#2747/5495 長編
★タイトル (LDJ ) 94/ 8/21 9:12 (125)
『長城有情』 其四 旺春峰
★内容
砂漠の星がみるまに夜空をうめつくし、やがていくつもの流れ星がその中から
離脱しては消えた。星のまたたきはそれらの無言のためいきにも思えた。
今ひときわ輝いた星でさえ次のまたたきには消え去っているかもしれない。
流れ星に願いをすればそれはいつかかなえられるという。けれどメイホワは命を
使い果たして散ってゆくその星たちを哀れにこそ思え頼る気にはなれなかった。
父は星のことを作物の豊凶を占う天からの大切な知らせだといった。
母は星のことを幼くして逝った子たちの汚れなき魂だといった。
兄は星のことを戦で倒れた勇士が帰る安息の地だといった。
けれど夫はなにも言わずメイホワと星を眺めた。二人のまわりで星は太古の物語
を語り、踊り歌い、笑いたわむれ、涙を流しやがて夜明けの曙と戦い消えていっ
た。
もう一度あの頃に戻れたなら..。
空でひとつ星が落ちるとともに地上ではひとつの魂が天に召されて星になるとい
う。
けれどメイホワは天へ召された魂が星になるという伝説をむしろ信じたかった。
もしそれがほんとうなら願いを託すにたるのはむしろ新しく生まれる新星ではな
いだろうか。メイホワは強くそう思った。
見上げていると天から降る流れ星はいくた数知れずメイホワの瞳に映り通り過ぎ
去ったが、地上よりいでて空高く上る星はついぞ現れる筈もない。
メイホワは長城に到ったことの安堵が、かえって少しだけこれまでの旅の疲れを
招いた事に気づいた。
気持ちを奮いたたせようとメイホワはふるさとに伝わる歌を口ずさんだ。
悲しい涙は流れ星
嬉しい涙は一等星
今宵輝くあの星は
誰の流せしいかなる涙よ
メイホワが歌を歌うと長城がゆっくりと身をゆするように動いたかに見えた。石
の間から一羽の鳩が現れ暗い夜空に白い鳩が飛んだ。
鳩はやがて星になった。
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それは遠い過去の戦場の幻だった。
「殺!」
砦の指揮官の号令が発せられ若い兵士は戦いの構えに入った。
うなる投石器と弩弓の一斉射撃、匈奴の騎馬軍団はすぐ眼前に迫る。
長城の砂に埋もれた土器のかけらを手にとった時、メイホワは百年以上の昔この
地でそれを使っていた者の記憶が自分の心の中で甦えるのを感じた。
かさかさに干上がり一滴の潤いもない辺境の兵士の心。ただ殺戮だけをもって日常
としていた彼の魂がメイホワに幻を見させていた。それは痛々しく哀れな魂だった。
もう安らかに眠りなさい。メイホワは祈った。
敵はどこだ。
過去の亡霊である兵士はなおも兵士たらんとする。
俺を呼ぶのはなにもの?
私はあなたと初めてあうメイホワというもの。私はあなたと同じこの砂漠で同じくひ
とり夜空を眺め哀しみをわかちあうことができる。
メイホワは亡霊に話しかけた。
けれどもうあなたは充分戦った。今わかちあわなければならないのは苦しみより哀しみ
よりも喜びと平安そして人間らしい心。
メイホワは祈り続けた。
兵士の魂からしだいに荒々しさが消えていった。
幻の戦場はおぼろにぼやけ灼熱の砂漠はやがて現実の星ふる夜空へと重なっていった。
再び夜空に鳩が飛んだ。
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・・そうしてメイホワは数限りない幻を見た。
ある時は江南のほとりのうららかな春がすみたつ田園風景、ある時は天山の麓の牛や
羊群れ集う緑豊かな草原。
長城で使役され朽ち果ててしまった魂がメイホワの心の泉に触れると再び人間らしさ
を取り戻し、それぞれ自分のふるさとの一番懐かしく一番心地よい情景を心に抱きな
がら空へ昇華していった。
いったいいくつの魂がそうやって救われただろうか。くる日もくる日もメイホワが長城
に眠る霊と語り慰める日々が続いた。
メイホワさん。ある日今しも天に昇らんとする魂が聞いた。
あなたはとても優れて優しい人。けれど私はむしろそれを憂える。私達は供養されて
天に昇れるけれどあなたには。あなたには何が残る。あなたには待つ人がいた筈。
たしかにそれはそう。けれど。
「人の生きる目的。それはより優しい心をもつこと。他にはなにもない」
夫がいつも言っていた言葉を彼女は思いだした。きっとあの人ならメイホワがやってい
ることをわかってくれるにちがいない。あなたが教えてくれたことを私は今しようとし
ている。
たとえもはやあなたと今生でお会いすることができなくなったとしても・・。
メイホワは地平を縁どる長城の彼方を見やった。
旺春峰