#2547/5495 長編
★タイトル (HHF ) 94/ 3/22 15:39 (136)
月夜話、其之拾壱 「白い花」(2/3) ■ 榊 ■
★内容
「うん、でもその子の命を預かるんだから、やっぱりそれだけの覚悟がなくち
ゃね」
彼女はそういって、ミルクをなめ続ける子犬の頭を優しくなでた。子犬は少
し首をすくめ、彼女の手に頬をあてるようにすり寄った。
「そうだな。前に飼っていた犬が死んだときは、さすがにもう飼いたくない、
と思ったなあ」
「何犬?」
「柴犬、ごくよくいる感じで、凄く賢かった」
「うんうん」
「戦艦ヤマトが好きだったから、『ヤマト』ってつけたんだ。十二才で死んだ」
犬をなでる細い指先が止まった。
ゆっくりと顔があがり、慎也の表情をうかがうように見つめてきた。
「辛かった?」
「辛いというより、寂しかったな。あれからもう、何か飼う気にはなれなくな
った」
彼女は深くうなずいて、なぐさめるように少し微笑んでくれた。
「僕の最初はね、金魚。露店ですくい上げた、大きくて真っ赤な金魚だったけ
ど、餌のやり過ぎですぐに死んじゃった。それからしばらく、お魚が食べられ
なくなった」
ミルクを飲み終わり、じゃれてきた子犬を抱き上げながら、彼女は言葉を続
けた。
「次はノラ犬。成犬だったけど痩せてて、食事をあげたらなついちゃったの。
ほとんど居候状態になって、マラソンに一緒に連れていったりして……縁の下
で冷たくなっているのを見つけたときは、ショックだった」
慎也は彼女の顔色をうかがってみた。
笑いもしない、悲しみもしない。死を耐えるような表情のない顔で、近くに
生える草を見つめていた。
「今はなかなか一緒になる勇気が無くて、物を大事にしているんだ」
「たとえば?」
「うーんと……竹刀、長刀、胴着、パジャマ、スヌーピーのついたシャープ、
雲の模様の入ったグラス。それにこのシューズとか」
彼女はそういって、誇らしげに使い込まれた白いマラソンシューズを見せて
くれた。
物は使い込めば愛着がわき、使いきれば自然と離れる決意がつく。
沢山の「好き」な物たちに囲まれた生活をしている彼女の姿を思い、慎也は
ふと羨ましく思った。
「俺にはないなぁ。考えてみると」
「何も?」
「うーん。昔は、自転車がそうだったけど、今は廃車寸前で新しいのが欲しい
しな」
「部屋を見渡してみると、意外にあると思うよ。大事なものが」
彼女は犬を土の上にそっと起き、立ち上がった。
姿勢がいい。
心地よい緊張感のあるたち振る舞いなのに、なぜか包んでいる雰囲気は温か
かった。
「ちょっと心配だけど。大丈夫だよね、この子」
「あっ、ああ……俺も家では飼えそうにないけど、ときどきはミルクを持って
くるよ」
そんなまめな男ではないことは自他共に認めるところであるのに、彼女の前
では自然にそんな言葉が口から出てきた。
口に出したあとやっぱり面倒かなと後悔したが、彼女はちょっと飛び上がっ
て喜んで、慎也は手を握られてしまった。
「有り難うっ! 僕、いつも違うコースを走ってるから、もうここを通ること
なかったんだ。この先の千石寺へ行くための通り道だったんだけど、明日から
西新井の方を走る予定だったから」
「もう、ここを通らないの?」
「街全部走り終わったら、また来るつもり。ちょっと時間かかりそうだけど」
彼女はそういって笑った。
慎也は明らかに残念そうな顔をしてしまったらしい。
「あっ、でも僕、白石に住んでるし、学校も隣じゃない? 見かけたら声かけ
てね! 自己紹介遅れたけど、僕、神無月萌荵っていいます」
「神無月?」
「うん」
「……もしかして、あの美人三姉妹と噂の」
彼女はくすりっと笑い、
「美人かどうかは解らないけど、その三姉妹の次女。よく男の子に間違えられ
るけど」
それほど大きくはないこの街において、神無月三姉妹の噂は一度は聞いたこ
とがあるものである。その中でも歳の近い次女の噂は、隣の学校といえども伝
わっている。
ようやく落ちついてきた慎也の頭は、彼女のひとことで再び真っ白になりは
てた。
「あなたの名前は?」
「あっ、まっ、牧野慎也」
「牧野さん、じゃあまたねっ! ちびちゃんのこと、宜しくっ!」
呆然と立ち尽くす慎也と、それにまとわりつく子犬をあとに、彼女はあの軽
やかなステップで走り去ってしまった。
「……どうしたの」
台所に帰ってきた慎也だが、心はそこに存在していなかった。香緒の言葉で
ようやく我を取り戻し、今度はいそいで今までの事情を説明しだした。
「ふうん。つまり、『神無月三姉妹』の一人に声をかけられたわけね」
あまり感心のない香緒は、温かなコーヒーをゆっくりとすする。それでも、
あまりにも慎也が興奮しているので、儀礼的な気持ちとわずかながらの興味を
持って、香緒は質問してあげることにした。
「それで、噂どおり美人だった?」
「そりゃあもぉ。姉貴などとはちょっと……」
香緒の手が一閃し、机にあったハンドバックは容赦なく慎也の顔に炸裂した。
次の日の夜。同じ時間に、慎也はミルクを持って外に出た。
外は少し冷え、人肌の温かさのミルクはほんのり湯気を立てていた。
野原に足を踏み入れ、「おーい。ちび」と少し探すと、木の下の茂みに小さ
くくるまっているを見つけた。
ミルクの入った皿をおく。
子犬は頼りない足どりで皿まで近づくと、嬉しそうにミルクをなめ始め、安
心した慎也はほっとため息をついた。
「たくさん飲めよ」
慎也は一人そう呟いた。
その時、ふと背後で足音がした。振り返ってみると、萌荵が塀の横から顔を
ちょこっと出していた。
「心配できちゃった」
萌荵の笑顔に、慎也の心臓は急に高鳴り始めた。
「横、行っていい?」
「そんなこと気にするなよ」
手招きをすると、萌荵は体を丸めてそそくさと、慎也の横へと入り込んでき
た。
子犬は一度を皿から顔を上げたが、近寄ってきたものが萌荵だと解るとまた
すぐにミルクを飲み始める。子犬にとって二人は、もうすでに安心できる存在
になっているらしい。
二人と子犬のあいだには、白い息のようなあたたかな空気が流れゆき、足下
からくる冷気さえも今は心地よく感じた。
言葉を交わすことなく、二人はいつまでも座り込んでいた。
次の日。
慎也は寒い台所で、みるくを温めていた。
「人肌、人肌」とミルクに指をつっこみながら、子犬の様子と萌荵を思いだす。
外に出ると、寒さはいっそうこたえる。
慎也は寒さを吹き飛ばすように、野原へ駆け出した。
草葉をかき分け、木の下にたどり着くが、そこに子犬はいなかった。
「あれ?」
吐く息が白い。ミルクからの柔らかな湯気が、顔に当たる。
ミルクの皿を下におき、慎也はあたりを探し回った。
「ちびっ」
草をかき分け、そんなに広くない野原を隅から隅まで探し回る。
でもいない。
慎也は、道路に出て近くを探してまわった。
家の中を覗き、近くの他の野原を探し、公園を過ぎる。
再び戻ってきて、ミルクをなめる子犬がいないかと、かすかな期待を込めて
木に近寄るが、そこには冷めてしまったミルクがあるだけだった。
慎也は、木の下に座り込んだ。
いつか、帰ってくるかも知れない。