#2657/5495 長編
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ヴェーゼ 第3章 旅の始まり 1 リーベルG
★内容
1
ドアの外に立つ若い女を見たとき、パウレンは相手が誰だったのかはっきりと思い
出せなかった。それは記憶力というより、自由魔法使いであるパウレンの習性が原因
だった。相手の魔法が作り出す波紋によって他人を判断したり識別したりすることが
無意識のうちに習慣と化しているため、リエのように波紋を全く発していない人間が
相手だと、普段使わない記憶のページをめくらなければならないのだ。
ようやく記憶に刻まれている顔が、目の前で心配そうにこちらを見つめている顔と
一致した。反射的に結界を張ろうとして、相手に敵意も戦意も感じられないことに気
付いた。
本当に同一人物なのだろうか?パウレンはまじまじと相手を観察した。悪戯をした
子供が叱られるのを待っているような表情で、パウレンの反応を窺っている若い娘が、
あの夜、戦った強大な魔力の持ち主とはとても思えない。力をぶつけあった時は、思
わず惹きよせられるような美しさを感じたものだが、ここにいる娘は健康的ではあっ
ても、神秘的な美や冷酷な残忍さとは、まるで無縁の平凡な娘に見えるのだ。
躊躇いながらパウレンは口を開いた。
「おぬし、名は何という?」
同じく躊躇いながらリエは答えた。やや震えていたが、しっかりした声だった。
「リエといいます。あなたがパウレンですね」
「そのとおりだが……」パウレンは、まだはっきりした考えを持てないまま続けた。
「なぜ、私の名を知っているのだ?あの夜、名乗ったかな?」
リエが答える前に、リエの陰に隠れていたトートが姿を現した。
「パウレン様」
「お前は確か盗賊のトートンアードだったな?こんなところで何をしているのだ」
「いえ、こちらの魔法使いの方に道案内を命じられまして」トートはうやうやしく
答えた。
「私の名前を教えたのはお前だな」パウレンは納得すると、リエに視線を戻して、
小声で言った。「あの時とは、かなり様子が違うな」
それは皮肉でも嫌みでもなかったが、リエは顔を赤らめた。
「その……あの時は……」
何と言っていいのかわからず、口ごもったリエを見て、パウレンは短く笑った。
「今のおぬしが、あの時とは違った人間であることはわかる。何か私に話があって
来たのだろう?」
「ええ」安堵のため息をつきながらリエも微笑んだ。「長い話が」
「まあ中へ入るがいい」パウレンはドアを大きく開いて、リエとトートを招き入れ
た。「イーズ!客人だぞ。熱いサリューの用意をしろ」
一人森の中へ分け入ったキキューロは、すぐに困惑の表情を作って立ち止まること
になった。巨大な魔法使いなら、必ず発している筈の波紋が途切れているのだ。まる
で、追っている魔女が魔力を使うのをやめたように。
「ふん。そいつが後を追われることまで考えていたとは思わんが」キキューロは独
り言を言った。「どういうわけか、魔法を使うのをやめたらしいな。となると、波紋
を追っても無駄かもしれんな、くそ」
キキューロは少し考えた。そして何かを思いついたように顔を上げると、ぐるりと
頭を回して周りを確かめた。
「ふん。場所はここでいいだろう」
マントをばっと跳ね上げ、キキューロの両手が高々と天に向かって差し伸べられた。
両手の指は、複雑な形に組み合わされている。
「我が名を司る天に問う!汝が下僕、シャリキーンとの古き盟約に従い、かの手の
一つを、今、我に貸し与えることを許したもうや!?」
キキューロの口から発せられた呪文が、森の木々の間に吸い込まれた直後、一羽の
大きな年老いた鴉が羽ばたきの音と共に姿を現した。鴉はキキューロの頭上を2、3
度旋回した後、その右腕に躊躇いもなく止まった。
「予は古き盟約に従い、汝の力となるべく見参した」鴉はしゃがれた声で言った。
冷酷に光る琥珀色の両目はまっすぐキキューロを見つめていた。「汝は、古のシャリ
キーンの名において誓言する用意があるか?」
「誓言する」キキューロははっきり答えた。
「では汝は支払わねばならない代償に同意するのだな?」
「諾」
途端に、鴉は鋭い嘴をキキューロの右の眼窩に突き入れた。ブツリと何かがちぎれ
る音と共に、血に染まった眼球がえぐり出された。鴉は素早く、こぼれ落ちかけた眼
球をくわえ、咬み潰し、嚥下した。
キキューロはうめき声ひとつ上げず、不敵な笑いを刻んだまま立っていた。右の眼
窩がぼっかりと開いた血まみれの空洞になっているというのに、苦痛の色すら見せな
い。
「契約は為された」鴉は言った。鋭い嘴は毒々しい鮮紅に染まっている。「汝の望
むところを訊こう」
「少し待て」キキューロは遮った。「招かれざる客人がいるようだ」
その言葉が終わらないうちに、キキューロの背後で脅えたような叫びと共に、草が
ガサガサと鳴った。
「出てこい、ブワーズ」キキューロは振り向きもせずに声をかけた。怒りも敵意も
ない、優しい声音だった。「話をしようじゃないか」
背後の草陰で、はっきりと躊躇う気配が感じられた。やがて、草をかきわけてブワ
ーズの巨体が姿を現した。丸顔には玉のような無数の汗が浮かんでいる。しばらく前
から風が止み森の中は少し蒸し暑かったが、ブワーズは少しも暑さを感じていないよ
うだった。
「おれはガーディアックで待っていろと言ったはずだな?」キキューロはゆっくり
と振り向いた。腕には鴉を止まらせたままだ。「なぜ追ってきた?」
「あんたから目を離すなと言われていた」ブワーズは小声で答えた。
「ふん。あのじじい達の命令か?」
ブワーズの視線は、冷たく光る目で自分を見つめている鴉に引き寄せられたように
「キキューロ、あ、あんたは」恐怖に耐えかねたように、震える声でブワーズは叫
んだ。「禁じられた灰色の魔法を!」
「そう。太古のアンストゥル・セヴァルティを席巻した灰色の魔法さ」キキューロ
は悪びれずに答えた。「おれが、この若さにもかかわらず、どうやって協会の上位に
昇ったのか、これでわかったか?」
「邪悪な!」ブワーズは叫んだ。だが、その声に前ほどの勢いはない。
キキューロは高笑いした。眼窩から流れ出る鮮血が、頬を伝い、顎から滴り落ちた。
「ふん、邪悪か。結構!協会が教える黒と赤と白の魔法なんぞ、灰色の魔法に比べ
れば児戯に等しいのだ。真に力を求める者ならば、いずれは灰色に行き着くこと、こ
れは必然なのさ。禁じられた邪悪な灰色!結構じゃないか。おれがその禁を作ったわ
けでもなければ、それに賛成したわけでもない」
「協会から追放されるぞ、邪悪の徒め!」
「協会には何もできんさ。それに、いずれおれがマシャの頂点に立った暁には、協
会の紋章には、もう一つの色が加わることになる」
「ばかな!いかに強い魔法でも、邪悪な灰色などを老師たちが受け入れるわけがな
「だからおれがマシャの頂点に立つと言っているだろうが」キキューロは面倒くさ
そうに言った。「近い将来、今の長老たちは抹殺され、おれがマシャの新しい支配者
になるのさ」
「妄想もたいがいにしろ、キキューロ!」ブワーズは恐怖を忘れたように叫んだ。
「たとえ長老を卑怯な手で暗殺しても、全ての魔法使いがお前など認めるものか」
「ふん、そうかな?まあいい。もうすぐ死ぬお前なんぞに何を聞かせても仕方がな
いさ。何か言い残すことはないか?ブワーズ」
「おれを殺したら老師たちはお前を糾弾するぞ」思わず後ずさりながら、ブワーズ
は叫んだ。「お前の力は封じ込められる」
「あのじじい達は気付かんさ。お前は、おれが追っている正体不明の邪悪な魔法使
いに殺されたことにするからな。それに時至るまでは、おとなしく灰色の魔法は秘め
隠しておく。どれ、そろそろ愚か者と話すのも飽きたな。言い残すことがないのなら
終わりにするぞ」
ブワーズの顔に追いつめられた獲物の表情が浮かんで消えた。恐怖に震えてはいた
ものの、決して憶病者ではないブワーズは素早く呪文を唱えた。キキューロを攻撃し
ようというのではない。逃亡するための変身を行う魔法である。
だがキキューロはもっと素早かった。といっても魔法使いらしく呪文を唱えたわけ
ではない。蛇のように片手が動いたかと思うと、細身の投げナイフが空を切り、ブワ
ーズの開きかけた口に突き刺さった。苦痛よりも驚愕のうめき声を洩らしたブワーズ
は、首の後ろへと突き抜けている短剣の柄を握ったが、続いて飛来した短剣が心臓を
貫いた。
「おれが魔法を使うと思ったか?うすのろのデブめ」キキューロは嘲笑した。
ブワーズの巨体がぐらりと揺れて、地面へと倒れかかる。キキューロは素早く駆け
寄ると、ブワーズの太い首を片手で鷲掴みにし、巨体を宙吊りにした。
「もうちょっとだけ生きてな」
キキューロはそう言うと、口の中で短く呪文を唱えた。死に瀕したブワーズは、そ
れを耳にして、はっきりと恐怖の表情を刻んだ。言葉にならないうめき声が、血の泡
とともに口から漏れる。キキューロはそれに構わず、もう一方の手の人差し指を、ブ
ワーズの額に触れ、そのままぐりぐりと押しつけた。鴉はキキューロの肩に移動して
興味なさそうに、その光景を見つめていた。
「お前の力を頂くぜ、デブ」悪魔的な笑みがキキューロの顔を彩る。「大した力じ
ゃねえが、死神にくれてやるよりはマシだろうよ」
みるみるうちにブワーズの顔から血の気が失せていった。生気に溢れていた巨体が
次第にしぼんでいく。ブワーズの額にめり込んでいるキキューロの指は、それ自体が
一本の血管になったかのようにビクンビクンと脈打ち、ブワーズの生命の根源を貪欲
に吸収していた。それにつれて、ブワーズの顔には、およそ人間が体験することに耐
えられるとは思えないほどの恐怖が深く刻まれていく。
やがてキキューロは満足そうに指を抜くと、ブワーズの身体を放り出した。それは
ほとんど人間の形状をとどめていない、奇怪な皮と骨の集合体でしかなかった。カサ
カサに乾いた表皮は、地面に放り出された衝撃でボロボロに崩れかけていた。少し強
い風が撫でるだけで、たちまちひとかたまりの塵となって消滅することだろう。
「ふん。うすらデブめ。おとなしく待っていれば生かしておいてやったものを」キ
キューロは息一つ乱さずに吐き捨てると、身動きひとつしないで今の短い一幕を眺め
ていた鴉に注意を戻した。鴉は差し出された腕に戻った。
「待たせて申し訳ない」
「汝の望むところを訊こう」鴉は何事もなかったかのように繰り返した。
それは数日前のことだった。キキューロは、齢を重ねて巨大な枝を広げているカシ
の大木の根元に座り、瞑想状態で時を費やしていた。
すでに広い森中に、数百羽の様々な鳥たちが放たれ、キキューロが求めるものを探
すために昼夜を問わず飛び回っていた。
アンストゥル・セヴァルティに魔法使い協会が誕生する以前、シャリキーンという
存在があった。それは強力な魔法で、人間、動物を問わず、あらゆる生命に栄光を約
し、地上を支配しようとした。血の生け贄を基本とする祭礼が、一時、地上を覆った
が、少数の賢者達の魔法によって、シャリキーンは地上での活動を阻止されることに
なった。
魔法使い協会は、邪な存在であるシャリキーンとの接触を永遠に禁ずることを誓う
ために結成された。現在では、当初の目的よりも、アンストゥル・セヴァルティにお
ける魔法支配の維持が主要な目的となっているが、シャリキーンとの盟約、すなわち
灰色の魔法を固く禁じる教義が、協会の根底に流れるものであることは変わらなかっ
た。
だが、禁じられた魔法の強力な魅力に負ける魔法使いは、何年かおきに必ず出現し
た。発覚すれば、協会の手で必ず抹殺されるのだが、キキューロは現在のところ、疑
惑の対象となったことはなかった。そして、今、キキューロは与えられた任務を奇貨
として、協会での地位を一気に上昇させようとしていたのだった。