・


        
#2866/5495 長編
★タイトル (NFD     )  94/11/19  10:26  (184)
『転校生』 第8章 ・峻・
★内容
    八

 面会が許されたのは、午後一時過ぎだった。
 翔子は集中治療室から、三階の普通の個室に移っていた。
 ノックして扉を開く。
 入り口でためらっていると、後ろから高志が背中を押した。
 翔子は水色のパジャマを着て、ベッドの上で起きあがっていた。
「やあ」
 高志がちょっと片手を上げて、声をかける。
 ぼくも同じように、やあ、と言った。
 翔子は少し恥ずかしそうに笑ってうつむいた。長い髪が、一回り小さくなったよう
に見える肩の上で揺れる。
「心配かけて、ごめんね」
 潤んだ瞳がぼくたちを見上げる。
「気分はどう」
 高志がベッドの脇の椅子に座りながらきいた。
 ぼくも、あとに続く。
「だいじょうぶ。ちょっと寝すぎたかなって感じ」
「たしかに、そうだね」
 ぼくたちは少し笑った。
 そのあと、ひととき言葉が途絶えた。
 一度深呼吸をしてから、翔子は顔を上げ、ぼくと高志を見た。
「わたしね、あなたたちに話さなければいけないことがあるの」
 翔子がなにを話そうとしているのか、ぼくは知っている。それがとても勇気のいる
ことだと言うことも。
「去年の夏休みに、わたし……」
 高志が静かに遮った。
「おまえの身にどんなことが起こったのか、知っているつもりだ。矢部が全部話した」
 翔子は驚いた表情で、ぼくたちの顔を見比べる。
 ぼくの額に残った擦り傷のあとに気付き、そして理解したようだ。
「ふたりで無茶なことをしたみたいね」
 翔子は首をかしげるようにして、小さく笑った。
 ぼくには、言わなければならないことがある。
「ごめんね。ぼくは、きみに電話をしなかった。ぼくは……」
「柴田くん、謝らなくてはいけないのはわたしの方よ。あなたを傷つけて、苦しめた」
「そんなこと……」
「夏休みのこと聞いたでしょう」
 ぼくは黙ってうなづいた。
「わたし、自分の愚かさがいやになった」
「きみは被害者じゃないか」
 翔子は頭を振った。
「わざと母に心配かけようとしていたの。ちっちゃな子供みたいに、拗ねていたのね。
自分から危険に足を踏み入れて、結局、見え透いた罠にはまってしまった。罰を受け
たんだわ。そんなこと誰にも知られたくなかった。忘れたかった」
 ぼくたちは、ただ翔子を見つめていた。
「半年たってやっと遠いことに思えてきたときに、あのことを知っているぞって電話
があったの。学校の帰りに待ち伏せされたり、うちのそばにまで来て、出てこいって
言われた。目の前が真っ暗になったけど、無視していたら、学校で言い触らすって脅
された。どうしていいかわからなくなった。一生あのことから逃げられないんだと思
った。体育館に呼び出されたとき、もうどうなってもいい気持ちになっていた」
 翔子は目を伏せ、ときおり膝に掛けた毛布の縁を握りしめながら、ぽつぽつとつぶ
やくように話し続けている。
「そこに柴田くんが入ってきた。柴田くんにだけは知られたくないと思っていたのに
……」
 胸が苦しくなった。
「柴田くんは夢中になってわたしを助けようとしてくれた。わたしは自分が惨めで、
恥ずかしくて、思わず、出ていってって叫んでいた。柴田くんが飛び出していってし
まってから、なにもかも失ってしまったと思った。もう、生きているのがいやになっ
た。みんなわたしのせいなの」
 こういうとき、なんと言ってあげたらいいのだろう。どんな言葉も思い浮かばない。
 ぼくは自分の不甲斐なさに絶望した。
「もしあのまま死んでいたら、あなたをずっと苦しませ続けることになった。ほんと
うにごめんね」
 ぼくは首を振るだけで、なにも言えない。
「高志くんも、ごめんね。あなたがどんなにわたしのことを心配してくれていたか、
母からきいたわ」
「おまえのことを一番心配していたのは、そのお母さんなんだぞ」
 高志の言葉に翔子は素直にうなづいた。
「わたし目が覚めて、最初に見えたのは母の顔だったの。どうしてこんなに痩せてい
るのかな、って思った。そのうちに自分の腕に点滴の管がつながってることに気付い
て、いま病院にいるんだとわかった。自分のしたことをだんだん思いだしてきて、母
がなぜやつれているのかわかったの」
 高志がじっと翔子を見つめている。
「わたし、泣きながら母に謝ったわ。それからこれまでのことを全部母に話した。母
は何も言わずに最後まで聞いていた。そして聞き終わると、そっとわたしを抱きしめ
て、お馬鹿さんだけど、世界で一番大切な人よ、って言ってくれたの」
 それまでうつむいたまま話し続けていた翔子が、少し紅潮した顔を上げ、ぼくたち
がここにいることを確かめるように、ぼくと高志の目を見つめた。
「わたし、死ななくてよかった」
 翔子が、初めて本物の笑顔を見せた。
「生きていてほんとうによかった」
 黒い瞳はいつもの輝きを取り戻している。
 もうだいじょうぶだ。
 翔子は確かに、乗り越えたんだ。
 ぼくと高志は椅子を離れて、病室の窓辺に立った。
 ぼくたち三人は、だまって窓の下の並木を眺めていた。
 バス通りの両側に植えられたケヤキ並木は、若葉の芽を大きく膨らませている。五
月になると、その緑は溢れるように通りをおおう。
 ぼくはもっと大きくなろう。
 そして、いつもこの人のそばにいよう。
 このケヤキのように、枝を広げ、葉を茂らせて、真夏の日差しからこの人を守ろう。
 ぼくは、春の嵐のように吹き抜けたこの幾日かの中で、初めて心が安らぐのを感じ
ていた。
「わたし、もうひとつ言わなければいけないことがあるの」
 翔子のどことなく緊張した口調に、ぼくと高志は、夢から揺り起こされたように振
り返った。
「わたし、転校することにしたの」
「転校?」
 ぼくたちは同時に聞き返した。
「母と話し合って、決めたの。新潟に母の実家があって、おじいちゃんとおばあちゃ
んが二人で住んでいるんだけど、そこにしばらく母といることにしたの」
 新潟……。
 ぼくは茫然として、体中の力が抜けたようになった。
 横を見ると、高志も同じような顔つきで立ち尽くしている。
「学校には、おばあちゃんの体の調子がよくないから、看病のために実家にもどる、
って言うことにしてある。もちろん、ほんとうは二人ともとっても元気なのよ」
「それで、いつ、行くの」
 ぼくは力無く聞いた。
「あさって」
「そんなに、すぐに!」
 ぼくと高志が一緒に情けない声を出した。
「明日には退院できるの。転校の手続きのこともあるし、決心したときに行かないと、
また迷うことになりそうだから。いったん向こうで落ちついてから、母が荷物をまと
めるためにもどってくるの」
 それが翔子にとって、もっとも良い選択だということはわかっている。
 あのことが、矢部たちの口から絶対に漏れないという保証はない。そのとき高志が
彼らにどんな報復をしようと、傷つくのは翔子自身だ。
 それに江藤と久保井とは、どうしたってあと一年同じ学校で顔を合わせ続けること
になる。
 逃げ出さずにそれに打ち勝てなどと、誰が言える。
 翔子の傷の深さは、そんなに簡単に乗り越えられるようなものではないのだ。
 それはわかっている。でも……。
 押さえがたい寂しさと無力感が、ぼくの心をおおい尽くした。
「わたし、きっと帰って来るよ。来年、高校生になるときか、それがだめなら大学生
になるとき、わたしここに、あなたたちのいるところに帰ってくる」
 ぼくたちを見上げる翔子の両目から、涙が溢れ始めた。
「だから、待っていて。わたしのこと、忘れないで……」
 翔子は言葉を詰まらせ、しゃくりあげる。
 涙は頬を伝い、パジャマの胸を濡らし続けた。
 一番辛いのは翔子なんだ。
 ぼくはそのことにようやく気付いた。
「待っている」
 ぼくはできるだけ明るい声で応えた。
「そうか、翔子も転校生になるのか」
 高志が、ゆっくり噛みしめるようにつぶやいた。
「うん。わたし、一度も自分の町を離れたことがないし、ほかの土地の、知らない学
校に移るのは不安もあるけど、柴田くんを見て、わたしもがんばろうって思ったの」
「きみなら、かならずうまくやっていけるよ」
 ぼくは、翔子と、そして自分自身を励ますように言った。

    ◇   ◇   ◇

 ホームの階段を一気に駆け上がった。
 このあいだの白いセーターは、すぐに見つかった。
 翔子は、突然の引っ越しの知らせに驚いて駆けつけた、五、六人の親しい女子たち
に取り囲まれて、胸に小さな花束を抱いている。
 ぼくと高志が彼女たちのそばに近づいたとき、発車のベルが鳴り始めた。
「ふたりとも遅いじゃない」
「友達なのに冷たいのね」
 見送り人たちが口々に非難する。
 ぼくたちは、彼女たちのお別れのじゃまをしたくなかったので、あえて出発ぎりぎ
りに来たんだ。
 それに、ぼくたちの気持ちは、ホームでの短い時間なんかではとても語りきれない。
 ぼくと高志は、翔子に握手をした。
 翔子の表情は明るかった。
「また会おうね」
「きっとだ」
「きっとだぞ」
 翔子は電車の中に入った。
 ドアが閉まる。
 ガラスの向こうで、翔子が笑顔で手を振る。
 ぼくと高志はいつものように、ちょっと片手を上げる。
 電車がきしむような音を残して動き出す。
 ぼくは翔子の目を見ながら、電車と一緒に数歩歩いて、立ち止まった。
 女子たちは、手を振りながらまだホームを走っている。
 行ってしまった。
 ぼくの幸福がいなくなってしまった。
 ぼくはもう少しで泣き出しそうだった。
 高志の方を振り向くと、頬に幾筋もの涙が伝い落ちている。
 そのとき、翔子が去って一番打撃を受けたのは高志だったのかもしれない、と思っ
た。
 物心がついてからずっと、高志のそばにはいつでも翔子がいた。高志にとって翔子
は、これまで自分が生きてきた記憶の証人なんだ。
 幼なじみでなければわからない、深い心のつながりがあるのだろう。
 でも、翔子を大切に思う気持ちはぼくだって負けはしない。
 翔子は、きっとぼくたちのところに帰ってくると言った。
 それはいつのことなんだろう。
 ぼくはいつまでも待つ。
 そのとき、もっとおとなになったぼくたちは、いまの日々のことをどのように振り
返るのだろう。
 電車の影はとっくに見えなくなっていた。


      (完)




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