#2687/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 94/ 7/17 3:30 (198)
お題>水底の天使(上) 青木無常
★内容
降りそそぐ星の間の虚空よりも黒く深く、湖水は濃い闇に融けていた。
さされる竿に波紋を裂かれて水は静かにゆらめき、老人はゆっくりとした動作で、
見えないはずのアルビノの隻眼をふりむけるようにして少年をふりかえる。
「ついたのか、占爺パラン」
閉じていた目を開こうともしないまま、少年は抑揚を欠いた声音で問いかける。
応、とも答えず老人は、枯れ木のような手足を大儀そうにおりまげ、ひどい猫背
のまま舟のへりに、無造作に腰をおろした。
道具箱からひょいと、小さな小瓶をひろいあげる。
「これを飲め」
しわがれた顔に、終始一貫してかわらぬ印象の胡乱な笑みをうかべつつ、それを
さし出した。小瓶は、見るからに毒々しい紫色の、いかにも得体の知れない異様な
液体で充たされている。
「なんだそれは」
露骨に眉間にしわをよせつつ問う少年に、
「これを飲めば、そうさな、半時ほどは水の中でも生きていられる」
「息をせずにすむ、ということか」
「というよりは」と、老人はうれしくてたまらぬとでも云いたげに笑う。「水を呼
吸できるようになる――そう理解した方が真実に近いであろうな。もっとも、人間
で試してみるのはこれが初めてではあるが」」
言語道断な台詞に少年は、毒虫をでも見やるような顔をした。
その顔を見て占爺パランは、は、は、は、と、枯れた笑いで夜気を震わせた。
「このわしが、信用ならぬか。もっともだともさ“闇の炎”。いまさら、と云いた
いところだが、ひきかえしてもわしは一向にかまわぬよ。もともとがこのわしを頼
ってきたのはおまえの方だ。信じるも信じぬもわしにとってはいささかも違いはな
いゆえ」
しわに埋もれた禿頭を盛大にふるわせながら老人は呵々大笑する。さし出した小
瓶だけは、いささかもゆらさぬまま。
少年は無言のまま、唇をかみしめて長い間、たださし出された小瓶を眺めやって
いた。
街でも名高い占爺パランの地下の店を少年が訪れたのは、半日ほども前の、夕暮
れどきのことだった。
濃く暮れなずむ、胸の痛くなるようなコントラストの空を背景にたたずむ、短く
髪を刈り込んだ少年の姿はそのとき――老占師にとって、まるで少女のように美し
く、そして危うげに目に映った。
よくよく見れば痩せぎみとはいえその四肢にも胸にも背中にも、みごとなまでの
強靭な筋肉が隆々と条をなし、危険なまでに鍛えあげられ研ぎすまされた刃のよう
な光を放つその双眸もまた、狂おしいほどの力に満ちみちている。
どこをどう眺めれば危うげ、などという言葉が出てくるのか疑問なほどの力が、
まごうかたなくその全身からあふれかえってはいたのだ。が――
それでもなお、占爺は危うげではかなげ、と、その少年を心中で形容した。
むっつりとおし黙ったままの少年を、占爺はロウソクひとつの黴くさい部屋へ招
き入れ、ふたつしかない椅子のひとつを指さし、そして云った。
「おまえさんの顔、見覚えがあるよ。闘技場だ。大商人バラルカが自信満々で送り
出した“闇の炎”と異名をとる奴隷戦士。初の目見え以来、破竹の快進撃。それに
華麗なまでの剣技と、対戦相手を殺すにいささかのためらいも見せぬ非情ぶりとが
あいまって、いまや知らぬ者とてない。――歳はいくつだったかな?」
「十四」
腰をおろしつつ少年は、抜き身の刃のような剣呑な視線をパランにすえたまま、
硬い声で短く答えた。
「若い、というよりは幼い、か。しかし、それほど顔の売れとるおまえさんが、よ
くもまあ半日ほども人目にふれずに街をさまよえたものだわい」
「おれを売るか?」
静かに、少年は問うた。
腰にさげた長剣に、手はかけられていない。椅子の背もたれに無造作に背をあず
け、ゆったりとくつろいだ体勢だ。
にもかかわらず――必要とあれば瞬時にして、たやすく老人の首を跳ね飛ばすこ
とが可能であろうとは、“闇の炎”の風評を知らずとも目の前に燃えるまさに異名
どおりの双の眼を見れば明白ではあった。
「さて」と占爺は、黒目のない灰色がかった見えないはずの隻眼を少年に向け、ど
うにも信用のならない下卑た笑いで顔歪ませる。「用件次第、とでもしておこうか?
わしに何をさせるつもりで、ここを訪うた?」
「夢を、解いてもらいたい」
簡潔に少年は答えた。
「ふむ。よかろう。代価は?」
答えず、仏頂面のまま懐に手をやるや、目の前にした小卓の上に無造作に、ごろ
りと小さな塊を放り出した。
「龍石かよ」
ロウソクの灯をまるで反射せぬ、まさに闇の凝固したとしか思われぬ異様な黒の
宝玉は、たしかに“龍石”あるいは“龍の糞”と呼ばれる稀石にまちがいない。こ
の石をめぐって、かつては国家さえ滅ぼされたほど珍重された代物であることはた
しかだが、さらなる異名“呪石”のごとく、まさに国さえ滅ぼす破滅の象徴である
こともまた、つとに有名ではあった。
古来、多くの者がその美しさに魂を奪われ、己の運を過信し、そしてそれを嘲笑
うかのごとき猛威にさらされ魂さえも焼き焦がされてきたという。まさにいわくつ
きの逸品。
「不足か?」少年は云った。自嘲するように。「あるいは、報償にはならぬ、か?」
「さて」とパランは依然、つかみどころのない笑いを顔面にへばりつかせたまま、
「不足というよりは過分。まあ、どちらかといえば報償にはならぬ、というた方が
よかろうな」
「ほかに金目のものはない」
少年は無表情だった。
老人はひょいと肩をすくめてみせる。
「ならば、眼福、ということにしておこうか。じっさい龍石など、生きてこの目に
かけることができるとは、露ほども思うてはおらなんだゆえな。さて、ならば話し
てごらん。どのような夢兆が降ったのか」
占爺は、いましもぽきりと音を立てて折れ砕けてしまいそうな痩せ枯れた手のひ
らを、少年の眼前でひらひらとふって見せた。
同じ手のひらが、今度はまったく得体の知れない、効能も副作用さえさだかなら
ぬ液体の入った小瓶を少年の前にさし出し、やはり同じようにひらひらとふって見
せている。
「さてどうする? バラルカの追っ手ども、どれほどのまぬけかは知らぬが、まあ
そろそろわしの店あたりには踏みこんでいような。売り出し中の腕のいい剣士とく
れば、殺されることこそなかろうが、とはいえ脱走奴隷を無事でよかったと落涙し
つつ迎えるわけにもいかぬだろうさ。このまま、街を出るか? それもまたよし。
もとより、この深き湖の底にひそむ古のものに指針を求めるも、ただやみくもに逃
亡の途につくも、おそらくはさほどのちがいもあるまいし」
なおもからかうような口調のしわがれた声音に、少年は寸時、わずかに眉根にし
わを寄せ――そして、小瓶を受けとった。
コルクの蓋を握力だけでむしり取り、いささかのためらいもなくぐい、と口にし
て一気に空けた。
「勘に賭けたか」嘲笑の底に、不思議なやさしさのような響きを秘めて老人は云っ
た。「いつかは、後悔する時がくるぞ」
少年はぐいと口もとをぬぐってみせ――そして、にやりと笑った。
すぐに、その笑いが苦痛に歪んだ。
がば、と喉の奥を異様な音で震わせ、前かがみに身を折り曲げた。
刺すような視線で枯れ木の老人を睨めあげる。
占爺は滑稽なしぐさであわてて、枯れ枝のような手をうちふってみせた。
「毒をもったわけではないわい。しかし水を呼吸できるようになる、とは、おまえ
の肉体に本来の機能とはまるでちがった機能を持たせるが意、そのような変容が、
およそ苦痛ぬきで享受できるはずもあるまいが、よ。ん?」
苦しげにあえぎながらも少年は、なおも老人にすえた凝視をそらさず、
「ふく……ふく……」
と、うわ言のようにくりかえした。
「ああ、副作用かい。ネズミや猿の場合には、目に見えるようなそれは現れなかっ
たがの。まあもっとも、寿命の七、八年は削られたとしても、いささかも不思議は
あるまいな」
無責任に云いはなち、ふわふわふわと笑った。
この因業爺ィ、と視線だけで吐き捨てる少年に、老人は濁ったアルビノの視線を
おかしげに歪めながら応え、そして別れをでも告げるようにして、ひらひらと枯れ
葉のような手をふった。
「では、行け。汝に幸あらんことを」
身をおりあえぐ肩にかけられたしわがれた手は、意外にやさしかった。
歯をむきだし、逡巡は瞬時にとどめ、少年はいきおいよく湖中へ身を投じた。
ごぼりと濃密な黒の泡沫がわきたち、まとわりつく闇が視界を翻弄する。
条件反射でつめていた息を、おそるおそる吐き出してみた。あがった泡は控えめ
でごく少量。あとは、まるで息そのものが液体と化したかのごとく、水の壁を乱す
ものは消失しはてていた。
思いきって、水を吸ってみた。呼吸するよりは飲みこむことを肉体が選択したの
は、意識の命にしたがってのことだろう。
胃の腑とともに、肺奥へも深く液体が流れこみ、逆まいた。こみあげるものはな
い。
吐いた。ずらりと、周囲の水をおしわけて液流があふれ出た。どうやら、水を呼
吸できるようになるとの老占師の言は文字どおりの真実だったようだ。
頭上を見あげる。宵闇の天を抱いたはずの地上は、驚くほど光に満ちあふれてい
た。
湖面に静止する舟底の影と波紋とを寸時、眺めやり、水を蹴って頭を下方に向け
た。
深い。
ただ暗黒だ。
そのまま、果てさえ知れぬ水底めざして足をふり、まとわりつく壁を手でかき分
ける。浮力は働くが、心なしか威力が半減しているような気がした。これもあの、
得体の知れぬ占爺パランの薬の影響なのか。
時はひどく緩慢にひきのばされる。頭上の光界はまるで夢遊病者のように朦朧と
遠ざかり、いつしか四囲は、闇一色にぬりつぶされていた。
夢がよみがえる。己をこの深きところへと導いた奇怪な夢だ。
――われを求めよ。
それはそう呼びかけてきた。
今と同じ、そして、にもかかわらず圧倒的に質感の異なった異様な闇の彼方から。
――われを求め、手にとり、そしてふるえ。
灯火のようにわき上がった言葉は、無明の中でなお濃密な闇のように、濃く、そ
して狂おしいほど熱く、意識のかけらをさえ燃やしつくしてしまいそうなまでに圧
倒的に、爆発した。
――われを求め、手にとり、ふるえ。
狂気のように燃える意念は闇に満ち、そして、宣告するようにしてさらに言葉を
重ねる。
――そして世界を、焼きつくせ。
と。
そしてそれに呼応するかのごとく、燃えあがる炎熱が、なお外部をつつみこむ熱
い悪夢を圧するように、内部から、胸の、腹の、奥深い淵から、灼熱の溶岩が噴き
あげるようにして膨れあがってくるのを覚えていた。
恐怖と歓喜が魂から意識を、意志を、焼きあげる。
自分の内部から抑えようもなくあふれかえる力と炎への、恐怖と歓喜。
この炎に身をゆだねてしまいたい。
この炎に身をゆだねてしまえば、おれはおれでなくなる。
この力をふるいたい。
おれがおれでなくなってしまっても。
意識は混沌と渦まき、奔流に撹拌されて存在さえ虚ろにゆらめく。
目覚めは至福と喪失を同時にもたらし、そして夜毎の悪夢はなおも執拗に少年を
責めさいなんだ。
「人はな」訥々ととぎれる少年の述懐を、口ひとつはさまず最後まで訊き終え、占
爺は長い沈黙を間にして静かに云った。「だれでも、己の内にいくたりもの見知ら
ぬ自分を抱えこんではいるものでな。とはいうても、多くの場合はそれも泡沫のご
とき生涯に一度たりとも、ひとつたりとも顕現することなく、選ばれた仮面ととも
に墓石の下へとうずもれていくものではある。が――おまえのそれは、仮面の底に
埋もれたままでいるのを、よしとはできぬようだ。しかも――」
と、老人は目を閉じた。
見える片目だけ。
光を宿さぬ白子の隻眼は、代償にか神威の異世を見透さんばかりに混濁した凝視
を、少年に投げかけた。
そして、長い間をおいて、云った。
「とてつもなく、深い。おまえという、小さな個人ではなく、もっと奥の奥のその
また奥にひそむ太古の闇から、それは呼びかけてきておるようだ。さて、この老い
ぼれにはちと荷がかちすぎるわ」
「夢解きはできない、ということか?」
失望した風もなく、ただほんのかすかに眉間にしわをよせながら、少年は淡々と
問う。
アルビノの隻眼がつい、と閉じられた。同時に、神世の威圧が消え失せた、よう
な、気がした。
「わしでは、たりぬようだ。さて、馬車を駆るより騎馬のがよいか。早駆けは、得
意か?」
老人の言葉の真意をはかりきれぬまま、少年はいぶかしげに眉をよせつつも「苦
手ではない」と答える。
「よかろう。人目をさけてこのわしが馬を手配する。小半刻ほど待って、おまえは
街の西門でわしが来るのを待て。あとは全速力で駆けに駆け、さて、夜半すぎには
たどりつけるだろう」
「どこへ?」
簡潔な少年の問いに、
「西の山麓に、クロナエヤ湖という湖がある。知っているか?」