#2582/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 94/ 4/ 3 12: 2 (200)
幻都放浪(29) 青木無常
★内容
泡幻童子は沈黙した。
あまりのできごとに呆然としていた。
さんざ殴りつけたケイオスに、まだ反撃する余裕があるとも思っていなかった。
だから思いきり突き飛ばされて派手に尻もちをつかされたとき、何が起こったの
かわからずに俺はさらに呆然と目を見ひらいていた。
そんな俺を、仁王立ちになって睨み降ろすケイオスの顔貌には、壮烈な鬼気が浮
かびあがっていた。
あの氷のような男に、これほど熱いものが眠っていたとは思ってもみなかった。
その炎のような美貌を、俺は賛嘆の念さえ抱きながら阿呆みたいに見あげていた。
こりゃダメかな、と、むしろ楽しげにさえ思いつつ俺も身を起こそうとした時――
げぶ、と唇を割って、大量の血がケイオスの口もとからあふれ出た。
がくり、と膝をつく。そんな動作までがどこか優雅で艶気があるのだからどうに
も許しがたい。
倒れこんだまま、目だけは闘志をうしなわずに俺を睨みあげた。
俺もまた、たまらない笑みを浮かべながら、立ちあがりかけた姿勢のまま口を開
いた。
「妹を返せ」
対して、ケイオスも血まみれの口もとにかすかに笑みを浮かべた。
「ダメだ。離さない」
まるで恋人のようなセリフを吐きやがる。
これほどの男になら、妹をまかせてやってもいい。
そう思いながら俺は、よろよろと立ちあがり、おきざりにした弓と矢筒に歩みよ
った。
<十二月>。
妹の誕生月だ。
ずきずきと軍楽隊のように痛みを奏でる、どうにもいうことを聞きたがらない全
身を、だましだましこき使い、俺は苦労して弓に矢をつがえた。<十二月>を。
「返さなきゃ、殺す」
す、と、ケイオスの顔から笑いが消え、あきらめたような無表情が浮かんだ。
平穏な、湖のような深い瞳で、見透すようにして俺を見つめた。
なぜか、たまらない哀しみが俺の胸にあふれた。
結末を無意識に予想していたのかもしれない。
そのまま、そうして俺たちは無言で見つめあっていた。
言葉にしようもない感情の交錯が、その視線の間には流れていたような気がする。
気のせいだったに決まってる。
ひき絞った弦が、無意識に俺の指の拘束から逃れて矢が放たれた。
なぜか涙をぽろりと、こぼしたような感触がした。
<十二月>は直線を描いて奴の胸へと飛び――
飛びこんできた人かげの、さし出した白い手のひらの前で、粉々に砕けて飛び散
った。
俺は驚かず、ただあきらめの視線でそれを眺めやっていた。
驚かない自分に、驚いてもいた。
知っていたのだろう。あるいは、この日のくることを恐れ、そして待ちのぞんで
いたのかもしれない。
想像する恐怖は、具象化さえしてしまえば、あきらめにかえることができる。
哀しげな顔で、静かに、ゆっくりと首を左右にふるう妹を前にして、俺は静かに
微笑んだ。
「麗子……」
ため息のような呼びかけに、俺からケイオスをさえぎるようにのばした手を降ろ
し、そして妹は、真顔で口にした。
「お兄ちゃん……。もう、無理しなくていいの。あたしのためには……」
「ここに残るのか?」
微笑みながらの俺の問いかけに、麗子は唇を噛みながらうなずいてみせた。
俺もうなずきかえし、へ、と自嘲の笑いを浮かべて拳をあげ、片鼻をおさえて鼻
水をすすりあげた。
「元気で暮らせや」
言って立ちあがり、呆然と見やるアブーカジェリフと、えらいぞ坊主、とでも言
いたげな、はげますような視線を投げかける虎法師に向けてうなずきかけてみせた。
螺旋階段へと歩きかける俺の背に、お兄ちゃん、と麗子が呼びかけた。
ふりかえらず立ちどまる。
長い沈黙が、氷の王国にちりちりと降りそそぎ、そして――
「元気でね!」
しぼり出したような明るい声が、元気いっぱいにそう告げた。
俺は、唇の片端をつりあげ、目を伏せて笑った。
「おお」
ふりむかないまま手を上げて答え、階を降りはじめた。
18
下界では、さし染める曙光が世界を照らし出していた。
街路樹が陽光に幾つもの影を舗道に刻みこみ、コンクリートの階段に枯れ葉がか
さと音を立てて舞った。
汗ばむ額をぬぐい、立体交差の通りから降りる階段部分に腰を降ろしたタツと、
崩れかけたビルの壁に背中をあずけて眠たげな視線を向ける沙羅に向けて、けだる
く手をあげてみせた。
「なんでえ、その爺いは。敵じゃねえか」
虎法師を見ながら、どうでもいい、とでも言いたげな口調でタツが言った。
「もう敵じゃないらしい」
俺の言葉に、そうかい、と短く言ってタツは黙りこんだ。
「おまえ、勝ったのかよ?」
俺の問いかけに、タツは面倒そうにちらりと視線を上げてから、ため息をつきな
がら投げやりな口調で答える。
「剣ではな」
言葉に、俺は沙羅に視線を移す。
俺の目線に応えようとはせず、沙羅は崩れた都市の端からのぞく真白い陽ざしに、
まぶしげな目を向けていた。
俺は肩をすくめ、タツの足もとの階段に腰を降ろした。
アブーカジェリフは所在なげに宙に浮かび、虎法師だけが、どこか満足げに、そ
の巨体を堂々とそびえさせていた。
「あんたの方は、どうだったの?」
沙羅が、あらぬ方に視線を飛ばしたまま問いかける。
ん、まあな、と曖昧に言い、これじゃあんまりか、と思い直してつけ加える。
「終わったさ。麗子は、自分の意志で残ったよ」
ん、と沙羅は極端に短い返答をかえしてよこす。
「おめえの方は、よ? どうだったんだい、首尾は。隆二とは、ヨリ戻すのか?」
タツといっしょにここで待っていたことからして、答えの予想はつくような気も
したが、さっきのタツのセリフがひっかかってもいる。だから、あえて聞かずもが
なの質問を口にした。
長い間、沙羅は答えず、怒ったような視線を空に向けていた。
そして、ぽつりと言った。
「終わったの。あたしの方も」
そうかい、とつぶやくように言って、俺は膝を抱えて黙りこんだ。
だから、
『終わってはいない!』
多重音声の叫び声が朝の街路をどよもした時、とっさには反応できずただ呆然と
顔をあげただけだった。
「……泡幻童子――」
呆けたようなセリフを放つ俺の眼前に降り立った巨大な影は、もはや点滅する無
数の顔を持ってはいなかった。
かわりに童子は、ずれた傷口を無理やりつなげたような奇怪な禿頭の下に、胴を
得ていた。
青い獣の、胴を。
「おまえ――いや、おまえら……」
バカみたいなセリフを吐く俺に、嘲弄と憎悪を存分にこめながら泡幻童子は――
あるいは、青いクチイヌとの混合体は――激しい嘲笑を浴びせかけた。
『怨念が、私と、あの獣の肉体とをひとつにしたのだ! おまえに対する、怨念
がな!』
冗談じゃない。もう俺には、戦うどころか、立ちあがる気力すらない。
まして、泡幻童子には憎々しさは感じこそすれ、恨みなどない。美紀にいたって
は、同情と罪悪感さえ抱いている。とても力をふり絞れる状況じゃなかった。
『そういうわけで、死ね!』
だから、そんな間抜けな死刑宣告を飛ばしつつ奴が飛びかかってきた時、タツの
背中の酒呑童子が風のように、俺の前に立ちはだかるのを見て、心底ほっとしてい
た。
いりゃああ! と気合とともに重く、石の剣の一撃が朝の光に閃いた。
縦にふり降ろされた凶刃が、ずばりと巨顔に食い込んで走りぬけた。
「機嫌が悪かったところでな。ちょうどよかったぜ」
と捨てゼリフを浴びせかける前で、泡幻童子とクチイヌとの混合体が、身体の前
面をぱっくりと二つに裂けさせて血を噴き出した。
「あっけないねえ」
疲れたような声音で沙羅が言う。
だが、終わってはいなかった。
体の前面を裂けさせたまま、耳ざわりな笑い声を化物が立てた。
『われわれの憎悪は、切ったくらいではついえぬぞ!』
笑いながらわめき散らした。そして言葉とともに、青い獣の前足が裂けた傷口を
無造作に合わせやった。
ずれた断面からなおも血をしたたらせつつ、混成体の化物がさらにずい、と歩を
踏み出した。
「この妄霊めが!」
叫びつつ、アブーカジェリがヒンジャルで切りつけた。
禿頭の中年男の、額から片眼を経由してずれた顎先までを朱線が走りぬけた。
が、哄笑はやまない。
『先に切られて死なんものを、無駄を重ねるな! これ以上つぎはぎだらけにな
ってしまっては、あまりにもみっともないではないか!』
わめきざま、ごう、と霧を吐いた。
紫色の霧が、アブーカジェリフとタツ、そして襲撃をはばむようにして両手を広
げながら立ちはだかる虎法師にに向かって、まともに吹きつけた。
顔面を手で覆って身を折りながらうめきを上げる三人を尻目に、俺は「わっ」と
叫んであわてて立ちあがり、逃げた。
『逃さんぞ!』
もうもうと立ちこめる病んだ色彩の霧を割って、巨顔が躍動する獣体にささえら
れて踊り出た。
俺は沙羅の背中をおしながら逃げる。だが、馬鹿げた逃走経路を選択してしまっ
た。階段をのぼってしまったのだ。
後ろからはあれだけの巨体を運んでいるにもかかわらずほとんど足音さえ立てず
に、ひたひたと化物が迫り来る。
「沙羅、急げ!」
叫び、みずからも懸命になって足を動かすが、いい加減疲れ果てていたところへ
の階段のぼりなど、はかどるはずもない。
またたく間に嘲笑が肉迫し、突風とともに紫の煙が俺たちをつつみこんだ。
苦痛は、眼球から侵入した。視神経を裂きながらかき分けて頭頂にいたり、同時
に四肢からは力を根こそぎ奪い去っていった。
しぼり出したうめきは、熱風となって喉と口を焼いた。ついた膝から剣山を突き
立てたような激痛が迸り、吐いた絶叫がさらに脳天までを焼きつくす。
壮絶な効き目の毒霧だった。
俺は狂ったように闇雲に両目をかきむしりながら、背後をふりかえった。
ずれた傷口をてきとうに組みあわせただけの、禿頭の巨大な顔が、心底うれしげ
にニタアと笑った。
『おまえは、死ね』
至上の悦楽を言葉にかえたような口調で宣告し、怪物は唇をすうとすぼめた。
「沙羅!」
と叫びながら乱入してきた声がだれのものなのか、最初はいっこうに理解できな
かった。
精悍と屈強を形にしたような男くさい顔よりも、その手が閃かせた白いセラミッ
クの刃が、姫を救いに現れた騎士の正体を思い出させた。
ずばりと音を立てて頬から獣の胴体へと斜線が刻まれた。が、まるで効かないこ
とはもう充分すぎるほどわかっていた。
それは隆二にしても同じだったらしい。嘲罵とともに毒霧が吹き出されるより速
く、ぐったりと倒れてうめく沙羅の体を抱えて、騎士はすばやく後退する。
隆二に向けかけた唇を一瞬、怪物はくやしげにねじ曲げた。
が、すぐに至福の微笑を浮かべつつ、俺に凝視をあびせかける。
『ようやく、ふたりきりになれたな』
不気味なセリフを吐きやがる。
「あまり歓迎したい状況じゃないな」
あきらめたような口調で、俺はきりかえした。
化物は裂けた唇をぎゅうとつり上げて笑い、
『ぞんぶんに苦しんで死ね!』
叫び、唇をすぼめた。
細めた目で、遠いものでも見やるように怨恨の妖物を眺めながら、俺は腰をおろ
した。
どのみち、この状況では反撃のしようもないが、殺されてやってもいい、と奇妙
に平安で投げやりな気分が、俺を支配していた。
だから、禿の巨顔が頬をぷうとふくらませて唇をすぼめた間抜けな表情のまま、
いつまでも最後の攻撃をかけてこないのを見て、何をぐずぐずしてやがるんだと、
いらだちさえ感じた。
凍りついたように怪物はなおも数瞬、そのままの面つきで硬直し――やにわに、
後頭部からボウと炎を発しながらどさりとうつぶせに倒れ伏した。
何が起こったのかさっぱりかわからず、阿呆みたいに俺は目を見ひらいた。