#2753/5495 長編
★タイトル (XVB ) 94/ 9/10 17:58 (191)
悪夢の響き(1) $フィン
★内容
ブーン、ブーン、ブーン・・・
蜜蜂の羽ばたきにも似た音がどこからか聞こえてくる。
うるさい音だ。枕を抑えて、再びまどろみの中に沈み込もうとした。
ブーン、ブーン、ブーン・・・
相変わらず聞こえてくる。
俺は仕方なく目を開けた。青白い蛍光灯が部屋を照らしている。
ああ、あれは夢だったのか。俺は手で頬を乱暴に拭いた。手は涙で濡れていた。
俺はこめかみに手をやった。濡れていた。濡れていたのは頬だけではなかった。
シーツまでぐっしょり濡れていた。
どうやら俺は泣きながら夢を見ていたらしい。俺は夢を見ていた? どんな夢だ
ったのだろう?
まったく覚えていない。今まで俺は夢を見ていると思っていたのに、俺は夢の内
容をまったく覚えていなかった。
それだけではない。俺は誰なのだろう。それにここはどこなのだろう。
俺は俺自身のことですら覚えていなかったのだ。
俺は一人でこの部屋にいる。そしてこの部屋で目覚めた俺がいた。覚えることの
ない夢から目覚めると俺は白いシーツに覆われていた。それはおそらく現実だろう。
俺は今肌触りのいい服を着ているようだ。それを触るとつるつるとして光沢があ
る。どうやらシルクに似せた品物のようだった。
俺はぐるりと首を回し、部屋を見た。部屋全体を淡い色調で統一している。調度
品も俺のために創られているようだった。
俺は額に手をやり、汗を拭いた。
べとりと手についた。
汗がべとりと手についていた。
蜜蜂の音が聞こえてくる。なんとなく不愉快だ。俺は思った。
不愉快の元を消しにいく。俺は起き上がり、その音を殺しにいった。
部屋の片隅にあるボタンを一つ押した。ブシュっという音が天井から聞こえ、蜜
蜂の羽ばたきが死に、部屋の温度がいっきに下がっていった。
ああ、そうか、俺が殺した音は蜜蜂の音じゃなく、この部屋の空調装置の音だっ
たのか俺はそう思った。
ん、待てよ。なぜ俺は空調装置の端末の在り処を知っていたのだろう? 俺はこ
の場所は初めてだった・・・と思う。断言はできないが、初めての場所だと感じて
いる。
その俺が何も迷わず、蜜蜂の・・・いや、空調装置に触れ、消すことができたの
か。何故なんだ? それすら俺にはわからない。
俺は、枕元に置かれているポットから白い液体をプラスチックのコップに注いだ。
ごくごくごく、喉がなった。口の中に甘酸っぱいものが広がるのがわかる。
半分だけ飲み、残りを元にあった場所においた。
何もかもわからない。俺はベットの上に座り込んだ。
最初に服を見た。俺は今シルクの服を着ているが、それは新品ではない。何度も
何度も洗い直したものである。それに数か所に黒い染みがところどころついている。
すると俺はこの部屋にいて、この服をずっと着ていたのだろう。
この部屋にもどこかおかしなものを感じる。まさか・・・俺はドアの把手を掴ん
で回した。
がちゃ、がちゃ、音がする。俺は把手を掴んで回している。力を入れた。
がちゃ、がちゃ、音は確かにしている。だが、どんなに力を入れても開かなかっ
た。
冷たい汗がどっと出た。
ぐぐぐ・・・うめき声がもれる。
薄々は気ついていたが、恐れていたとおりだ。
俺は閉じ込められている。俺は病人か、もしくは隔離されなければならない
存在に成り果てていたのだ。
俺は頭を抱えた。俺はまだどうやら悪い夢の続きを見ている。そうに違いない。
それも強烈で激しい悪夢に属する。見たくないくそったれの夢だ。
だが俺は、今この時が夢であることを否定できない自分に戸惑っている。普通な
ら、昨日の俺がいて、今日の俺となり、そして明日の俺になる。そんな簡単なこと
ですら俺には心もとなかった。
昨日のことも思い出せない。情けない。わかっているのは今日目覚めてからの俺
の存在だけだった。
この上等な部屋で上等の生活を続ける俺はだれなのだろう。そして俺の名は・・
・。わからない。
目が醒めると俺がいて、特別待遇の昨日のこともわからない記憶を失った俺がい
る。これじゃまるで・・・、いやそんなことないだろう。
俺はふっと昔の俺が読んだ本のことを思い出した。皮肉な・・・大事なものは記
憶が抹消されているのに関係のないものはところどころは覚えている。
俺のことを思いだせばなんとかなる・・・俺の内で何かがもがいていた。俺は記
憶の海に溺れかかっているのかもしれないな。
考えろ、考えてみるのだ。俺のことを思い出せ。
俺は目をつぶった。
じわりと汗がでてくるのがわかる。空調装置はすでに消えている。この汗は暑さ
のせいだけではないのはわかっている。
俺のことを思い出すことで悪夢にもにた現実を打ち砕くことができそうな気がし
た。
俺はそう信じた。
俺は考えた。考えに考えた。
悪い冗談だが、これが母親の中にいる胎児の悪夢なら暖かいシーツの中で、潜り
こんでいたほうがいいんじゃないのか。そんなことも考えた。
体を丸くした方がいい。そんなことも考えた。
俺は白いシーツに体にくるまれたまま、目をつぶりいろいろなことを考えた。
俺が今までどこにいて、どんなことをしていたのか・・・長い間俺が考え、いく
ら考えてもどれ一つ俺に関することを思い出すことができなかった。
あきらめかけたころ、ぽつん、ぽつん、ぽつん・・・音が聞こえてきた。
これは何の音だ。
空調装置とは違う。
うなじに熱い何かが走ってくる。
記憶に関連することであるのか。
俺は抜け出し、ゆっくり窓まで歩いて行った。
灰色のブラインドを少し開け、外を見た。そこには灰色の空があった。
ぽつん、ぽつん、ぽつん・・・雨の音だった。
灰色の空からは、ぽつん、ぽつん、ぽつんと雨の音が聞こえていた。
俺は首を竦めた。この音が俺の心を刺激して、記憶を蘇らすきっかけになるよう
な気がしたのだが、雨の音では無駄だろう。それに自然現象そのものの何のことも
ない雨を見て何を思い出すことができるというのだ。俺の記憶とは関係ないはずだ。
灰色の空から白い糸を紡ぎ続ける雨を見ているとますます憂鬱な気分になってき
た。
俺はブラインドを下ろす。陰気な雨音は耳の奥に忍び込んでくる。
俺は目を閉じ、両手で耳をふさいだ。
一度見た灰色の空は残像となって俺の心にこびりつき、一度聞いた雨音は、眠れ
ぬ夜の時計の針にも似て俺の耳にこびりついて離れなかった。
人工的な空調装置の音はスイッチで消すことができても、自然物である雨音は誰
にも消すことができない。
これでは、気がつかない自分の繭に閉じこもっていた方がましだった。俺は雨音
に気がついたことを後悔した。
俺は雨音を消すために、人工でできている音響装置に手を延ばした。
音響装置も部屋に置かれている。
俺のための部屋を創ったときに退屈させないために置かれた玩具の一つだろう。
俺は玩具に触れた。いろいろなボタンがあり操作しなければならないようだった。
だが、使い方はすぐにわかった。
俺は自虐的に笑う。
皮肉なものだな。俺自身のことはまったく思い出すことはできないのに、昔読ん
だ本やこれの使い方などは体がかってに覚えている。
昔の俺はこれをいじり、これを聞いて楽しんでいたこともあったのだろう。
銀色の円盤に触る。冷たい金属の感触。円盤は蛍光灯の光に反射して、七色に輝
いている。計算もなにもない偶然の産物だが、綺麗だなそう感じた。
円盤を装置の中に入れた。装置からは美しい音楽が部屋の中で響きわたった。
すばらしい。最高だ。
過去を持たない俺でも、この音楽が最高の環境と最高の技術で創られたものだと
わかった。
・・・俺は首を傾けた。今響いている音楽は完璧で美しい音楽であるのは認める
ことができる。しかし、この音楽には何かが欠けているような気がしている。もっ
と根本的な何かが・・・。
今、息がとまりそうになった。
一瞬、それもほんの一瞬だけ俺のことがわかったような気がした。そしてわかっ
たと思った瞬間、夢のように去っていった。
俺は一体何を考えていた? 俺は部屋中に響き渡る完璧で美しい音楽に欠けてい
るものをのことを考えていた。それが失ったはずの記憶と結びついていくのか。
俺はすべての銀色の円盤を床にぶちまけた。
がしゃがしゃと円盤が落ちていく。
どうなるかわからないが、音楽を聞いてみよう。
この完璧な音楽に欠けている根本的な何かを探す。
そして俺は見つけ出し、突き止める。
記憶が蘇るのを期待して、俺は次から次に音楽を聞いて見ることにした。
何曲、何曲も聞いた。
俺のまわりには銀色の円盤たちが積み重なり、俺は何度もため息をつき、聞いて
いた。
収穫はなし。
これが最後だ。俺が手に持っている銀色の最後の一枚を残してすべて聞きおわっ
ていた。
俺の手には古ぼけた一枚の残されていた。他のものより数段見劣りする創りにな
っていた。それにこれには他の物にはない小さな傷が数本刻み込まれていた。
俺は笑った。どんな完璧なものでもこんな欠陥品が一枚ぐらい混じっていたのだ
な。
俺はゆっくりとそれを音響装置の中に入れる。しばらくの間音がでない。
これだけ痛めつけられ、傷ついたものなら無理はないか・・・俺はあきらめかけ、
装置から取り出そうとしたとき、それが鳴りだした。
粗野で粗削りで、それでいて哀しくて切ない音色が部屋の中に響き渡る。俺は目
をつぶり安楽椅子に座り聞いていた。
聞いていると胸がじんとして心が痛くなった。涙がでそうになった。
そうか・・・俺は考えてた。
覚えてはいないが、俺は昔この傷入りの円盤が好きで、何度もここで聞いていた
のだろう。それでこんなに傷ついていたのだ。
完璧ではない音楽。どこかに欠点がある音楽。
何だかわかりかけてきた。
俺は苦笑まじりに床に転がっている多くの銀色の円盤を見た。どれもこの傷入り
欠陥円盤よりも音・質ともにいいものだ。
それらは美しいだけの代物だった。ただ一つとして俺の気にいるものはなかった。
それらには冷たいだけだったのだ。技術的に模倣しただけのものには心がなかった
のだった。傷ついているが故に、俺は心を感じさせる傷入りのレコ−ドを聞くのが
好きだったのだった。
ぷつり、ぷつり、ぷつり・・・音楽が終わり、傷ついた円盤から雑音だけが聞こ
えてくる。
ぽつり、ぽつり、ぽつり、外からは雨音が聞こえる。
俺はブラインドに手をかける。
雨音と雑音が結びつく。
そうか・・・・そうだったのか・・・俺は・・・。
俺の記憶が蘇っていた。
ひどい、そんな馬鹿な・・・ひどすぎる。
ブラインドを乱暴にたたき落とす。
こんなことなら知らなければよかった・・・いやそんなことない。ないよりはあ
った方がいい。
「うおおおおおおおお」やりきれない思いが爆発した。俺は吠えた。
この身をぶつけた。
完璧に創られた銀色の円盤を踏みつけた。
ばりばりと音がする。
俺のために特別にあつらわれた調度品の数々が俺の手で破壊される。
かまわなかった。どうせ、与えられたものだ。やつらは俺が望んでいなくても、
どんなに壊しても、いくらでも完璧なものを与えてくれる。
俺は暴れた。
皮膚が破れ、血が滴り落ちる。
美しい絨毯にも黒い染みがついた。
痛くないといえば嘘になる。
だが痛みは甘美なものとなり、俺の心を締め付ける。
俺はすべてを呪った。
すべてを破壊したかった。
あらゆるものがいやになり、俺から逃げるためにすべてをなくしたかった。
俺は傷つけたかった。俺自身の存在を確認したかったのかもしれない。
俺は傷つけたかった。俺自身を裁きたかったのかもしれない。
本当のところは傷つけることで、痛みを覚えることで、この恐ろしい現実を忘れ
ようとしていたのかもしれない。
俺は叫びながら笑っていた。