#2837/5495 長編
★タイトル (FJM ) 94/11/12 0: 5 (198)
邪狩教団 第3話 ミレニアム 1
★内容
1
400人以上が詰め込まれた大講義室の中は、エアコンがフル稼働しているにもか
かわらず、息が詰まりそうな熱気が充満していた。木下玲子は暑さに喘ぎながらも、
聞き取りにくい老教授の声から単語を拾い取っては、ノートに書き記すという単調き
まわりない作業を繰り返していた。
高価ではないが落ち着いた藤色のサマージャケットとジーンズのキュロット。無造
作に束ねた長い髪。すらりと伸びたしなやかな肢体。女子大生という現代日本におい
ては2番目に特殊な人種に属している。
玲子がその気になれば、自分の体温を下げて発汗を抑えることぐらい朝飯前なのだ
が、自分のアパート内ならともかく、周囲の学生たちが揃って滝のような汗を流して
いるなかで一人平然と涼しい顔をしていれば、どのような目で見られるのか想像がつ
く。仕方なく玲子は同じように汗を流しているのである。
玲子ならずとも、こんな猛暑のさなかに講義を受けるなど拒絶したいところだが、
あいにくこの3日間の集中講義をさぼると、必須科目の一つを落とすことになる。学
期の初めに、この講義を選択したことを玲子はつくづく悔やんだ。4月の心地よい気
候のときは、同じ単位を取得するなら、1年間の講義よりも、3日間の集中講義の方
を選ぶことは当然のような気がしていたのだが、7月中旬とは思えない猛暑までは計
算に入れていなかった。
「あっついわねえ」隣の席で桜井朋美が呻いた。こちらはとっくにノートを取る努
力を放棄している。「後何分あるのよ」
「始まってからの時間を数えた方が早いわよ」玲子は囁き返した。「そんなに暑い
暑いって言わないでよ。余計に暑くなるじゃない」
「うー」と朋美は喘いだ。「暑いよお」
口を開きかけたとき、身体に微かな振動を感じて、玲子は表情を引き締めた。左手
をキュロットのポケットに突っ込む。
小刻みに暴れているのは携帯を義務づけられているポケットベルだった。音ではな
く振動によって受信を知らせるタイプである。玲子は少し緊張した顔つきでポケット
ベルを取り出すと、振動を止めてから液晶パネルに表示された数字を読んだ。
----緊急……最優先コード……。玲子は唇をかんだ。
「どうしたの、玲子」シャープペンを放り出した玲子を見て、朋美が訊いた。玲子
はそれには答えず、手早くノートとテキストをまとめると、バッグに放り込んだ。
「ごめん、ちょっと急用できちゃった」玲子は朋美に囁いた。「悪いけどノート頼
むわ」
「ちょっ、玲子、そんな」朋美はうろたえた。「何よ、急用って」
「急用なのよ」すでに玲子は椅子から離れて、身体をかがめていた。「たまには自
分でノート取るのもいいわよ。んじゃね」
言うなり玲子はリスのような素早さでするりと机から抜け出した。ちらりと教授の
方を窺い、その視線がこちらを向いていないのを確認すると、さっと入り口へと走っ
た。何人かの学生が振り向いたが、彼らは玲子の残像ぐらいしか発見することができ
なかった。
教授に咎められることなく廊下へ抜け出して、玲子はほっと一息ついた。廊下には
冷房がないので暑いことは暑いが、数百人の身体から発する熱に比べれば天国のよう
である。玲子は足早に壁際に設置されているカード電話に向かいながら呟いた。
「あーあ。これでこの単位もダメだわ。また来年取らなくちゃ」
テレフォンカードを取り出しスロットに差し込むと、玲子はしなやかな指を動かし
て、0120で始まる番号にダイヤルした。その指の動きはプロのスリが見たら羨望
のうめきをもらすだろうと思われるほど、高速で正確だった。たとえ、誰かが余計な
好奇心から、ダイヤル先を読み取ろうとしても不可能であるに違いない。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』無機質な女性の声が、玲
子に告げた。『番号をお確かめの上、もう一度……』
構わず玲子は言った。
「ハミングバードです」
カチリ。回線の向こうで何かが切り替わり、低い男の声が答えた。 ジャカリチャーチ
『タイラントだ。講義中すまないが、ただちに任務についてもらいたい』邪狩教団
の長官は申し訳なさなど薬ほども感じられない冷ややかな口調で言った。『すぐに集
合だ』
不思議なことに、玲子が一度も知らせたことがないにもかかわらず、タイラントは
玲子の講義のスケジュールを完全に熟知しているようだった。それどころか、ぶらり
と気まぐれで入った喫茶店にいるというのに確実に連絡をつけては、「今、君のいる
喫茶店から北北東へ200メートルの交差点に迎えの車を配置してある。すぐに乗っ
てくれ」などと指示してきたこともある。恒常監視されているのなら、人の数倍は鋭
敏な感覚を持つ玲子が察知できない筈がないのだが、それらしき気配を感じたことが
ない。教団の謎のひとつである。
「すぐにですか?」玲子は眉をひそめた。「せめて講義が終わるまで待てないほど
の重要な任務なんでしょうね?」
『重要でない任務などない』素気なくタイラントは答えた。
「今夜はデートなんですが」玲子は恋人もいないくせにそう言ってみた。「夕方に
は帰れるんでしょうね?」
『……』
返ってきたのは言葉よりも雄弁な沈黙であった。玲子は肩をすくめた。
「はいはい。わかりました」諦めたように玲子は言った。「私には人並みに恋愛を
楽しむ時間もないんですね。で、いつもの場所ですか?」
『いや。迎えをやった。濃紺のシビックだ。そろそろ君の大学の北門に到着する頃
だから、それに乗ればよい。合い言葉は……』
玲子はその言葉を頭に刻みつけた。
「わかりました。では後ほど」
『了解。以上』
「いつもながら冷たいわよね」玲子は吐き出されたカードを取り出しながら、罪も
ない電話機に毒づいた。「きっとこの猛暑も苦にならないんでしょうよ!ふん」
もちろん返事はなかった。もっともタイラントのことだから、玲子の言葉が終わっ
た途端に電話をかけ返してきて、「そんなことはないぞ」と答えたとしても驚くには
あたらないのだが。
北門は、正門ほど大きくはなく最寄りのJR駅へ向かう通りからも外れているので
ほとんど人気がない。実際、玲子も北門を通ったのは数度しかない。北門に面してい
る一方通行の狭い道には滅多に車も通らない。
その道を塞ぐように濃紺のシビックがエンジンをかけたまま停車していた。運転席
では、涼しそうなポロシャツを着て、サングラスをかけた若い男が退屈そうに雑誌を
めくっている。
玲子は周囲に人影がないのを確認すると、シビックに近付いた。開けっ放しになっ
ている運転席の窓に向かって合い言葉を口にする。
「忽然と、彼の正気が消え失せた」
「太陽の光彩は?」男は何気なさそうに訊いた。
「黒いヴェール」と玲子。
「『生命』と『芸術』の腹黒い暗殺者が殺し得ないものとは?」
「彼女の記憶」歌うように玲子は呟いた。「僕の快楽であり光栄でもある」
「乗れよ。ハミングバード」男は雑誌を放り出すと、助手席を示した。「すぐ出発
する」
玲子が助手席に乗り込むと、男はサングラスを差し出した。
「これをかけていてくれ」
ガーゴイルズのサングラスだったが、玲子はそれをかけて驚いた。完全に遮光され
ていて何も見えないのだ。
「ちょっと……これ」
「悪いが」と男はぞんざいな口調で言った。「到着するまで外すなよ」
渋々玲子は頷いた。同時に男はアクセルを踏み込んだ。シビックは猛然と加速し、
玲子の身体はシートに軽く押しつけられた。
「あなたのコードネームは?」
手探りでシートベルトを装着しながら玲子は訊いてみた。
「おれはただのドライバーだよ」
素気ない言葉が返ってきた。言外に余計な口をきくな、と言っているようだ。それ
でも玲子は再度試みた。
「どこへ行くの?」
「それを教えられるなら、そのサングラスはいらないだろ?」
むっとして玲子は口を閉じた。
シビックは快調に距離を稼いでいた。玲子の感覚では平均時速50キロは下らない
ところである。何度か角を曲がったが、非常にスムーズなコーナリングで、しかも速
度を落とすことがない。
およそ20分ほど走った頃、男はようやくスピードを落とした。続いて軽く落下す
るような感覚があり、玲子は地下の駐車場に入ったのだと検討をつけた。
「そいつを外していいぜ」男が口を開いた。エンジンは切らない。
玲子は言われたとおりにした。光の奔流に備えて薄目を開けたが周囲はどちらかと
いえば暗い。思った通り、どこかの地下駐車場であるらしかった。薄暗い照明に照ら
されて数台の車が駐車している。だが、ビルの名前などの手がかりになるようなもの
は何もなかった。
「それで?」
「そこのドアを開けると非常階段に出る」男は左前方の扉を示した。「2階分上が
ったところでドアを開けろ。そうすれば分かる」
「ありがと、ドライバーさん」玲子はサングラスを返した。「じゃ」
玲子が降りると同時に、男はシビックを発進させた。そのエンジン音を背中で感じ
ながら、言われた扉を開けた。
その向こうは、やはり薄暗い階段になっている。人間が2人並んで何とか通れるぐ
らいで、照明はかろうじて足元に落ちているものが分かる程度の光量でしかない。玲
子は肩をすくめてそれを昇った。
4つめの踊り場のドアを開ける。
次の瞬間、合計4丁の銃口が玲子に向けて照準された。音も気配もなかった。
驚愕するより先に身体が反応した。電光のような素早さで肌身離さず身につけてい
るメダリオンを2枚抜き出し、薄暗がりの中に立っている正体不明の相手に迫る。
----5人、いや6人!
瞬時に自分の前方にいる人間の数を把握し、玲子は最も手近にいる2人の脇をすり
抜けた。かすかに狼狽したようなうなり声とともに銃口が回る。その時、すでに玲子
は壁に背をつけ、別の一人の背後に身体を隠していた。その男の右手を後ろにひねり
押さえつけながら。
残る5人が半瞬遅れて銃口を向けた。同時に男の身体の陰から2枚のメダリオンが
別方向に飛んだ。音速で飛んだメダリオンは、もっとも壁に近い位置に立って玲子に
狙点を定めようとしていた2人の男の手元に飛び込み、正確にその親指にヒットする。
2丁のハンドガンがこぼれ落ち、リノリウムの床に転がった。残りの3人の位置は、
盾となっている男を撃ち抜かない限り死角となっている。
「そこまでだ」
太い声とともに、廊下に光があふれた。
玲子を襲撃した6人は全員が目立たない都市迷彩のコンバットジャケットのような
ものに身を包んでいた。手にしているのはスイス製のP210。
だが玲子の目は奥から現れた7番目の男に向けられていた。同じジャケットを着て
いるが両手には何も持っていない。身長190センチの黒人である。背が高い割には
ひょろ長さを感じさせないのは、全身が引き締まった筋肉に覆われているからであろ
う。額から右の頬にかけて古い傷跡が横断している。
「久しぶりだな、ハミングバード」黒人は言った。
「教官……」玲子は手をひねっていた男を離した。「ジャスミン教官」
「そのコードネームで呼ぶなと言っただろう」ジャスミンは顔をしかめた。「全く
長官もネーミングのセンスがねえよな。どうせならタイガーとかドラゴンとかつけて
くれればよかったんだが」
「お久しぶりです」玲子はくすりと笑って手を出した。「お元気そうで」
「お前もな。相変わらずいい動きしてるじゃないか」ジャスミンは玲子の手をぐっ
と握った。「さすがはオレの最高の生徒だっただけあるな」
「か弱い女の子に対して6人がかりなんて、不公平じゃありませんか」
「怒るな。久しぶりに会うお前の動きを確かめておきたかっただけだ。それにこい
つらもいい勉強になっただろう。さあ、こっちだ。タイラント長官がお待ちかねだ」
「今回の任務には教官も?」ジャスミンと並んで歩きながら玲子は訊いた。
「ああ。10人ほど連れてく」
「内容は知っているんですか?」
「いや、知らん。だが都市戦用にチームを組むように言われた」
長い廊下だった。しかも何度も直角に折れ曲がっている。襲撃を受けたとき時間を
稼ぐためだろう。玲子がそう言うとジャスミンは頷いた。
「ここは教団の保有する拠点の一つだ。もちろん表向きは某企業の所有物となって
いるがな。ボロに見えるが、設備は整っている」
ようやくドアが現れた。外にはドアノブも開閉スイッチも見当たらない。ドア自体
スライド式になっている。その表面に20センチ四方ぐらいのプレートと、オペラグ
ラスのようなレンズが埋め込まれていた。
ジャスミンは右手をプレートに押し当て、レンズを覗き込んだ。掌紋と網膜パター
ンのチェックらしい。2秒ほどでチェックは終わった。
「お前の番だ。ハミングバード」
玲子はジャスミンと同じ事をした。もし認識システムが故障などして、玲子の掌紋
と網膜パターンを未登録のそれだと判断したらどうなるのだろうか、などと考えなが
ら。少なくとも健康に良くないことだけは確かであろう。
幸いシステムは玲子をハミングバードとして認識したようだった。プシュッとドア
が横にスライドし、その向こうにあった2枚目のスライドドアが同じように開いた。
「エアロックじゃあるまいし」玲子は少し呆れてジャスミンに言った。
「ただの用心だ。入れよ」
一見、どこかの高級アパートの一室のようだった。明るい色の壁紙とカーペットが
目についた。ざっと見たところでは一通りの調度品は揃っているようだが、生活の匂
いがなくモデルルームのように見える。
しかし玲子は室内の様子などに注意を払っていなかった。玄関に立っていた一人の
少年が目に入った途端、驚きと喜びが同時にわき上がったのだった。
「カイン!」
「やあ、ハミングバード」プラチナブロンドの少年は不器用な微笑みを浮かべて玲
子を迎えた。