#2859/5495 長編
★タイトル (NFD ) 94/11/19 10: 5 (129)
『転校生』 第3章(1) ・峻・
★内容
三
二月の終わりごろ、ぼくたちはテスト漬けになっていた。
授業が始まると答案用紙が配られ、それを二十分で仕上げる。残りの時間は模範解
答をもとに重要ポイントをみっちりと教え込まれる。それで、一年後の受験に必要な
知識を今から記憶させようということらしい。
三月の学年末テストまでの三週間、ほとんどの授業がこうして練習問題を数多くこ
なすことに使われる。
生徒たちは、初めのうちこそ試験ということで、真剣な面もちで答案用紙に向かっ
ていたが、数日たつと、もううんざりとした顔つきで、いやいや鉛筆を動かしている
だけだ。普通の授業のように居眠りをしたり、ノートにいたずら書きをして息抜きを
する暇がないのだ。
そんな中でぼくは、素敵な楽しみに出会っていた。
数学の授業が終わると、翔子はぼくの机の上に自分のノートを広げた。
「いまの図形の証明問題、わかった? 柴田くん、数学が好きだって言ってたでしょ
う」
授業中、ぼくも先生の説明が変だと思っていた。あれでは、説明されてかえって混
乱してしまう。
「あんな面倒な方法を使わなくたって、こことここの間に補助線を引けばいいんだ」
ぼくは、黒板から丁寧に書き写された図形に、一本の直線を書き足す。
「ここと、ここが相似だから、AとDは同じ角度でしょう」
翔子のノートに小さな書き込みをする。そんなことで、ぼくは胸が少しどきどきし
ていた。
「そうか。そうよね。こんなに簡単にできるんだ」
翔子が目を見張る。
「ありがとう。柴田くんって、教えるのが上手なのね」
黒い瞳がきらきら輝きながら、ぼくを見つめている。
「そんなことないよ」
ぼくは目を伏せた。
翔子は授業でわからないことがあると、なんでもぼくに尋ねるようになった。
それに一つ一つ答えているとき、ぼくは翔子が自分のものになっているような気が
した。
毎晩、ぼくは自分の部屋に上がると、翌日の出題の予想を立て、不明瞭な部分は時
間をかけて復習した。すべて、翔子の質問に満足のいく応答ができるようにするため
だ。
ここの所を聞かれたら、どんな説明をすればいいかとか、彼女ならこんなことはと
っくに知っているだろうとか、そんなことばかりを考えていた。
犬と人間は、何も実質的な報酬がなくても、ただほめてもらえる喜びだけのために、
割に合わない努力ができる動物なんだそうだ。
それでもちっともかまわない。
いったい今までのぼくは、何のために夜遅くまで机に向かっていたんだろう。
いつのまにか、翔子に会い、話をすることが、学校へ行く最大の目的になっていた。
ぼくにとってただ一つの悩みは、このささやかに満たされた日々が、あと幾日も続
かないということだ。
三年になればクラス替えがある。一学年六クラスある中で、翔子と同級になれる可
能性はたった六分の一だ。クラスが違えばこんなこともできない。話す機会のなくな
った翔子は、ぼくを忘れてしまうだろう。
ぼくの不安と焦燥とはまったく無関係に、短い三学期はまたたくまに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
学年末テストが終わった。
きのうの日曜日には三年生たちの卒業式があった。
月曜日の朝、三年生がいなくなった通学路はがらんとして、在校生たちは、もう半
ば春休みになったような気分で、だらだらと校門をくぐっていく。
今日から終業式の前日までの五日間、各科の教師たちはテストのできぐあいを点検
して、生徒たちの苦手な部分を重点的に再授業することになっている。
熱心なことだ。
でも、そんなことをしても、試験という大仕事を終えてしまった生徒たちは居眠り
をするだけだろう。
職員室の前を通りかかると、生徒たちの人だかりができている。こんなとき、背が
高いのと、視力がいいのは便利だと思う。
ぼくは人混みの頭越しに、廊下の壁に貼られたワラ半紙のリストを眺めてから、教
室に行った。
「柴田くん、すごいじゃない」
席に着いたとたん、前の席の翔子がこちら向きになって、身を乗り出してくる。
「転校してきて最初のテストで学年一位。秀才ってこういう顔をしてるのね」
鼻がくっつきそうなほど近寄って、ぼくの顔を見つめる。ぼくはあわてて体を引い
た。
「まぐれだよ」
丸く見開いた黒い目にどぎまぎしながら、ぼくは詰め襟のホックと一番上のボタン
をはずして、中に風を入れた。
「わたしもね、柴田くんとは比べものにならないけど、成績が上がったのよ。柴田く
んのおかげね」
興奮したとき、翔子の声はちょっと大きくなる。こっちはただでさえ目立つ転校生
だ。窓を締め切った教室は少し暑かったが、それよりもクラス中の目がこっちを見て
いるような気がして体がほてった。
「よかったね」
と言いかけたとき、翔子の顔が突然曇って笑顔が消えた。目はもうぼくを見ていな
い。
どうしたんだろう。
ぼくは翔子の視線をたどって振り向いた。
廊下側の窓の一つが肩幅ほど開いた中に、人影があった。窓はすぐに閉まったが、
ぼくはその顔を見ていた。冷たい薄笑いが目に残った。
三年の男子生徒だ。名前は知らないが、ときどき、あの江藤や久保井と一緒にいる
ことろを見かけたことがある。
どうして、卒業した三年生が学校に来ているのだろう。
靴のかかとを引きずるような足音が、廊下を遠ざかっていく。
首をもどして翔子を見た。
翔子は自分の机に向きなおり、硬い表情で黒板の方を見つめている。
「どうしたの?」
ぼくは後ろから小声で話しかけた。
翔子は前を向いたまま、小さく頭を振るだけで返事もしない。理由を尋ねられるこ
とを拒絶するかのような後ろ姿に、ぼくはそれ以上の言葉を飲み込んで、唇を噛んだ。
授業が始まっても、ときおり思い詰めたような目で窓の外を見ている。いつものよ
うに、後ろのぼくに話しかけてくることもない。
次の休み時間にもう一度、どうしたのかと聞こうと思っていた。
しかし礼が済むと、翔子は後ろも見ずに駆け出すように教室を出て、次の授業のチ
ャイムが鳴るまで戻ってこなかった。
今日から授業は午前中で終わる。
結局この日、翔子は二度とぼくの方に向かうことなく、終業と同時に逃げるように
教室から出ていった。
翔子がいつも陽気で明るくふるまっているばかりでないことには、ぼくは前から気
付いていた。
廊下の窓ぎわにひとりたたずんで、遠くの方を見つめているときの、なぜか影を含
んだような大人びた表情を知っている。
クラスメートたちの話の輪の中にいるとき、ふと言葉が途絶えて、うつむくように
自分を閉ざすことがある。
それは高志が言いかけた『夏休みのこと』に関係があるのかとも思っていた。
でも今日の翔子の態度は、どう見ても異常だ。
翌朝、普段はクラスでも一、二を争うほど早く登校するのに、一時間目が始まるぎ
りぎりの時刻になってから教室に入ってきた。
それでも、もう休み時間のたびに消えるようなことはない。いつものように友達と
ふざけたり、笑ったりもしている。
他の生徒たちは、翔子の変化に気付いていないらしい。
でも、ぼくにはわかる。
ぼくが話しかけてもぼんやりした返事しか返ってこない。終業時間になると、学校
にいるのが辛いとでもいうかのように、すぐいなくなる。
いつもの翔子とは明らかに違う。
なにがあったんだ。
心配でたまらなかった。
しかしぼくは、翔子にそのわけを尋ねることができなかった。
ぼくには自信がなかった。
出会ってから、まだ二カ月しかたっていない。本当のところぼくは、翔子のことを
何も知らないのだ。
不用意に触れられたくないことを尋ねて、かえって翔子を傷つけ、嫌われることを
恐れていた。
◇ ◇ ◇