#2642/5495 長編
★タイトル (NKG ) 94/ 6/16 22:39 (114)
【夕刻・曖昧・余情物語】 一の刻「記憶」(下) らいと・ひる
★内容
魔法。
音がきらきらと光りだす。
調和した和音が大気に反射して輝いているように見えてくる。
ぼくは、幻想の中にいた。
現実なら、あの子の声が聞こえるわけがない。
『ねぇ、遊ぼうよ』
たしかに、あの子の声に間違いない。あの子の記憶は曖昧だが、声と容姿は忘れる
はずがない。それだけは、ぼくの心に焼き付いているのだから。
『ねぇ』
だんだんと声が近づいてくる。
ぼくは、何かいたたまれない気持ちになった。
罪悪感。
そう。
ぼくは、あの子に謝らなければいけない。
黙って行ってしまったのは、やはり心残りであった。
「澪ちゃん」
ぼくは、懐かしい名前を呼ぶ。
「澪ちゃん」
記憶の奥に埋もれかけたその名前を、必死に掘り起こす。
『章ちゃん、久しぶりね』
その声で後ろを振り返ったぼくは、あの子の姿を見つけて唖然となる。
そこにいるのは、あの当時のままの姿の少女。
予想はしていたはず。だけど、いざ目の前に現れるとその心構えは意味をなしてな
かった。おもわず、心が震える。
懐かしさと、恋しさと、罪悪感で。
「ごめん」
あの子を前にして出た言葉はこれだった。何も言わずに行ってしまったことが、や
はり心の中で傷を作っていたのだ。
『いいのよ。あたし知ってたもん』
あの子のあどけない笑顔が眩しい。こんなにも簡単にぼくを許してくれるのか。
「ほんとうにごめん。きちんと『さよなら』言えなくて……」
ぼくは、まだこだわっていた。あの子は許してくれているのに。
『気にすることはないわ。だって、また章ちゃんに会えたんだもん』
その言葉で、ぼくの心が癒されていくような気がしてきた。ずっと引っかかってい
た気持ち。曖昧な記憶の中で唯一のはっきりとした傷。
「ありがと。ぼくも澪ちゃんに会えてよかったよ」
思わず十年前と同じ口調でそう言葉を返してしまう。懐かしさのあまり、というよ
り、これがぼく本来のものなのだろうか。
『ねぇ、遊ぼうよ』
あの子のほんのりと甘い声が、ぼくの心をくすぐる。
何かがひっかかり、言葉を返せない。
『章ちゃん』
首を少しかしげて、ぼくを見つめる。
『ねぇ、遊ぼ』
魅惑的な瞳から目をそらし、やっと言葉を見つける。
「ごめん。」
あの子は、不満そうな声で言う。
『章ちゃん、謝ってばかりいるのね』
そんな顔されたら、考えが鈍ってしまう。小悪魔的な仕草は昔と変わらないな。
「ごめん。もう、遊べないんだ」
あの子の顔に悲しげな表情が浮かぶ。泣きそうまではいかないが、とにかくぼくの
ことを憂いた瞳で見つめる。
『しょうがないよね。また会えただけでもよかったんだから……』
あの子は独り言のようにそう呟くと、悲しみの色を奥にしまいこんで、にっこりと
笑顔をつくる。
『ばいばい…章ちゃん』
けなげに手を振るあの子。
少しぐらい遊んでやったっていいじゃないか、と心の奥でもう一人のぼくが呟く。
だけど、そんな名残惜しいことをして幻想に浸るのはよくないという、もう一人の
ぼくの声の方が強かった。
ぼくは、心の中で決着をつける。もう会うことはないだろうと。
「澪ちゃん。ばいばい」
夕闇があたりを染め始めたばかりの頃であった。
*
自宅に帰るとシャワーを浴びて、いつもの癖でテレビをつける。
――まずはじめに、チバケンウラヤスシで………
ニュースが流れてくるが、そんなものは耳に入らなかった。今日の出会った幻想に
比べれば、現実なんてちゃちなものだ。
冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、一気にそれを喉に流し込む。そして、テレビの
映るニュース番組をぼんやりと眺めながら、記憶の整理を始めた。
やはりあれは、幻想だったのだろうか?
いや、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
あの曖昧な記憶には、『澪』という一人の少女が焼き付いている。そして、忘れか
けていた幼い日々を思い起こす鍵なのだ。
あの子との別れは、幼き日々との別れを意味する。
『もう遊べないんだ』
自分で言ってしまった言葉を思い返す。
もう子どもじゃないんだから、と自己主張する奴がぼくの中で目覚め始めているの
か。
まあ、あれで完全に決着がついたとも思えないな。
しかし、あの子に会いたかったことはたしかだが、あんな形で再会しようとはね。
会えるとも思っていなかったからうれしかったことは事実だな。
おかげで心の中に長い間引っかかっていたものがとれたし。
――ルルルルル…ルルルルル…
ふいに電話が鳴る。
せっかくの休日なのに、あいつを放っておいたから、少しむくれてるのかな?
頭の中からは、あの少女のことが消え、一人の現実の女性の顔が思い浮かぶ。
と同時に、幻想への感覚はとぎれ、それまで沈黙していたかのように思えたテレビ
の音が耳に流れてくる。
――……の連続少女誘拐犯として手配中であった『鈴木孝夫』容疑者が、さきほど、
――M県F村近くの森で死体で発見されました。調べによりますと……
幻想ばかり考えていてもしょうがないな、と電話器を取るために立ち上がる。
受話器を取ると、元気なソプラノヴォイス。
「はい、佐伯ですけど。…あ、純子。…今日は大事な用があってさ。…うん、悪いと
は思ってるよ。この埋め合わせはきっと…そう怒るなってば…え?…だからさ……」
夕刻は、曖昧な闇と光の狭間の世界。そこには、幻想、不思議、哀愁、情趣がただ
よい、飽和した時の粒子が交差する。
(了)