AWC 代理UP>店長候補5    鳥  (転載者:藤堂龍)


        
#2617/5495 長編
★タイトル (MUJ     )  94/ 5/15  11:18  (116)
代理UP>店長候補5    鳥  (転載者:藤堂龍)
★内容

                                       5

「お母さん、X線CTの検査の結果ですがね」
  医師は、レントゲン写真を何枚も持って、ゆっくりとめくり、その中の一枚を取
り出した。
「これをご覧ください。息子さんはですね、右側頭葉の前の方に出血が見られます。
ここです。わかりますか」
「はい」
 司津恵は、何度もうなずいた。
「息子さんは、まだお若いですからね。我々も、脳炎かなと思ったんですが、CT
を撮ったら、脳梗塞だとわかりましてね。出血量は、それほどでもないですが、た
いへん危険な状態です」
「寝たきりになるとか……」
「いや。安静にしていれば、そんな障害は残らないでしょう。ただ、ストレスでだ
いぶ精神の方がまいっているようですね。ストレスが発症の原因だとすると、そこ
から取り除かなくては……」
 司津恵は、医師の言っていることが、よく飲み込めなかった。
「なにか、原因があったんでしょうか」
「息子さん、お仕事のほうは、どうでしたか」
「はあ……。毎日、だいぶ疲れていたようです。私も怖いくらいに。夜も眠れない
ようで、うわ言をいっていました」
「どんなうわ言です」
「ええ……。『お客様』とか『アルバイト』とか。よくわかりませんが」
「お仕事は、レストランでしたね」
「そうです」
「副店長だったとか。まだ、お若いのに責任ある立場で、たいへんだったでしょう」
「そうだったかもしれません」
「夜勤も多かったのですか」
「そうですね。毎晩のように、夜勤でした……」
「なるほど……」
 医師は、司津恵の言うことをメモしていた。
「最近、働き過ぎで突然死してしまう働き盛りの人が、全国で問題になっています
ね。いわゆる”過労死”です」
「ああ、聞いたことがあります」
「過労死というのは、労働による過労が原因で、脳梗塞や心不全で死に至るという
ことなんですが、まだ、そのメカニズムは医学的に完全に解明されたというわけで
はありません。長時間の休日なし労働や、深夜勤務、過重な情動ストレスが、疲労
の蓄積を招き、それが長時間続くと、交換神経や副腎の働きで体内のホルモンの分
泌が変化し、血圧の上昇、動脈硬化が起こり、血液の凝固機能が高まり、その結果、
脳出血や脳梗塞、心不全が発症するのだと言われていますね」
「はあ……」
「つまり、疲れ過ぎで、脳梗塞になることがあるらしいんですよ。息子さんの場合、
まさにそのようですが……」
「でも、疲労といっても、そんなに体を使う仕事ではないようですが」
「お母さん、ここで言う疲労は、単なる筋肉疲労とは違うのです。過重な責任、不
本意な配転、家庭生活の問題などからの情動ストレスですね。息子さんは、夜勤を
されていたそうですが、夜勤というのも、人間の本来の生理に反することなんです。
明るくなったら起きて、暗くなったら寝るというのが、本来の生理的リズムですか
ら、これはやっていればやがて慣れるというものじゃないんですよ」
「確かに、夜勤は多かったです」
「息子さんは、休みの方はどうでしたか。ちゃんと取られていましたか」
「……ほとんど毎晩、明け方に帰って来るようでした。休みの日にも、出掛けるこ
とも多かったようです」
「だいたい、実働労働時間三千時間、うち残業時間千時間というのが、”過労死ラ
イン”と言えるそうですね。日本の三千五百万人の男性労働者のうち、一千万人は
そういう状態だそうです。別に強制されたわけじゃなく、本人の自由意志というこ
とになっていますが、結局昇進レースに勝ち残るためには、そこまで働かざるを得
ないんですよ。特に、石油ショックや円高激震の時期に過労死と思われる死亡が最
も増えている。人員削減、徹底的なコストダウンにより、労働が強化されるからで
す。また日本の場合、通勤時間が欧米の約二倍、平均往復約二時間かかる。――息
子さんはどうでしたか」
「ええ。片道一時間はかかっていたようです」
「長時間通勤というのは、ある意味では労働よりきついですからね」
  司津恵は、医師の話に、少なからずショックを受けていた。
「脳溢血は、仕事が原因だったんですか」
「そうかもしれませんね」
「そんな……。補償とかは、してもらえるんでしょうか」
「う〜ん、そういうことを裁判に訴えた例はいくつかありますが、労働災害の補償
が認められるのは、かなり難しいでしょう。仕事との因果関係の証明が難しいし、
強制されたのならともかく、自分で自発的に働いているわけですから、その責任を
会社に負わそうとしても、なかなか認められないんですよ」
「そうですか」
「労働基準監督署に労働災害保険給付申請をするのですが、現業での事故死などな
らともかく、息子さんのようなホワイトカラーのサラリーマンの労働災害認定は、
ほとんど皆無といっていいぐらいなのです。労働省が支給を認めたのは、1989
年度では全国で三十件に過ぎません。労働省の見解では、仕事が原因で倒れたと言
えるのは、『倒れる直前に二十四時間連続して働いた場合』や『倒れる前一週間連
続して休みを取らず毎日十六時間程度働き続けた場合』に限られるそうです」
「そうですね、裁判となると……」
「しかし、息子さんが本当に過労死にいたる症状だとすると、その職場はかなり危
険な状態だと言えるでしょうね。ハインリッヒの法則というのがありましてね。労
働災害においては、一人の死亡が発生している場合には、二十九人の傷害が発生し
ており、三百人の事故寸前の事態が発生しているという、統計があるんですよ。体
と相談して働きませんとね」
「体に注意しろって、あれほど言ったのに……。いくら一生懸命働いても、倒れて
しまったら何にもなりませんよね、先生」
「そうですね。それはそうです」
「先生からも、亮太に言ってやってください。お願いします」
 司津恵は、涙声で懇願した。
  司津恵が病室に入ると、亮太は、ベッドに座って、焦点の定まらない目をしてい
た。亮太は、司津恵に気付くと、とたんに目を見開いて叫び始めた。
「俺、こんなところに寝ていられないよ。かあちゃん、なんで俺をこんなところに
連れてきたんだよ。俺は寝てなんかいられないんだよっ!」
 亮太は、狂ったように立ち上がった。表情が異様で、左手がきかずにぶらぶらし
ているので、立った姿は化け物のようだった。母親は、恐怖にかられて後ずさりし
た。
「かあちゃん、かあちゃんは俺のことなんてさっぱりわかっていないんだ。俺はも
う少しで店長になれるんだ。もう少しだったんだ。それを、こんなところに連れて
きて、なんで俺をこんなところに連れてきたんだよ」
  急に亮太は、身をかがめて、ベッドの回りを歩き出した。
「テーブルを拭かなくちゃ。ガムがついていたら、真田マネージャーになぐられる
んだ。ガムを探して取らなくちゃいけないんだ。」
 亮太は、うろうろと歩き回っていたが、やがてベッドの上に、ぺしゃりと放心し
たように座り込んだ。そして、子供のように手放しで声を上げて泣き出した。
「亮太、亮太っ!」
  司津恵は、うろたえながら駆け寄った。
「かあちゃん、俺、店長になれん。俺、店長になれん――」
 司津恵は、亮太の体をつかんだ。
「……なんでだ、なんで店長になれん」
「俺、高卒だから店長になれん。うあ〜」
  亮太は、子供のように手放しで口を開けて大声を上げて泣き出した。
「亮太〜」
 母親も、両手で亮太を抱き締めながら、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
 病室の他の患者たちは、声をひそめて見ないふりをしていた。





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