#2808/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 94/10/12 3:47 (200)
夜の虎(16) 青木無常
★内容
氷のような数十対の眼が、一点にむけられた。
虎に。
「わかってはいるだろうが、この者どもにおまえたちに対する敵意は、かけらもな
い」
白髭をしごきながら老ウェイレンは云った。
バラムは、笑った。
嘲笑だった。
「なるほどの」
と、ため息とともに老人はつぶやいた。――あわれむような口調で。「たとえ女、
子どもであろうと、むかってくる者すべてが敵、か。ならば賞味あれ。チェン・ウ
ェイレンの魔弦琴」
しわがれた指が、弦をはじく。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
いならぶ群衆が、機械人形のごとくバラムと正対した。
たたきおろされる重い律動が、奔流に変化した。
大地をさえふるわせるような音が渦をまきながらつぎつぎに重積していく。
その音の重なりが、流れが、反響が、無防備に開け放された精神にしのびこんで
わしづかみ、ひとつの巨大な奔流へとおし流すのだ。
虚ろな顔の群衆が殺到する。
「マリッド、銃を撃て」
耳もとでバラムが、深い声音でささやいた。
そのトーン自体が、マリッドには老ウェイレンの弦の音とは別種の、催眠術のよ
うに響きわたった。
言葉の内容よりも、その音色に恍惚としたがってしまいそうな自分に恐怖しつつ、
マリッドは激しく首を左右にふるう。
「だってこの人たち、だれひとりとして敵じゃないのよ」
弱々しい抗議の言葉は、ふりむいたバラムの微笑に圧しつぶされた。
「敵だ」
笑いながら、虎は云った。「明白な敵だ。そうだろう?」
同意を求める、というよりはあたりまえのことを云うような口調だった。
そして笑いながら、中途半端に懐中にさし入れられたマリッドの手に、無骨な手
を重ねた。
「バ、なにすんのよ」
うろたえ、身をひきかけるのを背にまわした手が強くおしとどめる。
同時に、マリッドの手をすりぬけてバラムは、ハンドガンを掌中にした。
無言、無表情のままうつろな足どりで眼前に迫りつつあった群衆にむけて、銃口
はためらいなくポイントされた。
重い音が重なり、おしよせる人影は円弧を描いてつぎつぎに薙ぎたおされた。
勢いは――まるで衰えない。屍体を踏みこえて、人形兵団は無言の前進をただひ
たすらにつづけた。
バラムもまた、かまわずにトリガーをひきつづけた。マリッドは、おしとどめる
も援護するもならず、ただ呆然と目を見はるだけだ。
その時、弦の音色がふいに変調した。
重い地鳴りのような音に、泣き叫ぶようなヒステリックな高音が加わり、縦横に
跳ねまわりはじめたのだ。
一拍おいて、呼応するごとく黒い影が踊りあがった。十。二十。
絵筆を手にしたベレー帽の老人がいた。子どもを抱いた母親がいた。そろいの服
に身をつつんだアベックがいた。あどけない顔をした姉弟がいた。だれもが、休日
を楽しむ装いをしていた。だれもが、無表情だった。
トリガーをひきつづけたままバラムは、なだれ落ちてくる青年を薙ぎはらい、だ
らしなく着崩れた昼さがりの娼婦を蹴りあげた。悲鳴をあげる三半規管に逆しまに
気が流され、アドレナリンが体内をめぐる。バラムもまた、殺戮機械と化していた。
視覚の片隅が、おしよせる波涛の間に、隙を見いだした。その時にはすでに、銃
口は火を噴いていた。
三弦琴を、火線が貫いた。
一瞬の差で、老人は空中に逃れていた。
「えい油断のならぬ」
もといた場所にこともなげに着地しつつ、老ウェイレンはむしろ楽しげな口調で
云った。「しかし、琴を破壊したのは逆効果だぞ。もうこの人形たちは、とどまる
すべを喪失した」
笑いながら宣告する。言葉どおり、憑かれたようにおしよせる群衆の勢いは、衰
えるどころかいよいよ激しさを増すばかりだった。
数の多さが、ついに暗殺者を凌駕した。飛びあがる無言の肉体がつぎつぎにバラ
ムの上におし重なり、瞬く間に山積みになった。
バラム、と叫びつつなすすべもなく後ずさるマリッドを尻目に、人山はしばらく
の間、その内部でもがく者の動きを伝搬するように揺らめいていた。
が、やがてその揺らめきもとだえた。
耳の痛くなるような静寂がおとずれた。
「これで終わりか?」
疑わしげにひとりごちながら老ウェイレンは、ひとわたり視線をめぐらせ――唇
を、笑いの形に歪める。
「なるほど。しぶとい男だわい」
つぶやきざま、その小柄な体躯が宙に跳ねあがった。
人群れの片端にむけて、銀の軌跡が吸いこまれた。
一瞬速く、おり重なる人垣が左右にはじき飛ばされ、黒いかたまりが疾風のごと
く飛び出していた。
火線が、宙に舞う老人を貫いた。
瞬間、老ウェイレンの姿は魔法のごとく消失する。
バラムの動きはしかし、それを予見してでもいたかのように、なんの狼狽も躊躇
も見られなかった。風のごとく疾走し、ふたたび解体と襲来を開始した人群れのま
っただなかに、みずから飛びこんだ。
縦横無尽に移動をくりかえしながら片端からあやつり人形と化した人々をなぎ倒
し跳ね飛ばす。肉眼ではとらえ切れないスピードに、催眠集団は攻撃方向を特定で
きないまま緩慢に右往左往するだけだった。
「ははあ、甘くみていたわ」
どこからともなく、老ウェイレンのしわがれ声が響きわたった。「これではわし
の術も役たたずか。ならば――こういうのはどうかな?」
言葉と同時に――空中に老人の姿が出現した。
――無数に。
「さて、本物はどれじゃな?」
浮遊する数十人の老ウェイレンが、いっせいにふざけた口をきいた。これもまた、
ラトアト・ラ人の神秘なる音声催眠法を知らぬ間にかけられた、結果なのか。
バラムはハンドガンのトリガーをやみくもにしぼった。
十数本の光条が大気を裂き、つぎつぎに魔術師の老体を貫いた。が――すべてが
幻像のごとく、平然と呵々大笑したままだ。
「手のうちようがあるまいが」
無数の幻像が、好々爺然とした柔和な笑みをうかべつつ云った。「ではご静聴願
おうか。合奏版“魔弦琴”」
言葉が終わるか終わらぬうちに、ハンドガンで貫かれた穴を開いたままの無数の
三弦琴に老人の手が走った。
音が氾濫した。
まさに氾濫だった。幻のかきならす、ひとつひとつの音がすべて、現実の響きを
ともなって鼓膜をふるわせた。しかも像のつむぎ出す弦音はすべてちがった動きで、
縦横無尽に暴れまわりはじめていた。
洪水は、うねり、逆まき、複雑にからまりあいながら、ひとつの流れを形成した。
マリオネットと化した群衆の動きがまた、それにあわせるようにして、複雑かつ
玄妙にバラムを追いはじめた。
しわがれた笑声が無数に空間を満たした。
「どうかな“夜の虎”。わが兵団の動き、まだまだおまえに追いつくほどのもので
はない――が、おまえの方の動作も、どうやら鈍ってきておるようじゃの。ん?」
ははは、はははは、と老ウェイレンの哄笑が、悪夢の音塊に重なって四囲をとよ
もした。
ふいに、その笑いがとだえた。
弦をかきならす指の動きはそのまま、この底知れぬ奇怪な老人の目が警戒に細め
られるのを、マリッドは見た。
四囲に聞き耳を立てるように首をゆっくりとふり――その視線が、遊弋する天使
像に固定された。
いぶかしげに寄せられた眉の下、わななくように震えた嘴から発された言葉は、
「生きている、と?」
意味を計りきれぬまま眉根を寄せるマリッドの前で、無数に浮遊する異星人の視
線が、ふたたび一斉にバラムに向けられていた。
警戒に、深く眉間にしわをよせながら。
あわててマリッドもまた、バラムに視線を移した。
そして、竜巻のような襲撃の中心で、かろうじて命脈をたもっていたかに見えた
強化人間の動きがふいに、ぴたりと静止したのを目撃した。
ここぞとばかりに殺到にかかる能面の一団が――氷結した。
魔弦琴の深い催眠術をも凌駕する戦慄を、この雑多な無意識の兵士たちは感じた
のかもしれない。
黄金の炎のようにめらめらと逆だつバラムの髪が、まるで生き物のようにざわざ
わと蠢き始める。
双眸に宿る炎。
歯をむき出し、喉の奥からうなりをしぼる。比喩ではない。文字どおりの――獣
のうなりだ。
空中庭園が、かすかにわなないたのを、老ウェイレンは感じていた。
ほんのかすかに――極力抑えられた動力部の震えにかき消されて、常人ならば毛
ほども感ずることのないほど、かすかに――
ぎらりと目をむき、老ウェイレンはむう、とうなり声をあげた。
「風、か」
つぶやいた。
洞察のごとく――ゆるやかに、そして力強く、風が一点に収斂した。
バラムにむけて。
「“気”かよ」
しわがれた声は、なかばうめきに充たされていた「天の気を、集めておるのか…
…。すると、この震動は――“地気”かよ」
渦まく風、震える粒子の中心で、バラムはふいに天をあおぎ、両の拳をつきあげ
た。
全身が、小刻みに震えていた。
老ウェイレンは、にたりと笑った。
「地上二百メートル――地気を吸い上げるには足りぬな。重力の申し子であるかぎ
りは、不利は否めまいがよ」
つぶやくように云いつつ、なおも流麗にとぎれ目なく弦をかき鳴らす腕の動きが
――ふいに凍結する。
異変が起きていた。
バラムを包囲した催眠兵団の人波が、内側から同心円を描いてつぎつぎに倒れ伏
していくのだ。
魔弦琴の糸に引かれて、あやつり人形そのまま踊りつづけていた老ウェイレンの
即席兵士たちが、文字どおり糸を断ち切られるようにして、ぼろぼろと地に伏して
いく。
「ぬう」
老人の瞳に、はじめて焦慮の色が浮かんだ。
ほぼ同時に同心円が、おのれの内部をつきぬけていくのを覚えた。
――内なる力を、吸い取られていく感覚。
とたん、宙に結ばれていた無数の幻像がふいにとぎれ、最初と同じように天宮の
台座にたたずんだ ただ一人の老人の姿に収斂した。
その老人の姿が、がくりとひざをついた。
「人の気を――このわしの気を、喰ろうておるのか……!」
答えず、バラムはただひしりあげていた。
野獣そのままに。
14.狂乱の虎
声なき叫びが、世界に向けて放たれていた。
おのれの内部に、抑えようもなく恐怖が衝きあげてくるのに気づいて、老ウェイ
レンは愕然とした。
人とかわらぬ、と見えていたバラムの外見にみるみる異変が生じつつある。
黒と黄――皮膚の色が、二色の縞模様を描いて変色しはじめていた。全身の筋肉
が、まるでそれ自体が無数の生き物ででもあるようにして盛りあがり、波うち、ぶ
るぶると盛大に痙攣した。
虚空をにらみすえた双眸に、人ならぬ炎が宿る。――飢えた虎の双眸。
「夜の……虎か!」
おのれのつぶやきが恐怖にぬりつぶされていることを、老ウェイレンは他人事の
ように耳にしていた。
その時バラムの凶猛な双眸が、ぎらりとウェイレンにむけられた。
おおおおおおおおおおおおおおおおおお!
息が炎と化しそうな声をあげた。
口腔内に牙がぞろりとならんでいた。
唇の両端が、裂けたように地獄の真紅の口を開き、抑えきれぬように笑いの形に
ぐいと歪んだ。
跳んだ。
消失したかと錯覚するほどすばやく、そして荒々しい動きだった。
追いきれず、老ウェイレンは勘に賭けて視線を飛ばす。
とらえた。頭上に、午後の太陽の強烈な光を背に負って、獲物にむけて襲いかか
る猛禽のごとく両の手を開いて静止したバラムの影があった。
それが、糸を切られたように落下した。
側方にむけて身をひねりつつ、老ウェイレンは針を放った。
二十センチにもおよぶ長大な針が五本、避ける間もなくバラムの肉体に深々と突
き立てられていた。胸、右肩、左脇腹に二本、そして右腿のつけ根。
強襲を逃れて身軽く体勢をたてなおすウェイレンを横目に、ざん、と音を立てて
バラムは着地した。
くるりとふりむく。