#2543/5495 長編
★タイトル (HHF ) 94/ 3/22 15:18 (172)
「家族になりたい2」 ( 9/10) ■ 榊 ■
★内容
昼頃になってようやく目を覚ました悟は、瞬時に昨夜のことを思い出し、顔を真
っ赤にし口を手で押さえた。
「……やばい」
朝になって夜の行動を悔いることはよくあるが、これはその最たるものだった。
夜に書いた手紙なら、朝握りつぶせばすむ。しかし、夜書いた手紙をそのままポス
トに入れてしまったら、もう取り戻すことは出来ない。
悟は起きあがり、顔を洗うべくドアを開けようとしたが、この向こうでは水香に
いつ会ってもおかしくないことに気づくと、思わずノブに掛けた手の動きが止まっ
た。
「あっ、挨拶すればいいんだ。明るく、いつものように」
そうはいっても、なかなか開ける勇気は悟の体内からわき出てくれそうになかっ
た。
同じ言葉をゆうに二十回以上も繰り返し、ようやく決心のついた悟はドアを開け
た。
……神社によこしまな願い事ばかりがしたせいか、それとも恋の成就を嫌うご先
祖さまのあたたかいお計らいか、ドアの向こうには水香がいた。
「!」
百の言葉が頭の中を駆けめぐったが、一つの言葉も吐き出すことができなかった。
ただひたすら、二人は顔を真っ赤にして目を見つめた。
「すっ、水香」
ようやく発せられた一言に、水香は体をびくっと反応させ、身をひるがえして走
り去ってしまった。
階段を下りる足音を聞いて、ようやく悟は冷静になった。
海の部屋へ走り込んだ。
「海っ!」
海の部屋は一面本棚に埋め尽くされており、奥にある長細い机の前で、海は勉強
をしていた。
「何用だ……と言っても、お前が慌てる用といったら水香姉のことしかないか」
悟はドアを閉め、肩で息をしながら床に座り込んだ。海と二人で酒を飲むのは、
いつもこの場所だった。海も椅子から降り、向かいに座った。
「昨日のことか?」
「なぜ解る!?」
海は肩をすくめて見せた。
「二人してあんな顔で帰ってきたら、誰だって解る」
悟はおもわず顔を触った。十分に顔を冷やしたせいか、それともそれほど大した
パンチではなかったのか、目のあたりが少々腫れ、頬の絆創膏が痛々しいほかは、
目立った傷は見られなかった。
「あっ、でも傷のことじゃないぞ。雰囲気だよ。兄妹の一線でもこえたのか」
海の洞察はあい変わらず鋭く、悟は少々慌てた。まるで隠れて見ていたかのよう
な口振りだが、海にとっては「そのぐらい解って当然」と言わんばかりだった。
悟はかいつまんで、昨日の出来事を話した。
「それは、おめでとう。良かったな」
表情一つ崩さず、悟の肩を叩く。
「よかないっ! おかげで、水香は顔をあわせただけで逃げ出した」
「さもありなん。水香姉にとっては何もかもが初めての体験だからな」
「初めての体験?」
海はゆっくりとうなずいて見せた。
「デートも、心が揺れるのも、好きになるのも、キスするのも。今頃はそんな自分
に戸惑って、わけが解らなくなっているんじゃないか?」
「……」
「もし少しゆっくり構えればいいさ。向こうの考えが落ちついてから、話をすれば
いい」
海はそういって立ち上がり、また椅子に座りなおしてしまった。もう言うことは
ない、という雰囲気だった。
海は状況を冷静に見渡し、的確な指示を出していることは、悟にも理解ができた。
悟はようやく、少しばかり落ちつくことができた。
言葉通りに実行できるかは解らないが、
「努力してみるよ」
それしかないのだから。
「うん。……精いっぱいやれよ」
海の言葉に、悟は笑ってうなずいた。
水香は、母親とともに店の手伝いをしていた。
昼間の喧噪が過ぎ、ようやく客もいなくなった三時前のこと。夕方の用意と昼間
の片づけのために、二人の手は動き続けていた。
手伝い始めてからこれまでの間、水香はまだ一言も発してはいない。水香は決し
ておしゃべりな方ではなかったが、無口であるわけでもない。
隙を見て、弥生は横目でちらちらと自分の娘を観察した。水香は何やら思案して
いるらしい。
ただその様子は悩んでいると言うよりはむしろ、波ひとつ立っていない湖を見つ
めているような表情だった。
瞳が澄み、落ちついているけど、意識はここにない。
口を出すべきかどうか弥生はしばらく考えていたが、ようやく好奇心が不安をこ
え、声をかけることにした。
「水香、どうしたの?」
「……うん?」
「何か悩んでいるの?」
「いや……悩んでいない。むしろ、何も考えられない」
いつもより、ゆっくりとした口調だった。弥生はおもしろがって、娘の横顔をじ
っと見つめた。
「悟さんと何かあったんでしょう」
水香はびっくりして、弥生を見た。的にえたことを知った弥生は、嬉しそうに笑
った。
「綺麗になった。たった一晩で、女らしくなった。悟さんを好きになったんじゃな
いの」
「わっ、わかんない」
頬を薄紅に染め、水香はうつむいた。何も考えることができず、胸だけが鼓動を
打つ。
「あまり深く考えちゃ駄目よ。自分の気持ちを見つめて、心を偽らないようにね」
弥生はくすくすと笑いながら、娘をながめた。
優しい、澄んだ瞳で、遠くを見つめる水香に、横あいから陽が射している。
背筋をきれいに伸ばし、少しうつむいたその様子は、茎を長く伸ばした花のよう
だった。
静かになった店内に道ばたで遊ぶ子供の声がし、風が止まっているかと思われる
ほど穏やかに漂っていた。
ふと止まるかと思われた時の中で、すこし大きめの廊下を歩く足音が聞こえた。
そんな足音をたてるのは、一人だけである。
「弥生さん、買い出しに行って来るよ」
「悟さん」
水香が振り向き目を合わすと、悟は恥ずかしそうに笑って頭をかいた。そして悟
は視線をはずし、弥生のもとへ歩いていく。
ご飯をいっぱい詰め込んだみたいに胸が苦しい、と水香は思った。色気はないが、
それが一番水香にふさわしい表現だった。
弥生はさらさらと紙に必要なものを書き記すと、悟に手渡しこういった。
「水香と行ってらっしゃい」
はにかんだ後、悟はうなずいた。
家の屋上。
春のあたたかな風にさらされながら、海と玲は並んで座っていた。
二人の視線の先で、悟と水香が寄り添いながら家の前の道を歩いていく。つかず
離れず一定に距離を保ちながら、二人は近くの角を曲がり、その姿は見えなくなっ
てしまった。
「うまくいくといいんだが」
「好きあっているなら、きっとうまくいくよ」
玲のつぶやきにに、海はうなずいた。
海は、二人が歩いていった方向を見つめ続けた。
心配しているのではない。
海の心境はむしろ魚を待つ釣り氏のように、結果が出ることを無心に待つものに
近かった。
釣れるときはたくさん釣れるだろうし、一匹も釣れないこともあるだろうが、帰
りに魚屋に寄るべきかどうかは、結果が出てから考えればすむことである。
水香と悟がうまくいくかどうか今は待とう、と海は考えていた。
玲はずっと海を見ていた。
「教室ではあんなに独りなのに、他人のことばかり考えているんだね」
「……ああ、まあ」
「なのに、私のことは全然考えてくれないの?」
「えっ?」
玲がにじり寄った分、海は後ずさってしまった。海が相手の迫力に対抗できない
のは、唯一玲だけである。この子のパワーはどこからやってくるのだろうか、海は
真剣に悩んだことがある。
海が先を読めないのも、唯一玲だけだった。
玲はいきなり膝で立ち、人差し指を空に向かって上げた。
「神に誓う。私は、海が好きだ」
真剣な力の入った声を聞いて、海は目を白黒させた。玲の行動を意味を理解する
ことはできないが、冗談ではないことは解る。
「多くは望まないけど、せめて海君の気持ちを海君の口から聞きたい」
語尾が少しふるえている。
緊張している玲の心臓の音が、ここまで聞こえてくるかと思った。
海の気持ちをどうしても知りたくて、こんな思い切ったこと質問の仕方をとるし
かなかったことを、ようやく海は悟った。
真剣に答えなくてはいけないのは解っている。でも、玲の真剣さとまっすぐさを
見て、微笑ましさのあまり海は笑いたくなった。
ほんの少し頬をゆるませ、海は静かに語りだした。
「生まれてから今に至るまで、俺は好きという感情を味わったことがない。初恋も
まだだし、憧れもない。それは玲に対してもそうだ」
別れの言葉にも聞こえる内容を、なんの抵抗もなくいい放った。玲はそのことは
すでに解ってたことなのに、胸が痛くなるのを感じた。
体がふるえ、一粒だけ涙が出た。
空はまだ青かった。
それはどこまでも透明に近い色で、ただ雲だけが白く漂っていた。
「俺は物心ついたときから笑ったことがない。笑う感情が欠落しているのだろうと、
疑いもしなかった。目の前にあるのはただ理論であり、事実であり、何も意外なこ
とはなく、悲しむことも嬉しいこともなかった」
その海が一度だけ笑った。
たわいもないことだが、ある日の夕方のこと。珍しく外を歩いていた海を、玲が
偶然見つけた。
「海くぅーん!」と叫びながら玲はつっこむように走ってきて、そして、何もない
ところでつまずき、海の目の前でおもいっきり転けた。
あまりのことに数秒絶句した後、海は吹き出して笑った。
こんな単純なことに何を笑っているんだ、と思ったのは海の方だったが、笑いは
止まらなかった。
玲は鼻の頭に擦り傷を作りながら、不思議そうに海を見あげたのだった。
海は言葉を続けた。
「俺の笑い顔を見たことがあるのは、一人しかいない」
少し微笑んだ海は、涙をためた玲の瞳を見つめた。
「大事に思っている」
誰も見ていない屋上で、ようやく緊張の解けた玲は涙をこぼし、海は微笑みなが
ら大事そうに、玲を抱きしめた。